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 奇妙な依頼を引き受けてしまった。

 遊馬は給湯室でティーカップを洗いながら思った。

 電話でしか交流のなかった人の捜索。難しい依頼だが、これ自体は問題ではない。

 問題は依頼人が見たという首吊り死体だ。

 しかも、その首吊り死体は自分と同じ顔をしていたという。

 極限状態が見せた幻覚ではないか。そう思いたいが、鍵の音や臭いなど、依頼人の説明は妙に現実味があった。

 幻覚でなければ、何なのだ。

 双子の姉妹?

 ドッペルゲンガー?

 ドッペルゲンガーのほうが死ぬなんて聞いたことがない。

 あまりに荒唐無稽な発想に遊馬は苦笑した。

 蛇口の水を止める。給湯室に静寂が戻った。

 妙といえば、黒崎もだ。

 彼はなぜ、一咲にウィリアム・ブレイクのことを聞いたのか。

 ウィリアム・ブレイク。イギリスの有名な詩人だ。遊馬も名前くらいは知っている。

 一が口にした『無垢の予兆』という詩。


 甘やかな喜びに生れつく人もいれば

 終りなき夜に生れつく人もいる


 終りなき夜に生れつく――。

「アガサ・クリスティ?」

 萩原が黒崎に渡した本。

 この件もおかしい。

 萩原の妹の優子が、『兄から』だと言って黒崎に渡したアガサ・クリスティの『終りなき夜に生れつく』。

 あの本は萩原の私室の本棚にあったものだ。

 一目見た時に気付いた。なぜなら、あの本を買ったのは遊馬だからである。萩原が入院している時、頼まれて書店へ買いに行った。彼は暇つぶしの本が欲しいと言っていた。

 一冊だけあった『終りなき夜に生れつく』は、商品棚に置かれて時間が経っているのか、底に傷がついていた。それと同じ傷が、黒崎の『終りなき夜に生れつく』にもついていたのである。

 遊馬があの本を萩原に渡した三日後、萩原は遊馬にあの本を渡した。読み終わったから、私室の本棚に並べておいてくれとのことだった。彼の指示通り、遊馬は本棚にあの本を並べた。

 萩原優子は、萩原が入院する前に遊馬ビルを訪れ、私物の整理や必要な物を回収した。その後は一度も来ていない。つまり、彼女があの『終りなき夜に生れつく』を持っているわけがないのだ。

 黒崎は、本当は何の本を渡されたのか?

 このことに気付いてから優子に連絡して何の本を渡したのか尋ねたのだが、答えは得られなかった。恐らく黒崎から口止めされたのだろう。

 今思えば、萩原の行動にも不可解なところがあった。

 病気が見つかってから彼は私物の整理を始め、物も買わなくなった。本は仕事の資料となるもの以外は処分していた。

 それがある日、アガサ・クリスティの本を全冊揃えたというのだ。彼は遊馬をわざわざ部屋に呼び、本棚に並べたそれを見せた。

 新品のそれらは本棚の一画を埋め、古い棚に馴染まず輝いて見えた。

 あれはいつ頃だったろう。確か、黒崎が見つかった後だ。しかし、彼が遊馬ビルに住み始めるよりは前だった。

 あの時は萩原の態度に少し違和感を覚えたものの、買い物をして浮かれているのだろうと思っていた。

 病室であの本を買ってくるよう頼まれた時、本棚にないのか尋ねた。すると、彼は買い忘れたと答えた。

 萩原の一連の行動。

 黒崎の嘘。

 萩原は一体、遊馬に何を伝えようとしている?

 遊馬が知らず、萩原と黒崎が共有しているもの――空白の五年間。

 萩原は遊馬に、黒崎が失踪中にどこで何をしていたのかを伝えようとしているのだろうか。

 なぜ、こんな回りくどいやり方を?

 こっそり教えてくれたらいいだろうに。

 もっと別の意思があるのか?

