10
突然のお誘いに、エレノーラの思考は疑問符だらけ。何処へ連れて行かれるのかと大人しく従っていたところ、着いた先は皇城の裏手だった。
人がおらず変哲のない場所だが、隅には見事な大樹が鎮座している。大樹の前にせっせと布をセッティングしたキリアンが、「おいで」と手を差し伸べてきた。
(落ち着くわ……)
ふたり並んで、瑞々しい景色を眺めた。辺りは静寂に包まれ、時折風にのった葉が、心地良い音を鳴らす。
時の流れに身を任せていると、ゆっくりと心が凪いでいく。たまには立場も感情も捨てて、すべてを忘れる時間も必要かもしれない。
きっと、キリアンも同じなのだろう。
「ここは、君と初めて出会った場所なんだ」
「え? わたしたちが顔を合わせたのは謁見の間で……」
「実はあの日が初めてではないんだ。私たちは10年前に会ってる」
キリアンはカゴから、サンドイッチや果物をプレートに用意しながら、エレノーラに微笑みかけた。
特にサンドイッチは、野菜とチキンソテーの盛りつけが見事で、バターの香りもほど好く食欲をそそる。
「君は幼かったから覚えてないか」
「あ、その、わたし幼いころの記憶がなくて……」
サンドイッチを受け取りつつ、うつむき加減で言葉を紡ぐ。鞭打ちのみならず、殴られることもあったせいか、幼い頃の記憶はほぼない。
エレノーラは忘れることで己を守った。平気なフリをして、自分が悪いのだと思い込んで、諦めたほうが楽だったから。
「大丈夫だ、エレノーラ。なにも言わなくていい」
何気ない一言。でも、胸をきゅっと穿たれた。
おそらくキリアンは、エレノーラの過去を知っているのだろう。醜い身体も、否定的な性格も、受け入れてくれたのはキリアンだけだ。
目頭が熱を持ち、誤魔化すようサンドイッチを口にする。味がわからないのが惜しい。
無心で頬張っていたところ、果物の破片が飛んでいくのが、視界の片隅に映り込む。
チラリを目を這わせると、キリアンが林檎を握り潰していた。なにが起こったのか。また味がわからなくなった。
「あの、キリアン……?」
「ん? ああ、エレノーラ。心配はいらない、君の不安はすべて排除しよう」
(なんのこと……?)
小首を傾げてキリアンを覗き見た。満面の笑みは宝石のようだが、言葉の意味は理解しかねる。
もしかすると、過去のことで気を遣わせてしまったのかもしれない。罪悪感に苛まれ、ハンカチで果汁だらけの手のひらを拭き取っていく。
「ところでキリアンは、ずっとわたしを覚えていたのですか?」
「忘れたことはない。君は、私の救いだったから」
大きな手のひらに、ぎゅっと包まれる。指の長さも無骨さも、エレノーラとはまったく違う。
反応を確かめながら触れてくるから、大切にされているみたいで、体温が上がっていく。
「3年も戦場で過ごしていると、なにも感じなくなるんだ。誰を殺そうと、誰が死のうとね」
淡々と語るキリアンは、他人事に等しい口調。多分、キリアンも期待を捨てて、生きてきたのだろう。
心に亀裂が入る前に、壁を作り、ずっと孤独だったに違いない。その辛さは誰よりもよく知っている。
「あの時は戦場から帰還して間もなく、私の魔力は常に乱れていた。でもね、君に触れていると落ち着くんだ」
魔力の乱れは暴走の前兆だ。キリアンは城から抜け出し、ひとりになろうとしたところ、エレノーラと出くわしたのだろう。
10年前といえば、キリアンは15歳。どんな顔をしていたのか。少年らしく可愛かったのか。覚えていないのが残念に思える。
「エレノーラ、赦してくれとは言わない。だが、私の傍にいてくれないか……?」
手を握り締めたまま、らしくなく乞い願う姿。顔色を窺いつつ近づき、誓うよう金糸に唇を寄せる。
無駄のない動きは優雅でも、表情には硬さがあった。熱を帯びた眼差しとは反対に、耳朶を掠めた指先が冷たい。
キリアンの緊張が感化してしまったのか。触れられて、見つめられて、心音が暴れ出す。
落ち着かせるよう深く息を吐き、エレノーラは口を開いた。
「……結婚を後悔されていたのに?」
「ぁ、そう、だな……君を傷つけるとわかっていたら、結婚はしたくなかったよ」
「なのに、傍にいてほしいというのですか?」
「気づいてしまったから……傷つけようと哀しませようと、手放してやれないと」
額や鼻先、手の甲にぬくもりが落とされ、甘さが浸透していく。
過去のしがらみや縛られた生き方。互いに失ってしまったものが多くても、支え合えたなら、ひとつひとつ取り戻せるのではないか。
