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1 悪女 ソフィア・フォンレーヌ


「しっかり、しっかりするんだ!」


 身体を揺すられる感覚と、何度も呼びかけられる声が遠くに聞こえた。


(うーん、ママ? 私まだ眠いよ……あともうちょっとだけ寝かせて……)


 お得意のシカトをかましてもう少し眠ろうとしてみるが、何度も必死に呼びかける声がしつこく、段々と意識がはっきりとしてきた。


 慌てたように何度も繰り返しかけられる、「目を開けろ」という言葉。乱暴な言い方に、低い声のトーン。


「目を覚ますんだ!」


(あれ……?)


 この声が男性のものだとそこでようやく気が付いた。

 母親の声ではない。私は今一人暮らしをしているし、誰かを家に上げた覚えもない。


(それじゃあ、この声の持ち主は一体……)


「だ、誰なの?!」


 ぼんやりとした視界の中で、私は声を上げる。

 まだ寝ぼけていて視界がかすむ中、いっぱいに広がっているのは――青色。


「え?」


 この青色の正体が人間の瞳だと気づいたのは、数秒後のことだった。


「やっと目を覚まし――」

「な、な……! さわらないでっ!」


 少し動けば唇が当たってしまいそうなほど近い距離に居た、謎のイケメンから逃げるように体をよじらせ両手で胸板を押す。

 かなりの強い力で押したにもかかわらず、男の身体はびくともしない。


(ここはどこ?! なんなのこのイケメン! どうしてこんなことに?!)


 いつものようにベッドに入って、いつものように眠りについただけなのに。

 目を覚ますと、そこに居たのは見知らぬ男。それも、とんでもないイケメンに抱きかかえられているではないか。

 こんな状況でパニックになるなという方が無理だろう。


「……元気そうで安心しました」


 眉を下げて、呆れたような、少し困ったような顔をした黒髪のイケメンはそう呟くと手の力を緩めた。


「あの、あなたは……」

「ソフィア様! ああ、目を覚まされて本当に良かった!」


 「あなたは一体誰なのか」そう質問しようと口を開いたが、イケメンの横からひょっこりと顔を覗かせた女性が私の声を遮った。


 鮮やかな赤毛に、透き通るようなエメラルドの瞳。クラシカルなメイド服に身を包んだ彼女は目に大粒の涙を浮かべてこちらを見つめている。


 ソフィアとは外国の人の名前だろうか。どうしてこの女性は私をその名前で呼ぶのか。どうして泣いているのか。


 混乱する頭を押さえながら、私はもう一度彼女をじっくりと観察する。


(というか、この人たちどこかで見た覚えが……)


「公爵様。とりあえずソフィア様をお部屋にお連れいたしましょう。私はお医者様を呼んできます」

「ああ」


 赤毛の女性も綺麗な顔立ちをしているが、それでもこのイケメンは別格だ。


 青みを帯びた漆黒の髪が、青空の光を受けて煌めいている。吸い込まれそうなほど深く澄んだ青い瞳はまるでサファイアのように美しく、右目の下にある小さなほくろはその美貌にほんの少しの色気と危うさを添えていた。


(あれ……?)


 やっぱり、私は彼らをどこかで見たことがある。……いいや、そんな曖昧なものじゃない。


 この髪、この瞳。この、無駄に整いすぎた顔立ち。


「ま、待って、あなた……」


 胸の鼓動がとくん、とくん、と響く。耳から頭にまでかけて全身に心音が鳴り響いていた。


 私は初めて会ったはずの彼らを知っていた。

 遠いはずの記憶に、はっきりと浮かんだその名前。


「……ヴィンセント?」


 思わずこぼれたその名に、彼は静かにこちらを見据え、頷いた。


「はい」


 たった一言。

 それだけなのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


「……あ、……」


 確信していたというものの、改めて頷かれるとどう答えれば良いのか分からなかった。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