 疑問は次々わいてくる。

 遊馬はティーカップを棚に戻し、給湯室を出た。

 事務室では、黒崎がパソコンに向かっていた。所長のデスクは事務室に一番奥だ。萩原と同じく、ブラインドを下ろした窓を背に作業している。

 黒崎がチラッと視線を上げて言った。

「遊馬、見ろ」

 顎でパソコンを指す。

 遊馬は彼のデスクへ向かうと、パソコンを覗き込んだ。

 衛星写真が一面に広がっている。

「棺桶工場の衛星写真だ」

 それは一見、林のようだった。塀に囲まれた敷地の出入口から道が一本伸びている。その道を辿ると、一と加賀美サキの待ち合わせ場所だった白い小屋らしきものを見つけた。

 やはり、こんなところを待ち合わせ場所にするのは不可解だ。

 遊馬の目は小屋を過ぎ、さらに道を辿った。棺桶工場の全貌を知りたかったのである。

 道の先で林が楕円形にくり抜かれている。

 その中に建つ巨大な建物。

 黒い長方形。

 遊馬は思わず呟いた。

「棺だ」

 黒い棺桶が林の中に鎮座している。

 顔を上げて尋ねた。

「これが工場?」

「みたいだな。趣味がいいんだか、悪いんだか」

「悪いでしょ。棺桶の中で棺桶作ってるって何のジョーク?」

「そうだな。ところで、依頼人の話の問題点に気付いたか?」

「首吊り死体でしょ? 僕はやっぱり幻覚だと思うね。双子説もあり得なくはないけど、あまり考えたくないな。加賀美さんに騙されたってことはない? もっと関係を深く聞くべきだったかな。一さんにとってはかなり大事な人みたいだけど――」

「違う」

「え?」

「俺が言ってる問題点はそこじゃない。一さんの話を聞いておかしいと思わなかったか? 一さんが小屋に着いて、首吊り死体を見つけるまでの話だ」

「そもそも棺桶工場で待ち合わせてる時点でおかしいと思うけど……」

 遊馬は依頼人の話を整理することにした。

「十二月十七日、午後六時、西区蛇ヶ原町の棺桶工場の敷地内にある小屋で、二人は会う約束だった。日時や場所を指定したのは加賀美サキさん。で、一さんはその通りにやってきた。小屋に辿り着き、ドアを開けてみようとしたが、その時は開かなかった。一さんは小屋の周りを探した。その時、小屋から鍵が開く音が聞こえ、駆け寄ってドアを開けた。今度は開いたんだ。それで、首吊り死体を見つけた。……ん?」

 遊馬は強い違和感を覚え、首を傾げた。

 黒崎が言った。

「一さんが加賀美さんを探すために小屋を離れた際、距離は三メートルくらいだったと言っていたぞ。懐中電灯を使ったら駄目だと加賀美さんに言われたから、あまり離れられなかったんだ」

「そう、それで、小屋を開けて、懐中電灯をつけた……」

 遊馬は急に頭が冷えていくのを感じた。

「中に、人がいた?」

「ああ」

「いや、ちょっと待ってよ。中に人がいたら分かるんじゃない? 小屋の中を懐中電灯で照らしたんだし、いくらパニック状態でも視界には入るでしょ」

 頷く黒崎に慌てて反論する。

 彼は無表情のままだった。

「ドアは内開きだったと言っていただろ。一さんは鍵の音が聞こえてから小屋までの約三メートルの距離を走った。鍵を開けた人物は、その短時間で身を隠した」

「ドアの陰に隠れたってこと?」

「かもしれない。とにかく、中に人がいたのは確かだろう」

 遊馬は前髪を雑に掻き上げた。頭の中が混乱している。

「ちょっと待ってよ……いや、加賀美さんが開けたんじゃないか? 一さんが来たのを確認して、鍵を開けて、首を吊った。無理があるか……?」

 おかしい。奇妙だ。不可解だ。

 黒崎はあくまで冷静だった。鋭く整った顔も、漆黒の瞳も、乱れたところが一つもない。

 遊馬の頭はある結論を必死で拒否している状況だというのに。

 なんでこの男はこんなに落ち着いてるんだ?

