第4話:谷川莉子
朝のGAIALINQプロジェクトフロアは、どこか張りつめた空気に包まれていた。
コピー機の音も、マウスのクリック音も、妙に大きく響く。
全員が気まずそうに黙って仕事をしている。
誰もが――話題の中心を、避けていた。
Amason Stream《The Queen’s Choice》。
昨日の直也さんのコメント「不戦敗です」が世界的に話題をさらったあと、
番組側が“スタジオでの直接コメント収録”を正式にオファーしてきたらしい。
そして今朝。
GAIALINQ関係者が共有しているビジネスチャットに一文が掲載された。
>【社内共有】GAIALINQプロジェクトCOO 一ノ瀬直也氏、
>Amason社の要請により番組内コメント収録を実施予定(調整中)
――その“調整中”という文字が、火に油を注いだ。
「調整中って何!? “NO”でいいでしょ!?」
亜紀さんの声が、フロア中に響いた。
「GAIALINQのCOOを恋愛番組のネタにするなんて、あり得ないわよ!」
その隣で、玲奈さんがすぐに端末を操作する。
ビジネスチャットを開き、五井物産広報チームのチャンネルに確認を入れた。
そして――わずか数十秒後。
返ってきたメッセージに、全員の顔色が変わった。
《出演許可:社長承認済》
「……え?」
麻里さんが目を細める。
「“承認済”? どういうこと?」
「嘘でしょ……」
玲奈さんは、読み返すようにモニターを見つめ、そして冷たい声で言った。
「広報にちょっと出てきてもらいましょうか!」
数分後、五井物産広報本部の担当者がやって来た。
スーツの襟を何度も直しながら、明らかに落ち着かない様子だ。
「……あの、GAIALINQの皆さん、ちょっとだけご説明を……」
「“ちょっと”で済む話じゃないわよ」
亜紀さんが腕を組んだまま、静かに言った。
「一ノ瀬直也を“出演OK”にしたのは誰? あなた?」
「い、いえっ……社長です!」
「社長!? ……なんで!?」
「そ、それが……その……」
広報の担当者は額に汗を浮かべながら、視線を泳がせた。
「GAIALINQの一ノ瀬COO本人が、“これが一番きれいに幕を引ける方法だ”と仰いまして……社長も“彼がそう判断するなら任せよう”と……」
「――はぁ!?」
亜紀さんの声が、低く鋭く響いた。
「彼がそう言ったから? だから出すの!?」
「す、すみません……。私どもも止めようとしたのですが……」
(……やっぱり、そうなるんだ)
私は思わず心の中で呟いた。
また、直也くんだ。
いつだって、自分自身で責任を背負ってしまう。
玲奈さんが口を開いた。
「“幕を引く”って……つまり、Amason側の顔も立てて、世間的にも美しく終わらせるってことですね」
「ええ……おそらく、そういう意図かと……」
「でもそれ、直也自身が“盾”になるって意味よね」
麻里さんの低い声が重く響いた。
沈黙。
担当者はただ小さくうなずくだけだった。
亜紀さんが机を叩いた。
「……ほんとに、直也くんは……。なんで、いつも自分が火の中に入っていくの!」
私は視線を落とした。
手の中のマグカップのコーヒーが、かすかに揺れる。
(……だって、そういう人だからね)
直也くんは、戦うときはいつも“自分一人で済ませよう”とする。
誰かが傷つくくらいなら、全部自分が背負えばいいと思っている。
※※※
金曜日20時ちょうど。
GAIALINQプロジェクトフロアの会議室。
仕事に区切りをつけた私たちは、モニターの前に集まっていた。
タイトル画面には、大きく“Final Rose Ceremony”の文字。
Amason Stream配信番組『The Queen’s Choice』、今夜が最終回だ。
「……ほんとに見るの?」
私が言うと、亜紀さんがため息まじりに腕を組んだ。
