5
一年後。
雪が降っていた。
萩原の一周忌を終え、二人は事務所に戻った。
黒崎はコートをハンガーに掛けると、事務室の隅のクーラーボックスを開けた。
保冷剤と小さな箱。箱の中にはインコの死骸がタオルに包まれた状態で収まっている。
黒崎が公園の草むらで見つけた時には死んでいた。猫に襲われたようだ。
今日の午後、依頼人にこの死骸を引き渡す。
ペットを探す依頼をいくつか受けたが、依頼人の家族を無事に見つけられたことはまだなかった。
「黒崎君、仕事の依頼が来てたよ」
遊馬はパソコンでメールを確認していた。
「今度は何の動物だ?」
クーラーボックスを閉めながら、黒崎は尋ねた。
「人だよ」
遊馬は無感情に答えた。
「明日、午後二時に依頼人が来る。依頼人の名前は一咲。漢数字の一と書いて『にのまえ』だってさ」
一咲は若い女性だった。
黒崎はきちんとした印象を受けた。
探偵事務所の客はトラブルを抱えているからか、どこか乱れていることが多い。例えば髪型であったり、服装の組み合わせであったり。余裕のなさが外見に表れる。
彼女はそれがなかった。シャツとスラックスはしっかりアイロンがけされており、革靴は念入りに磨かれている。ソファーに腰を下ろす際、コートを押さえる仕草も落ち着いていた。
低いテーブルとソファー、観葉植物が置かれた応接室で依頼人から話を聞く。遊馬が淹れた紅茶が湯気を立てていた。
テーブルの真ん中にはボイスレコーダーがある。食い違いが起こるのを防ぐために録音することになっていた。
ボイスレコーダーはすでに作動している。面談が始まる前、黒崎は依頼人に許可を得てからスイッチを入れた。録音を嫌がる客もいるが、一は特にそんな素振りも見せなかった。
遊馬は手帳を開いて尋ねた。
「メールには人探しとありましたが、どなたを探してほしいのでしょうか?」
質問する口調は穏やかだった。表情も柔らかく、朗らかな雰囲気も相まって応接室に張りつめた緊張感が一気にほぐれた。
聴取は基本的に遊馬の担当だった。黒崎も何度か試みたが、遊馬のように上手くできない。
相手を余計に緊張させてしまうのは、鋭い顔立ちのせいでもあるが、一番はやはり服装だと思う。
黒崎は仕事中、黒いスーツを遊馬に着せられていた。彼が用意したスーツだ。黒崎が用意したスーツは新入社員みたいだからと却下された。
黒いスーツのほうが貫禄が出ると遊馬は言うが、黒崎の場合、貫禄より柄の悪さが際立っている。
黒崎は横目に遊馬をチラッと見た。
濃いグレーのスーツに紫のタートルネック。遊馬はいつも上品で誠実そうな格好だ。
黒崎は聴取の邪魔にならないよう真面目に聞いている表情を作った。
一は静かに口を開いた。
「探してほしいのは友人です。名前は加賀美サキ。今まで電話でしか交流のなかった女性なんですけど……探せますか?」
「電話でしか? 会ったことはないんですか?」
「はい。知り合ったのは六歳の時でした。家の電話に突然かかってきたんです」
「失礼ですが、今おいくつですか?」
「今年で二十歳になります」
「学生ですか?」
「いえ、高校を卒業して就職しました」
「写真も持っていませんか?」
一が頷く。彼女はうつむき加減で、肩から緊張を滲ませながら喋った。
「本当は三日前――十二月十七日に会う予定だったんです。大人になったら会おうって約束していて、ようやく叶うはずでした。でも、待ち合わせの場所にサキはいつまで経っても来なくて……」
「その後、加賀美さんから連絡は?」
「ありません。私、彼女の住所や連絡先を知らないんです。父親に言っては駄目だときつく言われていたみたいで、聞いても教えてもらえませんでした。ただ、A市に住んでいるのは確かです。待ち合わせ場所もそこでしたから」
「A市のどちらで待ち合わせを?」
「西区の蛇ヶ原町です」
「蛇ヶ原……」
遊馬は呟きながら手帳にペンを走らせた。
西区といえば、白居団地があるところだ。
黒崎は記憶を探ってみたが、蛇ヶ原という地名に覚えはなかった。
「住所を知らないということは、手紙のやり取りもしていないということですよね?」
