7
さっきから何度転んだだろうか。
遊馬は今、口から出ている音が自分の悲鳴だという感覚がなかった。全速力で走っている感覚もなく、身体の奥底からわき起こる恐怖に支配されていた。
顔がなかった。
男の顔は歪な楕円形にくり抜かれていたのだ。
「ヒイイイイイッ」
生まれてこのかたこんな声を発したことはない。
背後には顔に穴が空いた男が迫ってきている。振り返り、男の姿を確かめるたびにスピードを上げた。
地面から張り出た木の根に躓く。道に戻るという発想はなかった。ひたすら足場の悪い林を走っていた。こんな状況でも身体が適応するらしく、体勢を崩しても転倒まではしなくなった。無我夢中で動いている遊馬には、自分がどのように体勢を直しているのか分かっていなかった。ただ、時々手で地面を蹴っているような気がした。
塀にぶつかりそうになり、慌てて扉に飛びついて外へ出た。
「遊馬! 鍵を寄越せ、俺が運転する!」
黒崎はすでに車のところにいた。遊馬がもたつきながら出した鍵をひったくり、運転席に座った。遊馬も助手席に滑り込む。
懐中電灯が手もとにないことに気付いたが、それどころではない。車が動き出し、工場から遠ざかってようやく遊馬は息をついた。
「かっ、顔がなかった……くり抜かれてたよね? 顔の中が丸く……君も見たよね⁉ 僕だけか⁉ 幻覚⁉」
声は上擦り、歯がガタガタと鳴った。
対して、黒崎は冷静だった。少し掠れた声で答える。
「いや、俺も見た。あの男、喪服じゃなかったか?」
「ええ⁉ 作業着っぽくないなあとは思ったけど……なんで喪服――あっ、首吊り死体も喪服を着てたんだっけ」
遊馬は自分の頬を叩いた。痛みで現実感を取り戻す。
「状況を整理しよう。僕達は白い小屋を見に行った。それで、白い小屋を見つけたが、鍵がかかっていて中の様子を見ることはできなかった」
「小屋からは腐敗臭などもしなかった」
「それで、僕達は工場に行こうとした。そこの従業員に話を聞くためだ。その時、足音が聞こえて、そちらを見たら男がいた」
「あいつ、木に隠れてたな。全然隠れてなかったが」
「そう。で、顔を出したら、顔には大きな穴が空いていた」
遊馬はその光景を思い出し、鳥肌が立った。夢に出てきそうだ。
「追いかけられ、僕達は逃げて、今に至ると」
身体を見下ろすと、ひどい土汚れだった。枯れ葉や折れた枝がスーツについている。
遊馬は黒崎の身なりを見た。
「君、全然汚れてないな」
彼は襟が乱れ、スラックスの裾に砂がわずかに付着している程度だった。
「俺はすぐ道に戻ったもん。あっちのほうが走りやすいし」
「ああ、そうだ……戻ればよかった」
しばらくすると、黒崎がしきりにバックミラーを見るようになった。そして、ぽつりと呟いた。
「……追ってきてる」
「ええ⁉」
遊馬は飛び上がった。
「あの変な奴じゃない、車だ」
「車?」
バックミラーを見上げる。後ろに車がついてきている。男が二人乗った黒い車――棺桶工場に来た際に見かけた車だ。
「なんで?」
「分からない」
新たな不安に遊馬は苛立った。
「あの化物の仲間じゃないだろうね」
車はつかず離れずの距離で、いくら曲がっても執拗に追いかけてくる。また角を曲がる。中央区とは逆の方向だ。
空はもう夜だった。月が出ている。
不意に、遊馬は違和感を覚えた。
何かが引っ掛かる。
バックミラーを見た。追っ手はしつこい。
「どうして追いかけて来たんだろう?」
ふとわいた疑問を口にする。黒崎が横目にこちらを見たのが分かった。
「向こうからすればこっちは不審者でしょ。逃げて通報するならまだしも、追いかけてくるなんておかしくない?」
「確かに」
小屋を目指して歩いている時に感じた視線。不安のせいだと思っていたが――。
本当に見られていたとしたら?
男が現れたタイミング。それは、工場へ行こうとした時だった。
一咲は棺桶工場だと言っていた。加賀美サキからそう聞いたからだ。しかし、検索しても棺桶工場とは出てこない。
黒い棺のような建物。
あそこは一体何なのか?
