表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/11

第8話:一ノ瀬直也

 ダボス会議でのオレの役割は、一応終わったと言っていいだろう。


 最終日まで残って全講演を聞くことも考えないではなかったが、

 保奈美へのプレゼントを探そうとホテル近くの土産物屋で買い物をしている際に、

 中国のエージェントらしい人物――劉美琳(Liu Meilin)と名乗る女性――との接触を受けたことも踏まえて、オレは予定を切り上げて帰国を早めることにした。


 総合商社は綺麗事のビジネスだけをしているわけではない。

 だから現地国の要人との関係性によっては、身に危険が及ぶ可能性もある。


 ただ、スイスのダボス会議の後で、中国のエージェントらしい人物の接触を受けるのは尋常とは言い難い。相手は明らかにオレ自身をターゲットとしてアプローチしてきたのだ。

 こういう時は、一旦距離を置くのが正解だ。


 その日のうちにチューリッヒへ移動し、羽田行きの便を待つことにした。

 搭乗まで少し時間があったので、空港ラウンジで赤ワインを楽しんでいた。

 そこでようやく人心地ついたのだった。


 GAIALINQに関するオレの講演の反響は大きかった。

 今後、日米でのプロジェクトをベースとしつつ、より広域での展開を目指すような場合にも、プラスの影響が期待できる程度の評価は得られたのではないだろうか。


 オレは赤ワインを飲み、そして保奈美の笑顔を思い浮かべていた。

 ――一週間ぶりになるのか。

 レストランで食事をするとき。

ホテルの部屋で身支度を整えるとき。

 そこここで、保奈美がどれだけ普段オレの日常生活を支えてくれているのか、実感することが多かった。


 (どうも、すっかり保奈美に甘やかされ、それに慣れてしまったようだな)