 インコの死骸を見つけた時のほうがまだ感情が表れていた。

 あの時の物憂げな目もとが、今は氷のようだった。

「遊馬、それは不可能だ。一さんはこうも言っていたんだ。小屋の中は吐き気を催すほどの悪臭だったと。公衆トイレの臭いをさらに悪化させたような――排泄物のような臭い。状況から見て、それは首吊り死体から漏れ出た胃腸の内容物だろう。三メートル走る間に、そこまでの状況にはならない。その短時間でできるのはせいぜい台に上ってロープに首をかけるくらいだ。それも難しいかもしれない。なにせ、小屋の中は真っ暗だったんだからな」

 遊馬は再び整理した。無意識に声は低く、顔は渋くなる。

「小屋の鍵を開けた人物がいるが、それは首吊り死体とは別の人物である。つまり、小屋の中には一さんと死体以外に人がいた。ということは――」

「事件かもしれない」

「警察に行こう、黒崎君」

「まだそう決まったわけじゃない。殺人にしたって不自然じゃないか。絞殺するのに吊るす必要はない。ああ、一さんに死体の足もとに台があったか聞くんだったな。それどころじゃなかった」

 黒崎は眉を寄せ、苛立ちを見せた。

 遊馬は頭を掻きながら呟いた。

「どうして鍵を開けたのかも分からない。どうして一さんに見せたんだ? この依頼、おかしいよ」

「同感だな。でも、とりあえずここに行かないと」

 黒崎が衛星写真を指で叩いた。

「ここ、検索しても情報が載ってないんだよ。工場だとも、連絡先も出てこない」

「え、じゃあ、どうして一さんは――加賀美さんはここが工場だと知ってるんだろう」

 二人は顔を見合わせた。



 西区蛇ヶ原町(だがはらちょう)に着いた頃には、空は夕暮れに染まり始めていた。

 禍々しい空だった。太陽は山へ燃え落ち、紅に澱む空にはボツボツとしたどす黒い雲がびっしりと張り付いている。

 遊馬が運転する車は寂れた車道を走っていた。棺桶工場が近付くにつれ、車も民家もどんどん減っていく。

 遠くに灰色の塀が見え、遊馬は緊張した。ハンドルを握る手に力がこもる。

 奇妙な依頼とはいえ、遊馬はいつも以上に緊迫していた。

 不穏な影を感じる。

 ――深淵が開くぞ。

 不意に萩原の声が蘇り、背筋が伸びた。

 深淵が開く。萩原が度々言っていた言葉だ。口ずさむようなそれは、どこか終わりを予感させる。まるで、この言葉こそが深淵を開く呪文であるかのような。この言葉を聞くたびに遊馬はひやりとさせられたものだ。

