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三階の住居はリビングが広く、部屋数も多かった。黒崎にも私室がある。
黒崎は私室のデスクに茶封筒を置くと、シャワーを浴びた。線香のにおいを念入りに洗い流す。
濡れた髪のまま、私室に戻った。
タオルで雑に拭きながら茶封筒を見下ろす。
遊馬が帰ってきたら、必ず中身を聞かれる。
中身を知れば、当然彼は『なぜそんなものを?』と疑問を抱く。妙に勘の鋭い男だ、萩原と黒崎が共有する秘密――空白の五年間にまつわるものだと察するに違いない。
「最後の最後にやってくれたな」
吐き捨てると、萩原の部屋に行った。
彼の部屋には初めて入る。すでに整理され、デスクの上は何もない。クローゼットの中も空だ。
壁に据え付けられた本棚には本がまだ残っていた。中途半端に片付けた形跡が残っている。
仕事用の資料はほとんど手つかずの状態だった。確か、遊馬に譲ると話していた。
対して、彼が話題に挙げていたエンタメ系の作家の本はなかった。
遊馬と語り合っていたミステリーの本もない。
アガサ・クリスティを除いては。
アガサ・クリスティの文庫本だけが綺麗に全冊収まっている。
黒崎は背表紙を辿った。
あった。
『終りなき夜に生れつく』
棚から抜き取るとそこだけぽっかりと隙間ができた。
――深淵が開くぞ。
いや、開かない。
開かせてなるものか。
黒崎は本を動かして隙間を誤魔化した。
『終りなき夜に生れつく』を持って私室に戻る。
黒崎の部屋はもともとゲストルームだった。
クローゼット、デスク、ベッド、本棚――白い漆喰の壁に合う木製の家具が揃っている。
モスグリーンのカーテンは閉じたままだ。
この部屋を使ってしばらく経つが、室内は殺風景だった。白居団地を退居する際に私物のほとんど処分したため、置く物がないのだ。本棚も空っぽである。
黒崎は手にした文庫本を一瞥した。
突発的にこの本を選んでしまったが、他の本のほうがよかっただろうか?
アガサ・クリスティについてはイギリスのミステリー作家だということくらいしか知らない。
ミステリーは嫌いだ。
死に疑問を抱かせるから。
黒崎は茶封筒からウィリアム・ブレイクの詩集を取り出し、鍵付きの引き出しにしまった。しっかり鍵もかける。
『終りなき夜に生れつく』を入れた茶封筒を持ってリビングに出た。
リビングにはL字の大きなソファーとテーブルがある。窓のそばには観葉植物が置かれ、爽やかな雰囲気が漂っていた。
黒崎は茶封筒をテーブルに置いた。少し動かして角度を調整する。さりげなく置かれた感じを装った。
茶封筒を眺め、考える。
真木と萩原優子に口止めしなくては。
夕方、遊馬が帰ってきた。
黒崎はリビングのソファーでくつろいでいた。
「ただいま」
「おう」
遊馬の視線が一瞬、茶封筒に留まったが、すぐに私室に行って着替えてきた。
遊馬はキッチンでコーヒーを淹れ、ソファーに座ってから尋ねた。
「中身、何だった?」
「妹さんに聞かなかったのか?」
「うん」
黒崎は茶封筒を渡した。
遊馬はマグカップを置き、茶封筒を開けた。『終りなき夜に生れつく』を見ると、怪訝そうに首を傾げた。
「どうしてこれを?」
「いつだったか、トラウムで話したろ。俺がミステリー読まないって」
遊馬は束の間記憶を探り、ああと声を上げた。
「それでこれを?」
「うん」
遊馬は釈然としない顔で本を見つめ、唸った。
「なんでこれなんだろ。クリスティなら他にもたくさんあるのに。『そして誰もいなくなった』とか『アクロイド殺し』とか」
黒崎でも聞いたことのあるタイトルだった。
「鉄板過ぎるからじゃないか? それに『そして誰もいなくなった』を俺に渡すのはなんかブラックジョークが過ぎるだろ」
「うーん」
「それ、読んだことある?」
「あるよ」
「ホームズみたいな探偵ものか? なんだっけ、アポロみたいな」
「ポアロね。クリスティといえばポアロやマープルシリーズだけど、これは違う。サスペンス小説だよ。クリスティが自信作に挙げてる」
「ふうん。まあ、ありがたくもらっとくよ。これを機にミステリーにはまるかもしれん」
黒崎の言葉に遊馬は表情を和らげた。
「良いんじゃない。クリスティは名作揃いだし」