「僕達は追いかけられたんじゃなくて、追い返されたとは考えられない?」
「追い返された?」
「敷地内に入って来られたのが不都合なら、僕達が白い小屋に行き着く前に出てくればいいだろ? でもそうしなかった。あの男は僕達が工場に行こうとしたその時に出てきたんだ」
「白い小屋は見られてもよかったのか? 幻覚でなければ、首吊り死体があったんだぞ」
「あそこ、本当に工場なのかな」
遊馬は頭を掻いた。髪についていた枯れ葉が膝に落ちる。
「ああもう、頭が回らない」
西区を彷徨ううちに、黒い車は尾行を諦めて消えた。二人は深いため息をつき、天文町を目指した。時刻は夜八時を過ぎている。
遊馬はぼんやりと夜空を眺めた。雲が多い。月は隠れ、星も見えなかった。闇が天蓋を覆っている。
なぜか、ウィリアム・ブレイクの詩がよぎった。
――終りなき夜に生れつく
黒崎を横目に見やる。彼は遊馬の視線に気付き、何を思ったのかこう言った。
「あそこには、首吊り死体はなかったんだな」
翌日。午前四時。暗いリビングは冷えきっていた。
黒崎はサイドボードから遊馬の車の鍵を取った。テーブルに書き置きを残し、音を忍ばせて自宅を出る。
寒々とした通路を抜け、エレベーターではなく階段を使って下りた。センサーライトがつき、赤茶色のざらついた壁とグレーの階段に濃い影が落ちる。
黒々とした空から雪が降っている。じきに雨になりそうな雪だった。
車も人もいなかった。すべて死に絶えたような静寂の中、駐車場へ向かった。
遊馬の車に乗り、エンジンをかける。
アクセルを踏み、西へ走った。
一年ぶりの白居団地は相変わらず陰鬱だった。澱んだ空の下で、ぼんやりと不気味な輪郭が浮かび上がっている。
三棟あるマンション。黒崎が住んでいたのはA棟だ。
黒崎はA棟に向かった。コートのポケットから小型の懐中電灯を出す。暗い階段や通路を照らして歩いた。
マンションはさらに劣化が進んだようだ。天井の塗装が剥がれ落ちている。エレベーターは使用不可の張り紙がしてあった。
一年前、喪服を着た死体を見つけた五○四号室に着いた。ドアは鍵が閉まっていた。臭いもしない。
ヒツギノソコニウマレツク 一ハナ
ここであの遺書を見つけた。黒崎を代弁してくれる言葉を。
黒崎は六年前、この白居団地で死ぬつもりだった。適当な空き部屋で首を吊ろうと思っていたのだ。
黒崎の両親は、息子が成人したら死ぬと決め、実行した。息子が生きていくために必要なものをすべて用意した上での、計画的な心中だった。おかげで黒崎は大学進学ができ、卒業まで生活に困らなかった。
両親の死に対して、悲しいとは思わなかった。『計画』なのだから仕方がない。むしろ、『あの夫婦らしい』とすら思った。
子供の頃、黒崎の両親を見て、誰かが言った。
『黒崎君のお父さんとお母さんって、なんかロボットみたい』
それを聞いて子供心に納得した。
確かに、両親は感情よりも計画を優先する。気分や機嫌などというものを嫌悪し、存在しないものとして扱う。時には、体調不良さえ無視する。
十六歳くらいでどうやらそれが普通ではないらしいと悟った。他人の親を見て、自分の親と何かが違う。そのことに勘付いた。初めはそんなものだろうと深く考えなかった。無意識に、深く考えることを拒否したのかもしれない。
しかし、考えることを拒否しつつも、『それ』は黒崎が行き着くのをじっと待っていた。
結論のような、理解のような『それ』。
大学の四年間――両親の死後、特に苦労もなく日常生活を続けた四年間のうちに、黒崎はじわじわと『それ』に行き着いてしまった。
自分の存在の虚しさに。
それを知った瞬間、自分のこれまでをどう処理したものか、自分のこれからをどうしたものか考えられなくなった。
両親の死体の記憶がすっぽり抜け落ちていることに気付いたのも、この時だった。
自分のこれまでを処理するには、記憶を取り戻さなくてはならない。自殺死体を見れば何かを思い出すのでは。
黒崎の狙いは外れた。いくら自殺死体を見ても抜け落ちた記憶に行き着かない。
往生際悪く続け、三年かかって諦めがついた。そして、今度は自分のこれからに焦点を当てた。
三年、白居団地に住むうちに自己は摩耗し、自分で自分の感情や思考をまとめるのが難しくなってしまった。
何か、踏ん切りをつけるものが必要だった。そこで目についたのが遺書だった。
遺書。そこには人生の総括があった。彼らが苦痛をどのようにまとめ、死を選んだかが書かれていた。
誰か、俺の代弁をしてくれないか。
黒崎の願望に応えてくれるのは遺書だけだった。
それから、自殺死体ではなく遺書に意識を向け、自殺スポットに住み続けた。
そして、ようやく見つけたのだ。
棺の底に生まれつく
黒崎の人生を代弁する言葉に。
それがもし、『遺書』でなかったとしたら?