 頭の中ではさっきから何度も同じ光景が再生されている。

 あの男――ヴィンセントが何のためらいもなく私をお姫様抱っこした姿だ。

 至近距離で見た、その整いすぎた横顔が脳裏に焼き付いて離れない。


 彼は私をベッドに降ろすと、何も言わず、すぐに去っていった。


(あ~、なるほど。これは夢か)


 そして、すぐにこの状況を理解した。今私が見ているすべては単なる夢なのだと。


 物語の中に入り込んだ夢を見るとは、なんとも都合の良い夢だ。最近は悪夢ばかりだったから神様がご褒美をくれたのかもしれない。


(こんなことなら、ヴィンセントともっとお話がしたかったな……)


 そんなふうに思いながら私はベッドに体を沈める。

 夢の中でベッドに横になるなんて、なんとも不思議な気分だ。

 

「アンリエット」


 名を呼ぶと、私を心配そうに見つめ続けていた彼女の顔が一瞬にしてぱっと明るくなる。


「はい、アンリエットはここに居ますよソフィア様! 記憶が混同されているようでしたので心配でしたが、私を覚えてくださっていて嬉しいです!」

「いや……覚えてるもなにも、あなたは小説の中のキャラクターでしょ?」


 アンリエットは確か、小説『きゅるりーん物語』の悪役、ソフィアに仕えていたメイドだったはず。


 たった1ページの挿絵しかなかった彼女だったが、親友に名前と姿が似ていることから覚えてしまっていた。


(……あれ? 悪役の、ソフィア……?)


「ま、待ってちょうだい。まさか、あなたがアンリエットなら私は……!」

 

 私は慌ててベッドから飛び起きると、部屋の隅に置かれた鏡台の前に駆け寄る。


「本当にどうされたのですかソフィア様! 貴女様はこのフォンレーヌ公爵様の奥様である、ソフィア・フォンレーヌ様ではありませんか!」


 鏡に映っていたのは、いかにもお嬢様風の美少女。

 真っ白な肌に、ほんのりと染まったピンク色の頬。淡いピンク色のウェーブがかったロングヘア―に、きゅるりんとしたまんまるのローズピンクの瞳。


「あ……ありえない、ありえない!」


(悪役令嬢、ソフィア・フォンレーヌ……)


「どうして悪女の方なのよ! ここは絶対、ヒロインの方でしょ!」


 だからあんなにもヴィンセントは冷たかったのかと納得した。

 夢の世界なのだから、そのくらいは気を利かせてくれてもいいのに……。


 それにしても、やけにリアルな夢だ。設定が凝りすぎているというか、なんというか。


「ほんと、変な夢……もう起きちゃおうかな。ヴィンセントにまたあんな顔を向けられても、気分悪いだけだし」

「ソフィア様? 先ほどから何を……」

「よし、起きよう。起きたらもう一回、きゅるりーん物語を読み返そっと」


 私は鏡台に置かれていた豪華な装飾が施されたアクセサリーケースを手に取ると、鏡に向かって思い切り振り下ろす。


「きゃああっ!」


 アンリエットの悲鳴と共に、パリーンッと大きな音を立てて割れた鏡の破片が散らばった。


「すごい、本当にリアル……」


 私はその破片を手に取ると、自身の左手首へと添わせる。


「それじゃあ、目覚めますか」


 そう言うと、私は思い切り手首にその破片を突き刺した。


 ――数年前から、私は毎日のように悪夢を見るようになった。

 毎日のように見ていると、そのうち夢から目覚める方法を知った。方法はいたって簡単。自ら、死を迎えることだ。


 今までだって何度もこの方法で目を覚ましてきた。

 初めは恐れがあったものの、夢の世界に痛覚は存在しない。それを分かってからは何の抵抗もなく死を選ぶことができた。


 ――しかし、今回はそうもいかなかった。


「ハッ……い、痛い……痛いっ!」


 色白なソフィアの手首からは赤い血があふれ出す。

 それだけではない。痛いのだ。確かにこの身体から痛覚を感じていた。


「きゃあっ! ソフィア様どうしてそんなことを! 誰か! 誰かお医者様を呼んでください!」


 意識の遠くで、アンリエットの叫び声が聞こえる。


「どうして……? 夢なのに、どうして痛いの……」


 鼓動が早鐘のように打ち鳴らされ、手のひらがじっとりと汗ばんだ。

 頭の中が真っ白になり、私は立っているのがやっとだった。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




「いいですか? こちらがソフィア・フォンレーヌ様でございます! ティアルジ公爵家の姫君であり、フォンレーヌ公爵夫人となられた素晴らしいお方です!」


(ソフィアのことを素晴らしいと言うのは、あなたくらいでしょうね)


