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第2話:神宮寺麻里

 玲奈がタブレットを握りしめながら走ってきた。

 「麻里、出たよ! コメント出た!」

 「どこ?」

 「全媒体に一斉で出ている!」


 画面に表示されたのは、五井物産の公式発表――

 いや、正確には、直也本人によるコメント全文だった。


>「滝沢ミラさんのような素晴らしい女性からのご指名を、

>お受けできないという“野暮”をどうかお許しください。

>私はGAIALINQのプロジェクトCOOとして、

>まずはこのプロジェクトの使命を果たす責務があります。

>もしそれによって、このご縁の機会を逸してしまうなら――

>言ってみれば、これは私の“不戦敗”です。

>どうか、そのようにミラさんにもお伝えください。」


 読み終わった瞬間、オフィスが静まり返った。

 亜紀は一言も発せず、画面を見つめていた。

 玲奈は「……“不戦敗”って、何これ……」と呟いた。


 私は、ゆっくりと息を吐いた。

 (……こう来たのね、直也)


 彼はこういう時に、巧みに“勝ち”の定義をズラす。

 競争の土俵ごと書き換える。

 ――今回もそれだ。


 ディスプレイの右隅で、リアルタイム株価が跳ねた。

 五井物産+4.2%。

 GAIALINQ関連のサプライヤー株まで連動して上がっている。


 玲奈が叫んだ。

 「……上がってる! 時価総額が大きく上がってます!」

 「……やっぱりね」

 亜紀はため息交じりに答えた。

 「このから騒ぎを、“不戦敗”のコメント一つで“品格ある勝利”に変えたんだから、そりゃ市場はそう反応するわ」


 SNSを開けば、もう世界中のハッシュタグがそれで埋まっていた。


 #不戦敗の美学

 #恋愛偏差値100

 #NaoyaStyle

 #HeDeclinedButWon


“He declined love, but won the world.”

“This is how you say no—with grace.”

“He turned a PR disaster into a masterclass in diplomacy.”


 どこの国のメディアも、恋愛スキャンダルの鎮火というより、

 国際政治の場での危機対応みたいな論調になっていた。


 亜紀がぽつりと呟いた。

 「……ほんと、どうしてこうなるのかしらね」

 「“勝負しない勇気”って、意外と世界の人が飢えてたんじゃない?」

 私が答えると、玲奈が小さく笑った。

 「……なんかもう、恋愛じゃなくて宗教ですね」


 ふと、Amason公式のアカウントが更新された。


“Respectfully received. #NotAboutLove #Respect”


 “勝負ではない。敬意の物語。”

 Amason側が、まるで降参のような返しをした。

 いや、これは降参じゃない。

 ――“敗北の美学”を彼らも演出に取り込んだのだ。


 GAIALINQ専用会議室のモニターに、海外報道が次々と流れている。


“The man who made ‘No’ sound like love.”

“When silence becomes strategy: the GAIALINQ COO phenomenon.”


 その見出しを眺めながら、私は思った。

 あの人の“断り方”には、計算ではなく誇りがある。

 AIと地熱を結ぶプロジェクトリーダーである以前に、

 人間としての「筋」を外さない。


 ――だからこそ、惹かれる。


 誰もが勝つことばかりを求める時代に、

 あの人だけが“負け方”の美しさを知っている。


 亜紀が言った。

 「……なんか、これって恋愛じゃなくて、“哲学”ね」

 「ええ、“直也哲学”。でも正直、ちょっとズルいわ」

 私は微笑みながらも、胸の奥がじんとした。


 “負けて、勝つ。”

 ――それが、あの人の戦い方。


 GAIALINQ専用会議室の空気は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。

 でも、心のざわめきは誰も消せていなかった。

 “負けて勝つ”――その意味を、全員が噛みしめていた。


 その時だった。

 ドアが軽くノックされ、ゆっくりと開いた。


 「やぁ、みんな……麻里さんもRICOさんも、ちょっと、いいかな?」


 柔らかい声とともに、IT統括取締役が入ってきた。

 いつもと同じ淡いグレーのスーツ。

 笑っているのか、見透かしているのか分からないような、あの独特の表情。


 「いやぁ、すごいねぇ。

  社長が感心してたよ。

  『五井物産マンとして、最も品格ある対応を一ノ瀬くんは実践してみせたんだ』ってね」


 そう言いながら、会議室のソファに腰を下ろした。

 机の上に置かれているモニターのニュースをちらりと見て、口元が緩む。


 「“不戦敗の美学”、か……。

  いやぁ、見事な切り返しだった。

  さすがだよね」


 (……まぁ、それはそうなんだけど)


 私が思わずため息を漏らすと、

 玲奈が「それで、上層部の反応はどうなんです?」と聞いた。


 「うん。社長は大絶賛だったよ。

  “あれこそ広報の教科書に載せるべき対応だ”ってね。

  でも――」


 IT統括取締役は、苦笑いしながら続けた。


 「広報本部長がね、

  『いやぁ、もう少し楽しみたかったんですがねぇ』なんて言っちゃって。

  その瞬間、社長の顔色が変わったんだよ」


 「……は?」

 亜紀が眉をひそめる。


 「“楽しむ…だと?”って、社長の声がね、完全に氷点下。

  “人をネタにして企業ブランドの浸透を図るなと、広報として、そもそも恥ずかしくないのか!”って。オレも流石にビビったよ。

  あの広報本部長、しばらく社長室から出てこなかったぜ……バカだね―」


 玲奈が「ざまあ」と口を滑らせて、私が思わず吹き出した。


 「で、社長、最後にこう言ったそうだ。

  “もし今後、誰かが同じような危機に直面したら――

   五井物産の一ノ瀬を見習え。それが正しい答えだ”ってね」


 ――静かに拍手したくなる言葉だった。


 それでも、取締役の目はどこか複雑そうだった。

 「まぁ……でも、ああいう男は、組織の中じゃ下手すると浮きかねない。

  品格ある人間ってのは、案外、居場所がないもんだから……そうならないように、周囲が守ってやらないとな」


 (……分かる気がする)

 私は黙って頷いた。

 それでも直也は、どんな状況でも“最大多数にとって正しい方”を選ぶ。

 しかも、その際に結果として自分自身が犠牲となる事を全然厭わないのだ。


 取締役は立ち上がりながら、軽く笑った。

 「しかし――あのコメントで時価総額を大きく引き上げるとはね。

  Amasonは仕掛けたつもりかも知れないけれど、GAIALINQのCOOの方が数段上手だったという結論になりそうだね。」


 そう言って、会議室を出て行った。


 ドアが閉まったあと、しばらく沈黙。

 そして玲奈が呟いた。

 「……さっきまでAmasonのコンテンツ部門は悪魔かと思いましたけど、直也はもうモンスターって感じですかね?」


 私は少し笑って答えた。

 「ううん、違うわ。――“美しきモンスター”よ」


 激動の一日の終わりにしては、やけに落ち着いた色合いの夕日が会議室に差し込んだ。


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