「はい。私とサキの繋がりは彼女からの電話だけでした。なので、私は彼女の電話番号すら知らないんです」
「加賀美さんはおいくつですか?」
「同い年です。誕生日も一緒で、十二月二十四日に二十歳になります」
一は唇を引き結ぶと、遊馬を上目遣いに見た。何かを言うのを躊躇っているようだ。
「確かではないことを言っていいのか分からないんですけど……」
「大丈夫ですよ。何でも仰ってください」
遊馬が安心させるようににっこりと笑った。が、あまり効果は見られなかった。一が一瞬、強い警戒心を目に浮かべたのである。
黒崎はなんとなく彼女に共感した。
遊馬のような人間を信用できないタイプか。
彼のような人間。つまり、何でも持っていそうな人間のことだ。
彼をそばに置きたい人間は山ほどいる。しかし、彼を疎んじる人間も一定数いるのも確かだ。
黒崎は後者である。彼は無邪気に劣等感を煽る。無意識に他者を影の存在にする。
彼に手を差し伸べられると反発心がわく。自分がプライドのある人間ではなく、手負いの獣に思えてくる。
遊馬は依頼人の言葉を待っている。
沈黙の後、彼女は言った。
「サキは私の姉妹かもしれません」
「となると、双子?」
「私には父がいません。母と祖母の三人暮らしでした。父は顔も知りませんし、母から何も聞かされてません。なので、これは本当に憶測です」
「六歳の時に突然電話がかかってきたと仰いましたね。学校のクラスメイトや親戚の子供である可能性は?」
誰かが『加賀美サキ』を騙っていた。遊馬は遠回しにそう尋ねている。
一は首を振った。
「親戚は母方の祖母だけです。あと、私はB市の御華村という小さな村の出身なんですが、そこの小学校は全学年合わせて三十人ほどでした。全員どこの子か、家庭環境まで把握できる状況でした。私、村にいた時にサキを探したんです。村には加賀美という家はありませんでした。誰かがなりすましているわけでもありません。これは確かです」
「なるほど……分かりました。一さんのご両親は離婚したんでしょうか?」
「いいえ。そもそも入籍していません。――父親の顔を知らないと言いましたが、それらしい男を家の近くで何度か見かけたことがあるんです。男が来ると、郵便受けにお金の入った封筒が入っていました。それが私達の生活費でした。母も村の病院で清掃員をしていましたが、お情けでもらっていたような仕事だったので……」
「お情け?」
「母は文字を正しく認識できませんでした。読むのも書くのも凄く時間がかかって……漢字に至ってはどちらもできませんでした。今思えば、識字障害だったんだと思います」
彼女の口調は乾いていた。
識字障害。ディスレクシアとも呼ばれる。文字の認識が困難な学習障害の一つである。知的発達の遅れや努力不足などとは無関係に、読み書きが正確にできないのだ。
「識字障害か……確か、俳優のAがそうなんじゃなかったっけ?」
遊馬が黒崎に話を振った。
「前に二人で観たじゃん」
「……ああ」
仕事がなく、あまりに暇で外国映画のDVDを二人で観たことがあった。DVDは萩原の部屋にあった物である。
特典としてメイキングとインタビューがあり、キャストのAがマネージャーに台本を音読させているシーンが流れていた。
遊馬が少し砕けた口調で言った。
「僕、A好きなんですよねえ。自分の魅力に苦労させられてそうなところが」
「はあ」
一が曖昧に頷いた。彼女はAを知らないようだ。映画も二十年くらい前の作品だった。
「Aは親戚の医者に識字障害を指摘されて知ったそうです。その後、自分に合ったやり方を探して、周りの助けも借りて仕事で成功しましたが、一さんのお母さんはそのあたりどうでしたか? ご本人は気付いていたんでしょうか?」
「いいえ、全く。母には指摘してくれる人はいませんでした。私も最近になってそんな障害があると知りましたし。祖母も『あんたはどうしてそんなに頭が悪いの』と母を罵っていました。母は読み書きができないことが相当なコンプレックスになっていて、本が家にあるとヒステリーを起こしました。一度怒ると収拾がつかなくなるので、学校の図書室で借りた本は見つからないようにいつも隠していました。私は読書が好きだったんです。サキも読書家で、よく本の話をしました」