信じることは簡単じゃない。けれど、キリアンは行動で示してくれている。妻ならば、応えるべきだろう。
「わたしは、まだ怖いです。期待だけさせて裏切られたらと思うと、辛くなります」
「ああ、私のせい、だな……」
「だから、信じさせてください。ずっと、傍で待ってますから」
しかと聞き届けたのだろう。キリアンは目を見開くと、唇を緩め顔を綻ばせた。
ゆっくりと胸の奥に熱が広がる。キリアンの笑顔に、閉ざされた心が溶かされていく。
ふと、辺りが蒼白い光に照らされた。聖剣を翳したキリアンが、なにやら語りかけている。
「あの、なにを……?」
「クレメンテは誓約を刻むことができる」
「なんの誓約を」
「まずは証として君に心臓を捧げ」
「え、いら、要らないですっ!」
すぐさま止めに入り、事なきを得る。冷や汗まみれになりそうだった。首を傾げてエレノーラを映す瞳が、「何故?」と言っている。
(全然、伝わってないなんて……)
とてつもなく不器用な男、戦鬼のグランドマスター、キリアン・イネス・エヴァレスト。
彼を知るには、まだまだ時間が必要だとエレノーラは悟った。
◇◇◇
人の心とは、水のように掴みどころがない。
キリアンにとっての恐怖は、エレノーラが居なくなることだ。だが、エレノーラは違う。ひとつのミスで脆く崩れ去る。
戦ならば相手の動きを読むのは容易だった。すべて消し去ってしまえばいいから。
しかし、エレノーラの心は砂のようで、掴んだと思えば手のひらから抜けていく。
(君のいない世界に、なんの意味がある?)
要か、不要か。キリアンの思考はふたつにひとつ。エレノーラ以外は其処らの無機物と変わらない。
とはいえ、約束を交わしたからには、今までのような考えでは嫌われる。
無心で黒い薔薇の棘を、排除。排除。排除。茎を握り締め、ラッピングされた箱目がけて一気に拳を振り下ろす。
見事にリボンの中心に薔薇が刺さった。素晴らしい出来映えだ。これならばエレノーラも喜ぶ。
思わず微笑みが漏れたとき、人の気配がした。おそらくローレンスだろう。
「まだ起きていらしたとは……夫人は?」
「先に眠っている」
月明かりと、オレンジ色のランプが照らすだけの室内。光に合わせて、人影がゆらゆらと揺れる。
メッセージカードを前にペン先が止まり、インクが滴り落ちた。やはり、言葉にするのは難しい。
どのように綴れば、胸の内を焦がす想いを、秘めた激情を、伝えることができるだろうか。
インクが滲み、黒い波紋が広がるカードを処分する。頬杖をつき耽っていると、ローレンスが書類を手渡してきた。
「なんだこれは」
「デートに誘えとは言いましたが、裏庭で散歩しろとは言ってません」
ローレンスが乱雑に髪を掻き毟りつつ、書類を指差す。レストランやドレスショップ、宝石商の名がずらりと並んでいた。
人付き合いなど面倒で考えもしなかったが、仇になるとはなんという失態だろう。とうとうキリアンは、額を押さえて沈黙した。
「店を見て回るだけで気晴らしになるでしょう。一応、2枚目には書店もリストアップしています」
「ああ、すまないな……」
もしや数日前のデートは失敗だったのか。喜んでいたのは表面だけで、エレノーラは満足していなかったかもしれない。
書類の内容は頭に入ってこなかった。
「ところで、これはなんです?」
ローレンスの視線の先には、贈る予定のプレゼントがある。薔薇の生えた箱を見て、にっこりと微笑みかけてきた。目は笑っていない。
「絶対に、贈らないで、くださいね?」
息を詰めて眉根を寄せる。プレゼントの中身は大切なものだ。贈るなと言われて、簡単に引き下がれない。
「何故だ?」
「夫人とまた仲違いをしたいのですか? 薔薇を贈るなら花束にしてくださいよ」
「花束、だと……?」
キリアンはハッとなり、膝を打つ。呆れた視線を気にもせず、ローレンスに向き直る。
「さすがだな?」
「普通ですよ。むしろ、何故思いつかないのですか」
とはいえ、花束では味気ない。ソファーに凭れて天を仰ぐ。
いい方法はないかと逡巡するが、一向に浮かばないとは。我ながら役に立たない頭だ。
「ローレンス、皇都中から薔薇を買ってきてくれ」
「はぁ、俺が悪かったです。1輪だけ用意をして、髪に挿して『綺麗だ』とでも言って褒めるんです。いいですね?」
「……慣れてるんだな?」
「子どもでも知ってますよ」




