4 嫌味ったらしい男
「……あ、あなたを好きになってしまったから?」
頬に両手を添えて、ぱちーんっとウィンクを決めてみる。
焦りが襲ってきたのは、そう口にした瞬間だった。
(ばっ、ばか! 私のばか! もっと他に言うことがあったでしょ!)
嫌いだったくせにと連続で詰められたから、反射的にその逆で返してしまった。
頭が真っ白で、どうにか場を取り繕おうと口から出た苦し紛れの一言。
だが、それ以上に驚いていたのはヴィンセントの方だった。
仮面のように整った表情がふっと崩れ、驚愕に目を見開いた彼は言葉を失ったまま、まるで時が止まったかのようにこちらを見つめていた。
「だったら俺との夫婦関係を続行したいと思うのでは?」
「いえ! そんなことはありません!」
勢いよく否定した瞬間、彼の目が細められる。
「記憶を失ってからすぐに目にしたのがあなたでした。私は、あなたの端正な顔立ちに一目で恋に落ちてしまったんです。そして今日改めてお会いして、更にあなたを好きになってしまいました! あなたのことが好きすぎて、いつかあなたが他のレディーの元に行ってしまうのではないかと不安になってしまうんです」
まくし立てるように言い切ったあと、自分でもわかるほど心臓がバクバクしていた。
これもう演技じゃない。緊張と混乱で本当に倒れてしまいそう……。
しかし、そんな私の心境なんて微塵も知らない彼は、まるで冷笑を浮かべるように言い放った。
「俺があなた以外の女性の元に? それこそありえないでしょう」
(それがありえるから言ってるんでしょ! 現にあなたはフィオレッタっていう超絶美人の方になびいていくのよ!)
怒鳴りたいのをぐっと堪え、腹の底で叫ぶ。
だけど彼の表情は余裕そのもので、それがまた腹立たしい。
「ありえます! そんな不安な思いを抱えたまま一生生きていくのは嫌なんです! だから今、ここで別れを告げた方がお互い楽になれるでしょう?」
――この結婚の引き金となったヴィンセントの妹、アリステアは既に病が完治している。
犯罪に片足突っ込んでいる状態のティアルジ公爵家の罪を明らかにし、全てを皇帝に打ち明けたなら彼は私と結婚する必要などもうなかったはずなのだ。
それでも彼がこの政略結婚に頷いたのは、死んだ両親の威厳を守りたかったから。
嘘を何よりも嫌っていた、正義感の強い前公爵のように。そしてまた、その血を引いたヴィンセントも同じようにまっすぐな人間だった。
だけど、ソフィア自身から離婚の話を持ち出したとなれば話は別だ。
断られる理由は何一つない。この離婚の申し出は、向こうから願ったり叶ったりのはず。
だからお願い。分かったと頷いてちょうだい。
「……まるで別人だな」
「えっ?」
ぽつりと呟かれた言葉に、思わず間の抜けた声が漏れる。
「断る」
その一言が、まるで刃のように胸に突き刺さった。
言葉の意味は簡単なはずなのに、どうしても理解が追い付かない。
(断る? 今、断るって言ったの? ……どうして?)
喉の奥がひゅっとすぼまり、呼吸がうまくできない。
鼓動だけがやけに大きく、耳の奥でがんがんとうるさく鳴っていた。
予想と大きく違う言葉に、私はどう返事を返せばいいのか分からなかった。
「話はそれだけか? なら、もう終わりだ」
ヴィンセントはそう言うと、ゆっくりと食器を手に取り、まるで何事もなかったかのように料理を口に運び始める。
ナイフとフォークが皿に触れる音だけが、やけに耳についた。
(どうして、どうして断るの? あなたは私のことなんて、悪女のソフィアなんて大嫌いなはずじゃない……!)