黒崎は識字障害が引っ掛かっていた。
読み書きが正確にできない障害。
映画を観た後、Aの密着番組を観た。彼は識字障害がどんなものか説明するためにホワイトボードに字を書いて見せた。
書こうとしたのはハムレットの有名な台詞『To be, or not to be, that is the question.(生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ)』。
しかし、彼が時間をかけて書き上げたのはおよそ字とは呼べない、ミミズがのたくったような奇妙な模様だった。
ハムレットの本を睨みつけ、整った顔を苦悶に歪めて書いた『b』は向きを間違えて『d』になっている。
書けていないとスタッフに言われた時の、泣き笑いのような表情と声が蘇る。
『そう。書けない。どれだけ頑張っても、四十を越えても、僕の字は三歳児以下だ。誰よりもこの台詞を練習したのに。誰よりも理解しているのに』
あんな字を、黒崎はどこかで見た気がしていた。
思索に耽る黒崎を置いて、聴取は進む。
「お母さんが加賀美さんの電話に出ることはなかったんでしょうか?」
「一度もありませんでした。母は遅くまで仕事をしていたので。電話が来るのは私が留守番をしている時でした」
「今からでも、何か聞き出せませんか? もし姉妹であれば、そのほうが確実――」
「母は死にました。十歳の時に祖母が亡くなり、母は十一歳の時に」
「なるほど、失礼しました」
「私は村を出て児童養護施設に。そこでも、サキからの電話が支えでした」
「加賀美サキさんの家族構成は分かりますか?」
「父と、姉一人と兄一人です。母親はいません」
「よく行くお店の話とか覚えていませんか? 雑貨屋とか、喫茶店とか」
「サキは外に出られない生活をしていたんです。学校にも行っていませんでした」
「ご病気ですか?」
「分かりません……そのあたりは詮索しませんでした。ただ、父親が医者で、父親がサキを診ているそうです。――あれ?」
一が怪訝そうに首を傾げた。
「どうしました?」
「ああいえ、家には『先生』もいると話していたので、ちょっと引っ掛かっただけです」
「父親をそう呼んでいるわけではなく?」
「そんな感じじゃありませんでした」
「専門の違う医者でしょうか。あ、家庭教師では? 家に勉強を教えに来ている人がいるとか」
「勉強は父親が教えていたそうです」
「家族の名前は分かりませんか?」
「兄はツトムで、姉はハルノです。どう書くのかまでは分かりません……」
「先生の名前はどうでしょうか」
一は力なく首を振った。
「先生はもう家にいないそうです。あと、住み込みの家政婦もいたそうですが、その人も今はいないみたいで。八年前に聞いたので、ちょっと定かじゃないんですけど」
「家政婦か……その方の名前は?」
一はつかの間、宙に視線を彷徨わせてから答えた。
「サキは『ハナさん』と呼んでいました」
黒崎が聞き返した。
「ハナ?」
一が目を見開いて黒崎を見た。遊馬も顔を向ける。
「そうです。『ハナさん』と呼んでいました。フルネームは知りません」
黒崎は前のめりになり、一を見据えて尋ねた。
「一さんのお母さんの名前は何ですか?」
「一花ですけど……偶然ですよ。さっきも言ったように、母は私が十一歳の時に死んでいます」
「病気ですか?」
一は言葉に詰まった。
遊馬は困惑しつつ、様子を窺っていた。
「事故です。交通事故」
黒崎はやがて納得したように小さく頷いた。
「そうですか、すみません。十二月十七日に会う約束だったんですよね。その時のことを詳しく聞かせてもらえますか。待ち合わせ場所は西区蛇ヶ原町のどこですか?」
一の顔が強張った。目に怯えすら浮かべて黒崎を見ている。
「今からする話は、きっと信じてもらえないと思います」
遊馬が尋ねる
「どういう意味でしょうか?」
「私とサキは、西区蛇ヶ原町にある棺桶工場の敷地内で待ち合わせをしていました」
「棺桶工場……?」
遊馬と黒崎は顔を見合わせた。
「なぜそんなところで?」