歪な筆跡の遺書だった。『ヒツギノソコニウマレツク』という言葉の下の『一ハナ』という文字。最期の言葉と名前を区切る横線だと思っていたのは、漢数字の『一』だったのでは?
依頼人の母親の名前は一花だった。
喪服を着た死体。
棺。
この異様な点の繋がりは偶然だろうか?
五○四号室のドアを眺める。
ここで萩原と出会った。
彼が遺した謎もまだ解けていない。
――深淵の鏡に映らない顔は?
意味が分からない。
後ずさり、腰壁にもたれて白い息を吐いた。
身体の向きを変え、通路の外に目をやった。まだ太陽は出ていないが、空は黒から紺に変わっていた。
つかの間、頬杖をついてぼんやりしていた。
寒気は容赦なく黒崎を刺している。マフラーを持ってくるべきだった。
雪のにおいを含んだ風が鼻先を掠め、その中に、
「あ」
腐敗臭が混じっていた。
頭を殴られたような衝撃に硬直し、総毛立った。
いる。いや、ある。
頭の奥が急に痛み始め、吐き気がこみ上げた。
何を今更。一年前まであんなに見ていたじゃないか。
もう一人の自分の嘲笑が聞こえた気がした。
臭いは正面のB棟からだ。
行くしかない。
黒崎は動き出した。身体がひどく重い。ついさっきまで普通に動けていたのに。
そんな状態でも嗅覚だけはしっかりと腐敗臭を捉えている。
B棟の入り口には、立ち入り禁止の看板が置かれていた。そばの壁には張り紙があり、老朽化によりマンションへの出入りを禁止するとの旨が記されていた。
黒崎はマンションに足を踏み入れた。A棟より劣化が酷い。どこもかしこもヒビだらけだ。
廃墟と化したマンションの通路を歩く。B棟のほうが心霊スポットの趣がある。噂では、足音や何かを引きずる音がするだの黒い人影が見えるだの、枚挙に暇がない。
一階から二階、三階へと上がっていく。臭いはだんだん強くなっていった。
頭痛も酷くなり、耳鳴りもした。
自分の足音が他人のものに感じる。それが自分に迫ってきているような焦燥感を覚えた。
肌がざわめく。皮膚の下で蛆が蠢いているようだ。
たまらず踊り場に座り込んだ。目を閉じて深呼吸を繰り返す。体調の急激な変化に戸惑う。頭の一部が徐々に鈍り、無関係なところへ思考が飛んだ。
雪が小雨になっている。
萩原の病室にあったハーバリウムが脳裏に浮かんだ。窓から射し込む陽光を浴びて、オレンジの薔薇がキラキラ輝いている。
視界の闇がさらに薄くなった。朝が近い。
腰を上げ、最上階に向かう。
強烈な臭いがよぎる。
間違いない。犬や猫とは比較にならない臭いなのだ。
人間の死体は。
黒崎は顔を歪めた。
まだだ。まだ、そうと決まったわけではない。
動揺を抑える。慎重に階段を上り、腐敗臭を辿った。
腐敗臭が漏れ出ているのは五○二号室だった。
軋む音を立てながらドアを開ける。ドアの向こうは朝を拒絶するようなどす黒い闇が渦巻いていた。
部屋に入り、ドアを手当たり次第に開けていく。洗面所、浴室、トイレ。黒崎と死体以外には誰もいないようだ。
A棟五○四号室の死体は洋室のクローゼットで首を吊っていた。『吊っていた』というより、突っ張り棒に括り付けられていたような状態だった。
黒崎はリビングの隣の洋室へ向かった。
洋室のドアを開け、クローゼットへライトを当てた。
一咲が首吊り死体を見たのは十二月十七日。
今日は十二月二十一日。
案の定、酷い有様である。腐敗ガスで膨張し、顔立ちは全く判別できない。
首と突っ張り棒を繋げているロープを見る。五○四号室の死体と同じだ。吊っていない。『括り付けられている』。
死体の服装は、黒いロング丈のワンピースだった。喪服のようだ。
黒崎は床を照らし、何もないと分かると洋室を離れた。足は自然とキッチンに向かう。
シンクに白い封筒を見つけた。
腐臭に侵された脳内で警鐘が鳴り響く。限界だ。見たくない。
深淵が開くぞ。
ああ。
開く。
今度こそ開いてしまう。
深淵の鏡に映らない顔は?
分からない。
混沌とする思考の中、封筒を取り、便箋を取り出した。
折り畳まれた便箋を広げる。
子供が書いたような汚い字だったが、問題なく読めた。
ひつぎのそこにうまれつく
名前はなかった。