 柄にもなく、オレはそんな自分の内省に苦笑いを浮かべていた。

 と、そのとき――隣に座った女性が静かに声をかけてきた。


 「――失礼ですが、一ノ瀬直也さんでしょうか?」


 オレは最近では「顔バレ」が増えてきたので、丸メガネを着用している。

 伊達メガネというやつだが、そうそうバレないと高を括っていたため、いささか驚いた。


 そこにいた女性が――滝沢ミラだったのだ。

 経済誌に出ていた記事を少し読んだ程度の知識しかなかったが、

 いかにもモデルらしい華やいだ雰囲気がある。


 「まさか、あなたにお会いできるなんて……」

 滝沢ミラは、少し息を整えながらそう言った。

 その声は、映像で見るよりもずっと穏やかで、少し疲れているようにも感じた。


 「一ノ瀬さんのGAIALINQの講演、拝見させて頂きました。

 “持続可能性”を単なる綺麗事の理念としてではなく、現実の経済構造に矛盾なく落とし込んでいた。

 ああ、これが本当の“サステナビリティ”なのかと、心から思いました。」


 彼女の言葉に、オレは軽くうなずいた。

 「ありがとうございます。

  ただ、あれはいきなり出来上がったというよりも、 “無理のない仕組みをつくる方法

を模索していく中で、結果として出来上がっていったというだけの話ですよ。」


 ミラはグラスを両手で包むように持ち、しばらく黙っていた。

 ラウンジの照明がワインの赤に反射して、微かに揺れている。

 その横顔は、どこか迷いを含んでいた。


 「……やっぱり、そういう考え方ができる方なんですね」

 「そういう、とは?」

 「“現実を壊さない理想”を実現する、その方法を考えられる人。

  私も、同じように見えて、少し違う世界で悩んでいるんです。」


 ミラは少しだけ笑った。

 その笑みは、どこか自嘲気味で、モデルや起業家として見せる“完璧な笑顔”とは違っていた。


 「私の会社、“Élan Mirable”はサステナブル・ラグジュアリーを掲げて活動しています。

  でも、理念だけでは資本も売上もついてこない。

  スポンサーは“ストーリー”を求めます。

  理想を語るほど、経済は遠ざかる。――だから、悩むんです。」


 「理想を手放したくないけれど、現実を無視する訳にはいかない」

 オレが言うと、彼女は驚いたように顔を上げた。


 「……その通りです」

 「それはビジネスをしている限り、避けられませんよ。

  理想と現実は本来は、必ずしも相対峙する関係ではない。

  むしろ、どこで折り合いをつけるか――その点に誠実であるかどうかだと思います。

まぁ、オレ自身もそこまで偉そうに言える立場ではありませんけれどね」


 ミラは深く息をついた。

 その表情に、ほんの少し安堵の色が差した気がした。


 「……一ノ瀬さんは、いつもそんなふうに“正しい答え”を見つけてしまうんですね」

 「いや、全然そんな事はありませんよ。

  ただ、問題を見つけると、どうしても構造で考えてしまうクセがあるというだけの事です」


 彼女が微笑んだ。

 少し沈黙があって、ワインを口に含み、何かを決意したようにオレの方へ向き直った。


 「――実は、もう一つ、相談させて頂いてもいいですか?」

 

 彼女はAmason Streamの《The Queen’s Choice》っていう、恋愛リアリティ番組に出ているが、配信はこれから開始される予定ではあるものの、収録は既に終盤に来ているというのだった。


残った候補は二人にまで絞られていて、その二人と本当にお付き合いする気持ちは乏しく、その先に結婚を見据えられるとは思えないというのだった。


 「もう最終回の撮影だけが残っているんです。

  番組側は、どちらかを選ばないと成立しないって、圧力をかけてくるんですよ。」


 恋愛リアリティーショーの問題点は、本来もっとも私的な感情の問題である筈の『恋愛』を見世物そのものにしている点にある。


 与えられた選択肢の中から、相対的に優れたものを選択してきた結果、「選んだ」「選ばれた」という実績が積み重なっていく。でもそれは本当に自身にとっての大切な相手として選んだと言い得るのかどうかが曖昧なまま、その積み重なった結果への責任が今問われているという訳だ。


 「……滝沢さん」

 「はい」

 「どんな理由でも、自分を偽らない方がいいと思いますよ。

  番組は一瞬だけど、自分自身に嘘をついた記憶はずっと残るでしょう。

  あなたが本当に“誠実な人”なら、それだけは避けた方がいいと思います。」


 ミラはゆっくりと頷いた。

 そして、静かに言った。


 「――そう言ってもらえる気がしてました」


 その声には、少しだけ震えがあった。

 彼女のグラスの縁が、ワインの赤を受けて光った。


 美しくて、聡明なはずの彼女が、

 仮に彼女自身の判断によって、この恋愛リアリティーショーに参加していたにしろ、

 番組の都合で追い込まれているのは――正直、気の毒に思ったのだ。


 彼女の話を聞きながら、オレは番組制作に伴うルール、出演者に求められる契約の制約を頭の中で整理していた。

 滝沢ミラは《The Queen’s Choice》の「逆指名制度」が、通常なら収録の序盤で使われる仕組みだと説明したが、オレはそれが、最終回を目前にした彼女にとっての逃げ道になるかもしれない”と考え始めていた。


 ――誰も選ばずに終われる形を、視聴者に嫌われない形で実現する方法


 ミラを救う手段として、この「逆指名制度」を用いる。その対象がオレ自身となる事を認める代わりに、それに実際に応じる事も、番組に出演することもできない事は説明し、当然了解を得た。その上で、 彼女が“逃げ道”を作るくらいの手伝いならできるかもしれないとオレは考えていたのだ。


 ミラは静かに頷き、グラスを置いた。

 「……それで十分です。そうして頂ければ、正直助かります」

 彼女の笑顔は、覚悟というより、救われた人間の安堵に近かった。


保奈美に、あるいは亜紀や、玲奈、麻里、莉子に、恐らく迷惑をかけてしまう事になるが、それは許してもらいたいとオレは願った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