遊馬が、思わず口からこぼれたような調子で尋ねた。
「待ち合わせ場所を指定したのはサキでした。午後六時に、敷地内にある白い小屋に来てと言われました。暗くても懐中電灯は使わず、誰にも見つからないようにとも。疑問には思いましたが、深くは聞きませんでした。サキに会えるなら何でもよかったんです」
一は言葉を切り、唇を湿らせた。
「棺桶工場は塀で囲まれていて、中に入れるか不安でしたが、扉が開いていたので問題なく入れました。入り口からは道が続いていて、十分ほど歩くと白い小屋に辿り着きました。待ち合わせ時間より早めに来たので、そこでしばらく待ちました。六時を過ぎてもサキは来ませんでした。もしかしたら先に来ていて、小屋の中で待っているんじゃないかと思って、小屋のドアを開けようとしましたが、鍵がかかっていました。それで……」
彼女はまた言葉を切った。自分を落ち着かせるように深呼吸をする。
「それで、もう一度周りを探してみようと小屋を離れたら、鍵の開く音が聞こえたんです」
また深呼吸。
「やっぱり小屋の中にいたんだと思って、小屋に駆け寄りました。今度はドアが開きました。なんだか凄い悪臭がして、吐き気がしました。小屋の中は真っ暗で、私は懐中電灯をつけました。そうしたら、小屋の中には――」
彼女の唇が痙攣した。
ただならぬ空気が応接室に張り詰めている。
黒崎は依頼人を見つめ、遊馬もメモを取る手を止めていた。
小屋の中には、と彼女は繰り返し、続けた。
「私が首を吊っていたんです」
何を言ってるんだ、この人は。
遊馬はまじまじと依頼人を凝視し、
「はいっ?」
すっとんきょうな声を上げた。
応接室に張り詰めていた緊張が解け、一が夢から覚めたような顔で遊馬を見た。
「すみません……」
彼女は背を丸め、か細く謝った。
「ああ、いえ、こちらこそ。ちょっとびっくりしちゃって」
「そうですよね。でも、本当なんです。喪服を着た私がそこで首を吊ってたんです」
一咲は前のめりになって言った。目は真剣そのもので、嘘を言っているようには見えなかった。
遊馬は目の前の依頼人を改めて観察した。
十二月二十四日に二十歳を迎える――つまり、まだ十九だ。見た目の印象ではもっと上に見えたため、年齢を聞いた時は意外だった。
全体的に清潔感があった。肩まで伸びた髪は艶があり、紺色のシュシュで一つにまとめている。
化粧は最低限といったふうで、自分を良く見せようという感じが希薄だった。表情も乏しく、何かを強く抑圧しているような緊張感があった。
遊馬は水をいっぱいに注いだグラスを思い浮かべた。表面張力で水面が膨らんでいる状態。一滴でも水を落とせば、崩壊してしまう。
依頼人は問題を抱えて探偵事務所にやってくるが、依頼人自身に問題があるケースも少なくない。精神に異常をきたした人間が妄想に取り憑かれ、探偵を雇おうとするのだ。
一咲がそういった類いの人間かどうか、遊馬にはまだ判断しかねた。
ただ、彼女が纏う妙な緊張感が引っ掛かった。探偵事務所という慣れない場所に来たから、というだけではないような。
この緊張感を、遊馬は知っている気がした。
「確認したいのですが」
黒崎が口を開く。
「小屋を開けると悪臭がしたと言いましたね。それは何の臭いですか?」
一は難しそうな顔で答えた。
「何の臭いかは、ちょっと分かりません。酷い悪臭としか……。公衆トイレの臭いをさらに悪化させたような……」
「排泄物のような臭いですか?」
「それに近かったと思います」
黒崎は深く息を吐いた。そして、再び切り出した。
「小屋を開ける前、一さんは小屋を離れたんですよね?」
「はい、サキを探そうと思って――」
「どのくらい離れましたか?」
「三メートルくらいだったと思います。真っ暗だったので、そこまで離れてはいません」
「ドアは内開きでしたか? それとも、外開き?」
「えっと、内開きだったと思います」
「その首吊りの女性は喪服だったそうですが、一さんも喪服だったんですか?」
「いいえ、私は普通の格好で――セーターとジーンズと、コートを着ていました。あとは斜め掛けの鞄を」
「本当に、一さんと同じ顔でしたか?」