「見ないわけにいかないでしょ。直也くんの名前が、番組の“裏テーマ”になってるんだから」
「……まぁね」
麻里さんはノートPCの通知を切り、
玲奈さんはポップコーンの袋を破った。
オフィスで恋愛リアリティを見るなんて、冷静に考えたらあり得ないけれど、GAIALINQプロジェクトは大きく巻き込まれた形になった。
だから、ここまで来たら最後まで見届けるしかない。
オープニングテーマが流れ、画面が暗転。
白いバラの花びらが舞い、MCのナレーションが響く。
「今夜、女王が最後の決断を下す――」
滝沢ミラが、静かな庭園のような会場に立っていた。
ドレスは深紅。
その前に、最後まで残った二人の挑戦者が並ぶ。
一人は世界的アートディレクター、もう一人はITスタートアップのCEO。
会場にはピアノの旋律が流れ、息をするのもためらうほどの静けさが訪れた。
玲奈さんが小声でつぶやく。
「……これ、いつも思うんだけど、過剰演出だよね」
「まぁ、Amasonだからね。演出費だけは桁違い」
麻里さんが淡々と返す。
私は息をひそめた。
なんとなく結末はもう予想できた。
画面の中で、滝沢ミラが口を開いた。
> 「この数ヶ月で、私はたくさんの人の想いと向き合ってきました。
でも――答えが出たのです。」
ローズを手に、一歩前へ進む。
挑戦者たちが一瞬、希望の色を宿す。
その空気を裂くように、ミラが微笑んだ。
> 「私、このローズを……誰にも渡すことができません。」
沈黙。
庭園の噴水の音だけが響く。
「……うそでしょ」
玲奈さんの声が漏れた。
麻里さんは手を止め、
亜紀さんが思わず前のめりになる。
「“誰も選ばない”!? 最終回でそれ、やる!?」
番組の中で、二人の男性は穏やかに微笑んでいた。
彼らも覚悟していたのだろう。
滝沢ミラは視線を落とし、震える声で続けた。
> 「私がこの番組で気づいたのは――
本当に素敵な人は、恋を“競わない”人だということです。
一番心を動かされたのは……ある方と空港のラウンジでお会いした時でした。」
「……へ?」
亜紀さんが低くつぶやいた。
> 「その方は、“私は不戦敗です”とおっしゃいました。
でも、その瞬間に私は悟ったんです。
戦わないことも、愛の一つの形なんだって。」
彼女の頬に、一筋の涙。
カメラが静かに寄っていく。
> 「だから私は、今日、誰も選びません。
私がローズを渡したかった方は――“不戦敗”を選んだ方です。」
……一瞬、時が止まった。
会議室の中も、同じように凍りついた。
「……は?」
麻里さんが声を上げる。
「いやいや、“空港で会った”? どこで!?」
「羽田? 成田? それともチューリッヒ!?」
玲奈さんが食い気味に言う。
「本人、会ってないって言ってたじゃない!」
亜紀さんは頭を抱えた。
「……もうダメ。これで世間は“運命の出会い説”確定よ」
私は、ただ黙って画面を見つめていた。
滝沢ミラの瞳の奥に、確かに“誰か”がいた。
演出じゃない。あれは――本気の人の目。
(……直也くん、どうしてこうなるんだろう)
スタジオの拍手が静まり、エンドロールが流れた。
> “To the man who chose not to fight —
> Thank you for teaching me what respect truly means.”
その英文がスクリーンいっぱいに映る。
会議室の空気が、一気に重くなる。
誰もが息を飲み、言葉を失っていた。
「……終わった?」
麻里さんの声がかすれる。
「終わったどころか……これ、始まったでしょ」
亜紀さんと玲奈さんは頭を抱えている。
私はモニターの光を見つめながら、深く息を吐いた。
(――また直也くんが、一人で全部終わらせちゃった)
画面の中の“敬意”という言葉が、妙に冷たく光って見えた。