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 四○六号室。

 萩原は黒崎光矢が住む四階の部屋に入った。

 白居団地のマンションはほとんどが空き部屋らしいが、時々人の気配がする。

 息を殺したような沈黙が薄気味悪い。心霊スポットを兼ねているだけのことはある。

 階段も通路も閉鎖的で荒廃した雰囲気が充満していた。知らず知らずのうちに焦燥感に駆られ、正常な思考力を奪われそうだ。

 こんなところに五年も住んでいたのか。

 黒崎の住まいを見た率直な感想だった。

 玄関の靴箱の上とキッチンに芳香剤が置かれ、安っぽい柑橘系の香りが漂っていた。

 どこもひどく殺風景で、洋室や和室にいたっては使われた形跡すらない。

「――さて」

 萩原は小さく呟き、部屋の中を物色し始めた。

 薬物などの危険なものがないか。黒崎の様子からして、薬物に手を出しているようには見えなかったが、念のために調べることにした。

 部屋中、どこからも薬物は出てこなかった。使用した形跡もない。

 小型冷蔵庫のそばに雑に置かれたゴミ袋には、市販の睡眠導入剤の空き箱と包装シートが入っていた。

 黒崎光矢。

 ようやく見つけた彼は、通路から飛び降りる直前に見えた。

 血色の悪い顔。皮肉っぽい表情が目立つが、声は意外にも柔らかかった。

 五年前、写真で見た黒崎光矢の印象は、『危うい』だった。

 端正だが、人を寄せつけない冷たい横顔から、危ういまでに研ぎ澄まされた何かを感じた。

 遊馬には言わなかったが、依頼を受けた当時は『もしかしたら、最悪の結果を伝えなければならないかもな』と思った。黒崎光矢を写真でしか知らない萩原ですらそう思うのだから、友人の遊馬はもっと不安だっただろう。業を煮やして雇えと言ってきた彼の焦りも理解できた。

 今日、大人になった黒崎を見て、萩原は落胆した。

 写真を見て感じた危うさが、そっくりそのままそこにあったのだ。

 何も変わっていない。それどころか、悪化しているようにすら見えた。

 黒い瞳に沈む鬱屈。

 五年間、何が目的で自殺スポットに住んでいたのか。

 ゴミ袋には丸めた便箋と封筒も捨てられていた。

 便箋は縦の罫線だけ。白い封筒にも装飾はない。便箋にはペン先を紙面に当てた跡が残っていたが、文字は書かれていなかった。封筒も宛名や差出人は書かれていなかった。

 何枚か丸めた便箋と封筒を見つけたが、すべて同じだった。

 他はただのゴミ。握り潰した煙草の空き箱と、コンビニの小さな袋に煙草の吸い殻が詰まっていた。

 煙草はベランダで吸っていたらしい。室内に煙草の臭いはしなかった。

 リビングにある家具は折りたたみ式のテーブルと簡素な寝具だけだった。テレビやソファー、カーペットもない。すべて必要最小限。快適に過ごすという意識をまるで感じられない。

 テーブルの端に便箋と封筒、ペンケースが置かれていた。その便箋にも何かを書いた様子はない。

 壁際に段ボール箱が四つ並んでいる。二つは衣類、一つは生活用品、もう一つは本が詰まっていた。

 どんな本を読むのか気になり、段ボール箱の中を覗き込む。ふと外が気になり、玄関のほうをチラッと見て耳を澄ませた。相変わらず不気味なほど静かだった。

 本へ視線を戻し、作業を続行する。

 古典小説と文章の書き方に関する教本が入っていた。教本は新品のようだが、小説はほとんど古本で、古本屋の値段シールが貼られている。

 ドストエフスキーはほぼ全冊揃っていた。他はキェルケゴール『死に至る病』、ショーペンハウエル『自殺について』、リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』と『芝生の復讐』。