一は黒崎をじっと見据えた。
「本当です。本当に、私と同じ顔でした。懐中電灯で顔を照らして見たんです」
「さっき、加賀美サキさんは双子の姉妹かもしれないと言いましたね」
一が頬を強張らせる。
遊馬は横目に黒崎を窺った。今日の彼はやけに積極的だ。いつもは聴取を遊馬に任せ、挨拶以外はあまり喋らないのに。
首吊り自殺というのが彼をそうさせているのだろうか。
いや、それより前に違和感を覚えた瞬間があった。
黒崎は加賀美家にいるという家政婦の名前に強く反応した。『ハナ?』と聞き返したのだ。
その後、なぜか彼は一咲の母親の名前を聞いた。そして、彼女の母親の名前は『一花』だった。
なぜ、彼は母親の名前を聞いたのだろう。
嫌な汗が背中を伝った。
黒崎は依頼人の返事を待っている。
彼女は意を決したように答えた。
「そうです……私達が双子なら、あれはサキだったのかもしれません。お二人にはそれを確かめて来てほしいんです。私はもう、あそこには行きたくなくて……」
「ちょっと待ってください」
なんだかよく分からないほうへ話が進んでいる。
遊馬はペンを持った手を軽く挙げ、会話に割り込んだ。
「ご依頼は人探しでは?」
「はい、サキを見つけてほしいんです。もちろん、生きた状態がいいです。でも、あの光景が目に焼き付いて離れないんです。あれがサキかもしれないって考えも。約束が駄目になったのに、いくら待っても連絡が来ないのも不安で……」
「死体を見た後、どうしたんですか? 通報は?」
「あの後のことは、パニック状態でほとんど覚えてないんです。気付いたら自宅にいました。車がちゃんと駐車場にあったので、車で帰ったと思うんですけど、道中の記憶が全くないんです。通報は……しなくちゃと思いつつ、できなくて……」
黒崎が言った。
「身内が死んだって通報するのは簡単じゃないんだよ」
「まだ、あそこに死体はあると思いますか……?」
一が黒崎に尋ねた。
「さあ……棺桶工場で働いている人が発見してるんじゃないでしょうか。電話で聞いたら教えてくれないかな」
最後はひとりごとの口調だったが、依頼人は身を乗り出してすがるように言った
「実際に行って確かめてほしいんです! どうしても気になってしまって……お願いします」
深々と頭を下げる。
黒崎が遊馬を見た。どうする、と目が問いかけている。
遊馬は小さく息をついた。
依頼人は相当参っているようだ。身なりから精神的な不安定さはあまり感じなかったが、実際はかなり危ないのかもしれない。
ここは依頼人の不安や考えを否定するより、一旦、要望を受け入れたほうがいいだろう。
遊馬は答えた。
「分かりました。工場へ行ってみます」
一が勢いよく顔を上げた。目を見開き、安堵した表情で言った。
「ありがとうございます!」
「まずは、棺桶工場の敷地内で死体が発見されていないか調べてみます。何か分かり次第、ご連絡します。一さんも、加賀美さんから連絡があった場合は、すぐにこちらに連絡を」
「はい。よろしくお願いします」
玄関で一咲を見送る際、黒崎が声をかけた。
「一さん」
「はい?」
ドアの前で彼女は振り向いた。
「一さんは車で棺桶工場へ行ったんですよね?」
「はい」
「車はどこに停めましたか?」
「道路脇に停めました」
「その時、他にも車はありましたか?」
一は少し考え、首を振った。
「いいえ。見当たりませんでした」
黒崎はなるほどと頷き、続けた。
「もう一つ、いいですか」
「はい」
「ウィリアム・ブレイクをご存知ですか?」
一はきょとんとした。
遊馬も黒崎を見た。
急に何を言い出すのだろう。
二人の困惑をよそに、黒崎は無表情で返答を待っていた。
「『無垢の予兆』の作者ですよね?」
「どんな詩か、分かりますか?」
一は躊躇いがちに詩の一節を朗読した。
夜ごと朝ごと
惨めに生れつく人もいれば
朝ごと夜ごと
甘やかな喜びに生れつく人もいる
甘やかな喜びに生れつく人もいれば
終りなき夜に生れつく人もいる
「この詩が、何か……?」
「その詩を、誰かから教わりましたか? 例えば、母親とか」
「いいえ」
一は即答した。
「この詩は、サキから教わりました」