 萩原の白い棺桶が脳裏に浮かぶ。白い棺桶はゆっくりと火葬炉に入り、綺麗に焼けた。

 火葬を待つ間の浮遊感。皆、透明な顔をしていた。

 黒崎が両親を見送った時は、どんな顔をしていたのだろう。

 病死ではない、自死。しかも、彼が生まれる前から計画されていた。そんな死に直面した彼は、何を思ったのか。

 斎場で萩原を見下ろしていた彼の顔には何も浮かんでいなかった。

 黒崎を見ていると虚無というものを思い知る。

 ある種の美しさと残酷さ。それは火葬を終え、骨だけになった知り合いを前にした時にわき起こる安堵とも名残惜しさともつかない虚脱感と似ている気がした。

 遊馬は視線を上げた。太陽がじりじりと沈んでいく。空の禍々しさが車とともに加速する。

 黒崎が呟いた。

「先客か?」

 塀のそばに黒い車が停まっている。ライトはついておらず、通り過ぎるまで中に人がいると分からなかった。

 遊馬は尋ねた。

「見えた?」

「男が二人乗ってた。運転席と後部座席に。運転席の奴はシートを倒してたな。俺達が通り過ぎる時、こっちを見てた」

「なんかやだなあ……」

「運転席の奴、どっかで見たような……」

「え、知り合い?」

 黒崎はつかの間考え、首を捻った。

「いや、気のせいだと思う」

 扉を見つけ、道路脇に車を停めた。

 車を降りると、風が全身を打った。道の反対側は更地が広がり、車道には車が来る気配すらない。あるのは脇に停めた二台の車だけだった。

 二人はマフラーに口もとを埋め、扉へ向かった。

 遊馬は背中に視線を感じた。振り向きたい衝動を抑え、呟く。

「見られてる?」

「みたいだな」

 柵に似た扉の向こうは、鬱蒼とした木々を分断するように幅広の一本道が伸びていた。

 鍵がかかっているのでは。遊馬の懸念をよそに、扉は甲高い音を立ててあっさり開いた。

 工場の敷地に足を踏み入れる。舗装されていない道の端を並んで歩いた。土にはタイヤ痕がついており、トラックとおぼしき大きさの痕もあった。それを辿るように進んでいく。

「やっぱりこんなところを待ち合わせ場所にするなんておかしいよ」

 遊馬は周囲を見回しながらこぼした。人影はなく、絶えず聞こえる木々のざわめきが神経を逆撫でした。西日と影が混ざり合い、周囲は異様なほど澱んでいた。

 不気味な風景が不安を煽る。

 道は緩やかに曲がりくねっていた。どれだけ歩いても工場の従業員は見当たらない。

 視界がどんどん暗く、見づらくなっていく。西日はふっと糸が切れたように勢いを失い、冷めた紫に変わっていた。

 遊馬はコートのポケットから懐中電灯を出した。

「そういえば、加賀美さんはどうして一さんに懐中電灯を使うなって言ったんだろ。真っ暗だろうに」

 闇の中、一人でこの道を歩かなくてはならなかった彼女を思うと、同情心がわいてきた。

 懐中電灯のスイッチを入れた。足もとが明るくなり、周囲の影の密度が増した。

 吹き抜ける風が悲鳴に聞こえる。

 遊馬はいつしか見られているような感覚に取りつかれていた。後ろを振り返り、ライトを向けても何もない。前方にも、木々の間にも、誰もいない。誰もいないのに、気を抜けばどこからともなく手が伸びてきて暗闇に引きずり込まれそうだった。

「落ち着けよ」

 黒崎の声で我に返った。

「いや、なんか、ずっと見られてるような気がしてさ。僕思うんだけど、周りに人がいないのに人の気配を感じる時あるだろ? あれって幽霊とかじゃなくて、別のものを見てるからなんじゃないかな」

「別のものって何だよ」

「自分」

「自分?」

 黒崎が横目に遊馬を見た。

 遊馬は足もとのライトに目をやったまま頷いた。

「きっと、視線って行き場がないと自分に向くんだよ。それで、なんだっけ、同じ字をずっと見てると本当にこんな字だったかなって気持ち悪くなる現象」

「ゲシュタルト崩壊」

「それだ。自分も見つめ過ぎるとゲシュタルト崩壊するんじゃないかな。自分が分からなくなるんだよ。知らず知らずのうちに精神が不安定になって、一さんは幻覚を見たんじゃないかな」

「うん、あり得るかもな」

「それに、ここで待ち合わせるのもおかしいけど、ここで自殺をするのもおかしいと思うんだ」

 遊馬は言葉を切り、逡巡してから言った。

「ここは西区だ。西区には、あそこがある。自殺スポットで有名な――」

「白居団地」

 遊馬は黒崎に顔を向けた。黒崎は前を向いたままだ。

「知ってるの?」

「有名だからな」

 会話が途切れた。遊馬は萩原の言葉を思い出していた。

『遊馬、諦めるのも選択のうちだぞ』

 萩原探偵事務所で働き始めて半年が経った頃に言われた。

『世の中には、いるんだよ。澱んだところに生まれる人間が。君の知らない種類の人間がね。彼らは時に、幸福に耐えられず、勝手知ったる不幸を歓迎してしまう。君が友人だと言う黒崎光矢も、そんな人間なのかもしれない』

 萩原は遊馬を哀れみの表情で見ていた。

『遊馬。黒崎光矢はなぜ、君に何も言わずに消えたと思う? 彼にとって、君の役は何だったと思う? 考えろ。考えたうえで、決めるんだ』

 遊馬朝輝は黒崎光矢にとって、そこまでの人間ではないから。

 ただの恵まれた人間役だから。

 最初から分かっていた。

 考えて、遊馬は自分が優しくないことを知った。彼は僕を『友人』と思わなくとも、僕は彼のことを『友人』だと思っている――などといった感情は全くわかず、彼が望む通りに役を演じてやる気にもならなかった。