 リチャード・ブローティガンは遊馬が好きな作家でもある。萩原も学生時代に読んだ。

 ミステリーは読まないようだ。ドイルもクリスティもない。

「ヒツギノソコニウマレツク……」

 萩原は呟いた。先ほど黒崎から聞いた言葉。死者が遺した言葉だ。

 クリスティの小説『終りなき夜に生れつく』がよぎった。確か、このタイトルの元となる詩があったような。

 萩原は段ボール箱の蓋を閉じ、物色した痕跡を消しながら記憶を探った。

 そして、思い出した。

「ウィリアム・ブレイクか」



 黒崎が四○六号室に戻ってきたのは昼前だった。

 中央区天文町に車を飛ばす。

 助手席に座った黒崎が尋ねた。

「遊馬には言ったんですか?」

 萩原は前を向いたまま答えた。

「事務所にいるようにとだけ。君を見つけたとは言ってない」

「どうして?」

「君が戻ってくるか分からなかったからさ」

 黒崎は何も言わず、口をへの字にした。

「私からも質問していいかな」

「何ですか?」

「君は死にたいのか?」

 黒崎は間を置いて答えた。

「分かりません。あなた、俺のことどれだけ知ってるんです? 遊馬から色々聞いてるんでしょ?」

「両親が君を残して心中したことは聞いているよ」

「俺の十八の誕生日にね。夜、俺が風呂に入ってる間に仲良く首を吊って死んでたんです」

「遺書は?」

「ありましたよ。最初からこうすることを決めていたそうです。『計画通りに生きて死ぬ。老いて衰え、行動や思考がままならなくなれば計画はいずれ破綻する。私達はそれが許せない。なので、自分達で終わりを決め、実行する』ってね」

 萩原は渋面を浮かべて言った。

「時限爆弾みたいだな」

 黒崎は乾いた笑い声を上げた。

 萩原は質問を重ねた。

「死ぬのが怖いと思うか?」

「俺は死に対して何の感情もないんです。自殺という行為に対しても特に思うことはありません。ただ、五年間、自殺死体を見続けて思ったんですけど、自殺死体って悲劇が詰まった袋みたいですよね。死ぬ前の彼らのことを何も知らないのにそう思うんです。本当は幸せな人生で、満足して安らかに死んだのかもしれない。でも、死んで腐って、酷い見た目になった自殺死体って残念ですよ。惨めという感情を形にしたらああなるんだろうなって」

 黒崎は一旦言葉を切り、続けた。

「俺、両親の死体を見た記憶がないんですよ。俺が発見して通報したのに、死体に関する記憶だけ頭からすっぽり抜け落ちてる」

「ショック状態なら記憶が飛ぶこともあるだろう」

「萩原さんは死ぬのが怖いですか?」

「怖いね。まだ四十五だぞ。八十になった自分を想像して生きてきたってのに」

「結婚は?」

「独身だよ」

「寂しい?」

「いいや、まったく。結婚願望がなかったからな。子供も欲しくなかったし。ただ、事務所から調査員がいなくなったのが寂しいよ。もう閉業したんだ。他の調査員はよその探偵事務所に移ったり、独立したり。今事務所に残ってるのは遊馬だけだ」

「本当に俺が最後の依頼だったんですね」

「ああ。解決してよかったよ。だが――」

「だが?」

 黒崎が先を促すと、萩原はややあって首を振った。

「……いや、なんでもない」


 遊馬ビルは商店街の外れにあった。

 洋風の造りをした三階建ての雑居ビルで、ダークブラウンの外壁が重厚感を漂わせている。

 一階は喫茶店だった。看板には『喫茶トラウム』と、間隔を空けて『Traum』と掲げていた。ドイツ語で『夢』という意味だ。

 二階は萩原探偵事務所。三階は萩原と遊馬の住まいだ。

 萩原が一人で住んでいたところに、遊馬が転がり込んできたらしい。

 三階の窓に明かりはなく、二階の窓は灯っていた。

 ひっそりとした出入口からビルに入る。中は赤茶色のざらついた壁だった。階段はグレー。ぴったりと閉じたエレベーターのドアはシルバーだ。

 黒崎は萩原について行くような形で、萩原の後ろから奥のエレベーターをぼんやり眺めていた。

 萩原が無言でそばの階段に足を向ける。黒崎も黙ってそれに続いた。

 二階の通路にはポツンと黒いドアがあった。

 ドアの上部に『萩原探偵事務所』と彫られた真鍮のプレートが鈍く光っていた。

 ドアの真ん中には『閉業』と書かれたコピー用紙が貼られている。

 二人はドアの前に立った。黒崎は萩原の後ろで、彼の後頭部を眺めていた。

 萩原はなかなかドアを開けない。

「……十五年だ」

「え?」

「十五年、私は探偵をしていたんだ」

 萩原はうつむき、ふっと肩から力を抜いた。

 黒崎は急に彼が縮んだような気がした。

「忘れないでくれ。君は私の最後の依頼なんだ」

 萩原は返事を待たず、携帯を取り出して電話をかけた。

 すぐ後ろにいた黒崎にも音が届く。無機質な呼び出し音が鳴り、それが唐突に途切れると、声がした。若い男の声だ。

 萩原が語りかける。

「遊馬、黒崎光矢を見つけたよ」

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