私はその光景を、何も言えずに、ただ見つめることしかできなかった。
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「……おはよう、アンリエット……」
「おはようございます、奥様」
「……うん?」
ソフィア様ではなく、奥様という呼び方にハッとして、目を擦りもう一度前を見る。
「えっ」
すると、そこには十名ほどのメイドが並んでいた。
「奥様、ご準備を」
メイドたちの中心に立つ中年女性のメイドがそう言うと、両脇から若いメイドたちが雪崩れ込むようにベッドに近づいてきて、私の腕を取った。
「ちょ、ちょっと! 何をするのよ!」
「急ぎましょう。どれほど時間があっても足りません」
何がなんだか分からないまま私はふわりとしたローブを着せられ、両側から支えられて豪奢な浴室へと連れていかれた。
「お湯加減は奥様のお肌に合わせて調整しておりますので、ご安心を」
「ローズヒップの香油を持ってきてちょうだい」
「薔薇の花が少し足りないわね」
「こちらは公爵様お好みの香りでございます」
頭から湯をかけられ、髪は丁寧に解かれ、泡立つ石鹸の香りが鼻をくすぐる。
髪を梳く指先は驚くほど柔らかく、背中を撫でるようにマッサージしてくる手つきには一分の無駄もなかった。
湯船から上がると、今度はバスタオルで丁寧に全身を拭かれ、香油を含ませたコットンで肌を撫でられ、またマッサージが始まる。
「も、もう、なんなのよ! アンリエット……アンリエットはどこにいるの?!」
「お呼びですか? ソフィア様」
「アンリエット!」
大勢のメイドたちの中から、アンリエットがひょっこりと顔を出した。
「ねえ、一体どうしちゃったっていうの? 今日はやけに手の掛かった準備じゃない。いつもはあなた一人なのに……」
アンリエットはきょとんとした顔をしていて、まるで私が何を言っているのか理解できていないかのように、いつもの微笑みを浮かべていた。
「人が多いことを好まれないソフィア様が、普段の準備は私以外の者には任せないとご自身で命令されたのですよ。……まあ、今日のように大切なパーティーの日は違いますが」
「……パーティー?」
「あれ、私ったらお伝えしていませんでしたか?」
アンリエットは顎に指をあてて、首を傾げた。
「本日は、このロスマンス帝国の皇帝、セザール・ディ・ロスマンス陛下のお誕生日パーティーが行われる日ですよ。ヴィンセント公爵様が参加されないはずありませんし、その奥様であるソフィア様ももちろんご出席されます」
にっこりと笑いながら、アンリエットは悪びれもなく続ける。
「まさかこれも忘れているだなんて思ってもいませんでした。ごめんなさい。エヘヘッ」
……え、エヘヘじゃないわよ……。
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「こちらです奥様。既に公爵様がお待ちになられています」
「分かったわ。ありがとう」
「えっ……あ、いえ……」
(はあ、お礼を言っただけなのに……)
使用人の少女が目を丸くして固まるのを見て、私は心の中でそっとため息をついた。
屋敷の使用人たちはアンリエットを除いて、私に話しかけられると決まって子犬のように震えた。
まあ、ソフィアに随分とひどい目に合わされていたみたいだし、仕方ないのかもしれないけど。
メイドに案内されるがまま歩くと、そこには既にひときわ大きな馬車が止まっていた。
その前に立つのは、黒髪がよく似合う一人の青年。
「来たか」
昨夜、離婚について話し合って以来の顔合わせだ。
(わかってはいたけど……やっぱり、少し気まずい)
「メイドからは、普段私たちは別々の馬車で会場に向かっていたと聞きましたが……?」
「気を失った妻を一人放っておくわけにはいかないのだろう? そう、君が言ったのではないか」
一瞬、彼の口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
(ハハッ……まさかあなた、昨日のことを根に持ってるの?)
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馬車はガタガタと、石畳の上を不規則に揺れながら進んでいく。
私の反対側に座っているヴィンセントはまるで揺れなど感じていないかのように、黙って窓の外を眺めていた。姿勢も崩さず、涼しげな横顔のままぴくりとも表情を動かさない。
話しかけるべきか、それともこのまま黙っていたほうがいいのか。頭の中で言葉をぐるぐると巡らせていたとき、不意にヴィンセントがこちらを向いた。
「記憶喪失だと言っていたが、もう外に出ても大丈夫なのか?」
「えっ」
「どうした」
「……あ、いや……」
(突然話しかけてくるからびっくりしたのよ!)
取り繕うように笑いながらも、胸の中では小さな混乱がぐるぐると渦巻いていた。
「もしかして私を心配してくださっていたんですか?」
「……もちろん」
軽く微笑みを浮かべながら即答したヴィンセント。
(ハハッ、どこからどうみても心配してるようには見えないけど?)
「あなたはとってもお優しいんですね」
わざとらしく目を細めて愛らしい笑みを浮かべる。もちろん、頬に手を添えるのも忘れずに。
「記憶喪失と言っても、完全に記憶を失っているわけではないんです。記憶が混同しているというか、なんというか……」
説明しながら、自分の言葉がどこか頼りないのを感じて、思わず眉をひそめる。
「ですがあまり他の方には知られたくなくて。これを知っているのは一部のメイドとお医者様、あとはあなただけです」
「……夫人にも伝えないつもりか?」
ヴィンセントの言う夫人とは、恐らくベロニカのことだろう。
(あんな女に言うはずがないでしょ?)