 ソフィアの肖像画を私に見せながら丁寧に説明するアンリエット。


 私が記憶喪失と認識している彼女はどうにか記憶を戻させようと、いかにソフィアという人間が素晴らしいか……と、力説してくれていた。


「もういいわ。分かったから。お医者様も言っていたように全ての記憶を失ったわけではなくて一部が損失しているだけよ。自分が誰なのかくらい分かっているわ」


(そう。私は自分が一体誰なのか。誰に転生してしまったのか、もう気が付いている)


 この世界は間違いなく、昔に読んだロマンス小説『きゅるりーん物語』の世界だ。


 どうやら私は、小説に登場するキャラクター。それも恋の当て馬役として悲しい結末を迎える、最低最悪の悪女ソフィア・フォンレーヌに転生してしまったらしい。


 ふと視線を落とすと、左手首には丁寧に巻かれた包帯があった。血が滲んでいて見るからに痛々しいそれは、昨日私がこの手で傷を付けた所だ。


 今もまだ痛みを感じる。何度もこれは夢だ、きっと夢に違いないと現実逃避をしようとしてもこの左手首の痛みがそれを否定した。


 メイドに連れられやって来た医者に対して「なんで医者までイケメンなのよ! これがファンタジーの力なの?!」などと意味不明なことを口走る私を見て、医者は静かに『記憶喪失』という診断を下した。


 まだ転生したという現実を受け入れきれなかった私は、「私は記憶喪失なんかじゃない!」と喚き散らしていたが、よくよく考えてみると「精神病」と診断されなかっただけまだマシだと思う。


 そんな嘘みたいな展開を経て、私は今ソフィア・フォンレーヌとしてここにいる。

 

 しかしこれは私にとってとてもラッキーな出来事だった。

 私は元々、大のロマンスファンタジー+転生モノオタク。本棚はロマンス小説でぎっしりだったし、読み終えた後はいつも感想を140字に詰め込む日々を送っていた。


 つまり、そんな私にとって異世界転生は神から与えられたご褒美のようなものなのだ。

 転生して、貴族令嬢になって、イケメンたちに囲まれて……なんて、どれだけ妄想してきたことか。


 しかし問題なのは、私が転生したのがこの世界の“主人公”ではなく、“悪役”だということ。


 公爵の妻だなんて華々しい肩書とは裏腹に、ソフィアというキャラクターは、主役のフィオレッタとヴィンセントにスポットライトを当てるためだけに存在する、哀れな当て馬だ。


 この世界にやって来てから早くも三日が経った。

 たったの72時間という短い時間だが、私が前世で死を迎え、新たな人生を迎えるために異世界転生をしたという荒唐無稽な状況を把握するには、十分な時間だった。


「記憶喪失だなんて本当にお可哀想……。なにかありましたら、このアンリエットになんでもお申し付けくださいね」


 胸の前で手を合わせ、今にも泣きそうな顔で私を見つめるアンリエット。


 彼女は、心からソフィアのことを慕っているのだろう。

 忠誠を誓う主人の中身が入れ替わったと知れば、彼女はどんな顔を見せるのだろうか。


(なんでもお申し付けください……か)


 実は私は別世界の人間で、その世界で死んだから転生したの。あなたたちは小説のキャラクターで、私はその小説を読んだから知っているの。


 そんなことを言えば、それこそ頭がおかしくなったと思われてしまうだろう。


「ありがとう。頼りにしているわ、アンリエット」

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