遊馬は『終りなき夜に生れつく』を茶封筒を戻し、黒崎に返した。
黒崎は茶封筒を傍らに置き、尋ねた。
「それで、話って何だよ」
「ん?」
「葬式が終わった時に言ってたろ」
「ああ! そうだった、大事な話があるんだよ」
遊馬は真剣な顔で黒崎に向き直った。
「黒崎君、探偵になってほしい」
「は?」
「僕一人で探偵事務所をやるのも大変だし、君にも手伝ってほしくて。君、どうせまともに働く気ないんだろ?」
「失礼な。ないけどよ。だからといってなんで俺が――」
「またな」
遊馬が黒崎の言葉を遮って言い放った言葉はあまりにも唐突で、黒崎は面食らった。
一瞬、互いに見つめ合う。
黒崎は怪訝な顔で。
遊馬は真顔で。
「君が失踪する前の日、君は僕に『またな』って言ったんだ。覚えてるだろ」
「……いいや」
遊馬はうっすらと笑った。
「人間、病気でもない限り自分がついた嘘は覚えてるものだよ。君は僕が知る中で病気じゃない。むしろ、可哀想なくらい正気だよ。君はあの時、わざと『またな』と言ったんだ」
「だったら何だ」
「嘘をついた償いをしてくれよ」
黒崎は鼻を鳴らした。
「お前、小さい嘘をつかれるたびに償わせるのか? 悪かったよ。謝罪した。これでいいだろ」
「謝罪はただの自己満足だ。大事なのは謝罪した後の態度じゃないか? 僕と探偵をしろ」
「嫌だ」
黒崎はじわじわと実感した。遊馬朝輝が黒崎光矢の五年間を知らないように、黒崎光矢も遊馬朝輝の五年間を知らないことを。
五年。人が変化するには充分な歳月だ。
黒崎は目の前の男を改めて見た。
綺麗な顔は五年を経てさらに磨きがかかっている。長い睫毛に縁取られた瞳も凄みが増している。
彼につく枕詞は常に賞賛だろう。
太陽のような。天使のような。そんな言葉がよく似合う。きっと、周りの大人達はそうやって彼を肯定してきたに違いない。
だが、彼の祝福された人生を決定づけているのは、生まれや育ちではなさそうだった。
彼はもっと別の何かを内に秘めている。
絶対に穢れることのない何かを。
それは黒崎には到底持ち得ないものだった。
彼を見ていると、自分は澱んだところに生まれたのだと突きつけられる。
どれだけ清らかな環境にいても澱んでしまう。なぜなら、黒崎自身が澱みの源泉だからだ。
だから、少しだけ汚してやろうと思った。
彼からすればほんの一瞬のことだ。
清い泉に墨を一滴垂らした程度の澱みだ。
「君、僕のこと嫌いだろ」
遊馬がニヤリと笑みを深めて言った。
「初めて会った時から嫌いだよね? 生まれも育ちも恵まれたいけ好かない奴だって思ってるの、気付いてたよ」
「そうか。じゃあ、そんな奴と一緒に仕事をする理由はないよな?」
「いいや、償え。僕は君に対して一度も偏見を持って接したことはない。君も僕に対して一度くらいは誠意を持って接するべきだ」
黒崎は大きなため息をついた。
「悪かったって。でも、俺に誠意なんてもんを求めるより、別の人間と真の友情を育んだほうが有意義だよ。俺のことは忘れて、良い人生を生きてくれ」
「やだね」
遊馬は即答した。
「なんで」
「僕は君のことを気に入ってるから」
「意味が分からん」
「可哀想なくらい正気な人間なんて、そう簡単には見つからない」
「その可哀想って言うのやめろ。第一、俺は正気じゃない」
「確かに正気じゃないことをしてそうではある。でも、『正気じゃない』って自覚できる程度に正気なのも確かだ。萩原さんのところで働いて分かったけど、異常者って普通の顔してるんだ。異常を異常だと認識できてない。どれだけ言葉を尽くしても無理だ。それに比べたら君は間違いなく正気だよ。黒崎君。正気の人と、異常な人の決定的な違いって何だと思う?」
黒崎は唇を引き結んだが、返事を待つ遊馬の視線に耐えかねて口を開いた。
「さっきお前が言った、認識できるかどうかじゃないのか?」
遊馬はにっこりと笑った。太陽のような、天使のような笑顔で楽しげに答える。
「罪悪感があるかどうかだよ」
黒崎は今度こそ沈黙した。
「また人の群れに飛び込んで傷つきながら友達を探すなんて御免だよ。そんな手間をかけるくらいなら、気に入った人間を変えたほうが早い。僕は君が好きなんだよ。生まれや育ち、見た目で人を判断する愚かさを知ってる君が」
遊馬は言葉を切り、息をついた。