もちろん、そんな本音は口には出さず、にっこりと微笑みながら答えた。
「はい、伯母様にもお伝えする気はありません。心配をかけたくありませんので……」
記憶喪失だなんて知られたら、なにか都合よく使われるかもしれない。あの意地汚い女に付け入る隙なんて見せてはならないのだ。
「そうか」
小さくそう呟くと、彼はまた口を閉ざしてしまった。
「あの、良ければあなたが教えてくれませんか? 大体のことは使用人が教えてくれたのですが、社交界のことまでは分からなくて……あっ、でも! あなたは私のことがお嫌いでしょうから会話をしたくはありませんよね! あなたの邪魔にならないように黙っていますね」
口元を両手で塞ぎ、「黙っている」アピールをしてみる。
ヴィンセントはそんな私を見て、わざとらしくため息を吐いた。
「俺は君の夫だから、そのくらいは助けになろう」
「……本当ですか?」
「ああ、本当だ」
さすが男主人公。いくら私のことが嫌いでも、正義感の強い男主人公なら助けになってくれると思ってたのよね。
「何が聞きたい」
そう問われて、私は少しだけ首を傾げた。
聞きたいことはたくさんあったけれど、まず一番に気になっていたのは――
「そういえば、私は元々あなたをなんとお呼びしていたんですか?」
今は周囲の使用人たちに合わせて「公爵様」と呼んでいるけれど、元々ソフィアがヴィンセントをなんて呼んでいたのか分からなかった。
私が小説で読んだのはフィオレッタとヴィンセントのラブロマンス小説。悪役のソフィアとヴィンセントの話なんて、ちっとも書かれていなかった。
書いてあることと言えば、ソフィアがヴィンセントに依存をし、ヴィンセントはソフィアを毛嫌いしていたという内容くらい。
記憶喪失だと明かした相手ならともかく、社交界では物語の主要キャラたちに遭遇する可能性だってある。
うっかり変な呼び方をして正体を疑われでもしたら完全にアウトだ。
今のうちに、できるだけ情報を整理しておかないと。
「さあ、どうだったかな。……まあ、その堅苦しい呼び方はしていなかったのは確かだが」
(どうしてそんなに遠回しな言い方をするのよ。でも、堅苦しい言い方と言われれば、確かにそうかもしれない)
「で、では……ヴィンスと、お呼びしてもよろしいですか?」
口元に手を持っていき、上目遣いで恐る恐る問いかけてみる。
親しい者だけが呼ぶことが出来る「ヴィンス」という愛称は、ヒロイン・フィオレッタだけがしていた呼び方だ。
だから、さすがの彼も大嫌いな私が言い出したら腹が立つことだろう。
(ね? 私のことが心底ムカつくでしょ? 分かったならさっさと離婚するって言ってよ)
私の言葉にヴィンセントは驚いたように目を見開くと、こちらをじっと見つめたまま言葉を失っていた。
「やっぱり少し馴れ馴れしかったですよね?」
「いいや、構わない」
きゅっと口角を上にあげて、悪戯気に微笑んだヴィンセント。
「え?」
予想外の言葉に、私は思わず驚いてしまう。
「君の呼びたいように呼んでくれて構わないさ」
「本当ですか? 私なんかがよろしいのでしょうか?」
「はあ……あまり謙遜するな。そんなことでは、俺が妻に対し冷徹な男として見られるだろ」
(……その通りでは?)
「それでは本当に許してくださるんですか?」
「ああ」
ヴィンセントは目を閉じ、すました顔で頷いた。
生意気だけど、それすらも様になっているのだから仕方がない。
「嬉しいです、ありがとうございます」
大袈裟に声を上げ、両手を胸の前で軽く握りしめ、顔の横へそっと寄せる。
しかし、まさか本当に許してくれるとは思っていなかった。
ここで嫌悪を顕にさせて、もう一度離婚の話に持ち込もうとしたのに……。
「……はあ」
だが、ヴィンセントはそんな私を見て、何度目か分からない溜息を吐いた。
「さっさと記憶が戻ってくれることを祈っているよ」
(ああ、ハイ)
けして冷たい声では無い。むしろ淡々とした、呆れたような調子だった。
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