 遊馬にとって、黒崎光矢は信頼に足る人間である。彼は罪を知っている。人を生まれや育ちで判断する罪、人を自分の都合良いように利用する罪。

 欠点は、罰を自分で決めるところだ。罰として彼は不幸を歓迎する。

 それなら僕が彼に罰を与えてやろう。

 そして彼の虚無と澱みに、遊馬朝輝を刻んでやろう。

 そう決めたのだ。

 しかし、意気込んだはいいものの、遊馬は黒崎を見つけるために、一つだけできなかったことがある。

 遊馬はどうしても、自殺スポットにだけは行けなかった。

 黒崎が失踪した際、真っ先に自殺が思い浮かんだ。彼には常に死の影がつきまとっていたからだ。それでも探しに行けなかった。自殺スポットにいるということは最悪を意味する。遊馬はそれと直面する勇気がなかった。

 結局のところ、自分のことしか考えていない。

 地面に伸びる楕円の明かりを眺めながら、遊馬は不意に悟った。

 僕は、無謀なことはできても、勇気はないのだ。

 最も安全なところからしか手を差し伸べられない。そこから一歩も動こうとしない。だから闇へは指一本届かない。

 黒崎をそばに置くには、安全圏の端に行く必要がある。時には安全圏から出てしまうかもしれない。

 その勇気が、僕に出せるのか。

 遊馬が思索に耽っている間に、白い小屋に着いた。うっかり通り過ぎるところを、黒崎に呼び止められた。

 小屋は道から五メートルほど外れたところに建っていた。周囲に照明などはなく、木々の影の中で仄白い輪郭が浮かび上がっていた。

 遊馬は小屋を見た瞬間ぎょっとした。小屋の形状が骨壺を収める骨覆とよく似ていて、巨大な骨覆がどんと置かれているように見えたのだ。

 二人は木々を抜け、小屋へ向かった。

 黒崎が小屋の周りを歩き、臭いを嗅いだ。

「臭いは全然しないな。あれから三日なら、腐敗も進んでるはずだが」

 遊馬も軽く辺りを嗅いだ。鼻の奥に寒風が刺さる。臭いは土と樹木のものだけだ。

 小屋の両開きのドアに近付く。枯れ葉を踏む音がやけに響いた。遊馬は再び、視線を感じた。考え込んでいる時は紛れていたのに。不安のせいだ。そう言い聞かせ、ドアノブを捻った。

 唐突に風がやみ、ドアノブの音が際立って聞こえた。

「鍵がかかってる……」

「窓もない。中は見られないな」

 黒崎が小屋の裏側から戻ってきて言った。

 遊馬はドアノブから手を離し、黒崎のほうを向きながら返した。

「黒崎君、工場に行こう。従業員に聞けば何か分かるさ」

 その時、ガサッと枯れ葉を踏む音がした。

 遊馬は間を置いてから、それが黒崎の発したものではないことに気付いた。

 互いに目を見開き、顔を見合わせる。

 誰かいる。

 二人は声がしたほうを見た。

 十メートルほど先。遊馬はライトを向けた。

 一本の木の向こうに男が立っている。幹で隠れて顔は見えない。白い耳とわずかな輪郭だけが覗いていた。

 遊馬は戸惑った。隠れているつもりだろうか? 顔以外は全く隠せていない。肩も胴体も脚も見えている。

 男は黒い服を着ていた。肩の辺りがかっちりしている。スーツだろうか? ツナギではなさそうだ。

 男の様子を窺うが、男はこちらに顔を見せることもなく、ただ突っ立っていた。顔が分からないせいで、男の意図も掴めない。

 道を外れると、さらに闇が深くなる。じっとりと重い沈黙が遊馬を圧迫した。

 従業員か?

 何をしている?

 いや、それより――、

 遊馬は当初の予定を思い出し、男へ一歩踏み出した。

「あの、工場の方でしょうか? 勝手に入ってすみません。私達は――」

「おい」

 黒崎が遊馬を制した。

 同時に、男が身じろぐ。首を傾け、幹の陰から顔を出した。

「えっ」

 ようやく全貌が露わになった――はずだった。

 男には、顔がなかった。


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