「僕と探偵になれば、生活費は無料だよ。なんだかんだ言っても、ここでの生活は快適でしょ? 同居人は家事が得意だし綺麗好きだし」
痛いところを突かれた。
黒崎は表情に出すまいと努力する。
確かに、今の生活を手放すのは惜しい。
白居団地は住み心地最悪だった。夏は虫がわき、冬は隙間風で死にかける。どこかが故障しても業者が来てくれない。
ネットで心霊スポットとして取り上げられたせいで面白半分にやってくる連中が後を絶たず、夜中に騒ぎを起こす。
住人も『個性的』であるため、トラブルは日常茶飯事だった。
慣れれば平気だと思っていたし、そう思い込んで住んでいた。しかし、実際のところは感覚が麻痺していただけだったと今更ながら気付いた有様である。
やはり正気ではない。
遊馬ビルを出たとして、自分がまともに生活できるかと問われれば、自信がなかった。
まだ俺はそこまで治癒していない。
人間らしい生き方を知らない。
そんな自覚があった。
目の前の男が憎らしい。
奴はすでに返事を知っているかのような態度だ。黒崎が頷くのを待っている。
ただで頷いてやるものか。
「遊馬、俺がいなくて寂しかったか?」
遊馬はきょとんとした。
「答えろよ。俺に会いたかったか?」
黒崎の言葉の意図を理解したらしく、彼は笑みを張り付けたまま目に苛立ちを浮かべた。
「もちろん、寂しくて寂しくて仕方なかったよー。君もだろ? ええ?」
黒崎は唇を歪めて笑った。そして、はっきりとした口調で答えた。
「そうかい。じゃあ、もうしばらくここにいてやるよ」
年が明け、冬も終わりに差し掛かったある日。
遊馬ビルの二階で怒声が轟いた。
「なんで俺の名前なんだよ!」
黒崎は事務室に飛び込み、鬼の形相で遊馬に迫った。ついさっきまで外の通路にいたため、鼻先が寒さで赤くなっている。
遊馬はデスクで作業していた。先ほど配達員から受け取った小包を開けようと、カッターを探している。
事務室には調査員用のデスクが六台ある。それらは三対三で向かい合って並んでいる。所長のデスクは事務室の奥に置かれ、窓を背にしていた。
遊馬は萩原探偵事務所だった頃と同じデスクを使っている。他のデスクと違って、彼のデスクには物が残っていた。ファイルが積まれ、去年と今年の卓上カレンダーが並んでいる。
「黒崎君、カッター知らない?」
「知るか!」
「おかしいなあ。ペン立てに入れたはずなのに。どっか行っちゃったよ」
「なあ、なんで、俺の名前が、看板に、書いてるんだって聞いてるんだよ!」
「看板に君の名前を入れるくらいしとかないと、どっか消えちゃいそうなんだもん」
黒崎はガクリと肩を落とした。
「俺は探偵業の何の知識もないんだぞ」
遊馬はデスクの引き出しを開けながら、あっけらかんと答えた。
「少しずつ学んでいけばいいじゃない。僕、知ってるよ。君が夜な夜な萩原さんの部屋に入って資料読んでるの。いやあ、関心! 昔からそうだったよね。なんだかんだ真面目っていうかさ。あ、あった」
引き出しからカッターを出して見せた。小包を開けながら続ける。
「萩原さんには色々教わったけど、一番口酸っぱくして言われたのが、引きずり込まれないこと」
黒崎は首を傾げた。
「人の悪意を見続けるとこっちも病むんだよ。依頼人と依頼人を取り巻く環境から一歩引いて見ろってこと」
「なるほど……」
「探偵とは絶対的な傍観者である――by萩原清彦」
黒崎は彼の口調に微妙な変化が気になった。
まるで台詞のようだ。と、咄嗟に思った。
何度も口にした台詞。
違う。この言葉を幾度となく自分に言い聞かせてきたと思わせる響きを感じたのだ。
黒崎はなんとなく話を変えることにした。
「それ、何?」
小包を目で示して尋ねる。
遊馬はにっと笑って言った。
「よくぞ聞いてくれました」
そして、封を開いた小包からいそいそと緩衝材を出し、
「ジャジャーン!」
と、卓上ネームプレートを黒崎に掲げて見せた。
黒いネームプレートには名前と役職が白く記されている。
『所長 黒崎光矢』
「俺が所長なのかよ……」
黒崎は怒る気も失せ、げんなりした顔で遊馬を見た。
遊馬は輝かんばかりの笑顔だ。美貌が冴え渡っている。
「僕と君の名刺もあるから。ふふふ、よろしく、黒崎所長!」
「ああもう……分かったよ」