猫は、習慣の教師なり。
目が開いたことで子猫達はケージ内を動き回るようになり、掃除のために段ボール箱に移すと背伸びをして外に出ようとする子まで現れ、徐々に雨季の手を煩わせ始めた。
「ちょっと!危ないでしょ!おとなしくしててよ!」
「ニャー!」
「なに?!日本語喋って!」
「ニャアアアア!!」
「分かったからもうちょっと待って!」
果たして会話は成立しているのか。
「もーう、要求だけは激しいんだから・・・」
ブツクサ言いながらケージ内を掃除し、子猫達を両手を使って戻していく。成長著しい彼らは最近ではケージにつかまり立ちで鳴くようになった。
「ミルクはあと3時間後だからね。それまでお昼寝でもしててよ、あたしは作んなきゃいけない決裁資料があるんだからね」
リビングに行こうとくるりと振り向くとドアの所で育子が仁王立ちで立っている。
「ひぃっ!!」
「雨季ちゃん、最近リビングの方の掃除がおろそかよ。お昼休憩になったらちゃんと雑巾掛けしなさいね」
「ええ~!ママ手伝ってよぉ~仕事あるんだよぉ~」
「甘ったれんじゃない!」
いつになくお怒りモードの母親に雨季はたじろぐ。
「ミルクを手伝ってあげてんだからそれ以外はアンタがやるのが筋ってもんでしょ!拭き掃除なんてちゃっちゃとやれば10分で終わるんだから仕事を言い訳にするんじゃない!」
そう怒鳴ってから育子はドスドスと足音を立て二階へ上がっていった。
「もお~なんであたしなのよ~!」
一向に気の休まる気配が訪れない。睡眠不足、余暇不足、ストレス発散不足、色々な不足が雨季を追い詰める。それらを振り切るように、冷蔵庫から取り出したスタバの新発売ドリンクを飲みながら高速でキーボードを打ち資料を作成し、Teamsのグループチャットで資料を送りチェックを仰ぐ間に後回しにしていたメールに返信していく。24時間稼働中、バブル時代の企業戦士にでもなった気分だ、と思っていると、社用スマホが鳴り響いた。
「はい橘です!」
「あ、雨季さん?三島ですー」
「お疲れ様ですー!」
気心知れた同僚の声に安堵する。たとえ業務の電話でも、誰かと話したかったのだ。
「最近どう?」
「いやーもう大変よ、どんどんやんちゃになってる感じがして・・・」
「そうなの?雨季さん寝れてる?」
「えー?もう、寝るとは?って感じ」
「ちょっとヤバくない~?」
お互いにアハハと笑い合い、三島は、産休に入るリーダーの壮行会の件で電話したと告げた。
「あーそっか、宇津木さん3人目だっけ・・・」
「すごいよね、42歳で3人目とかさ、少子化とかホント?って感じ」
「ねー!」
「それで来週の金曜のランチなんだけど、雨季さんどう?難しそう?課長とかは、休みにしてもいいし、気晴らしにお昼の時間だけでも出てきなよって言ってるんだけど・・・」
雨季は瞬時に、頭の中で移動時間とランチの所要時間の計算をする。家を出る直前にミルクをあげれば、不在の間1回だけお世話を育子に頼めばなんとかいけるかもしれない。お言葉に甘えさせていただき、旅行用に溜め込んでいた有休を使ってその日は休みにしようかと考えた。
「ちょっと行けるように頼んでみる!」
「うん、頑張ってお母さん!」
久々に楽しいお誘いが来たのでこれを絶対に取りこぼしたくない雨季は、昼休憩中にリビング、ダイニング、キッチンと育子のテリトリーをピカピカに掃除した上で、夕方になって一階に降りてきた育子に外出の交渉をした。
「いや~宇津木さんにはお世話になったからさ~、子育ての大変さは分かるからね~あたしも~。先輩にアドバイスも賜りたいしさ~、仁義って大事じゃん社会人は!」
「遊びに行くのに仁義を口実にするのは仁義があるって言えるのかしら」
痛いところを突かれるが雨季はめげない。
「ほら、あんまりずっと在宅だと社内での立ち位置悪くなりそうじゃん!こういう時こそ苦労話でも披露して同情ポイント稼がないとあたしのシュッショシンタイがあ~」
「・・・出処進退の使い方合ってる?」
娘のあの手この手をスルーしながら育子は夕飯の支度を進める。
「とにかく、すぐ帰ってくるから!掃除はあたしがやるから!」
「アンタいない時何かあったらどうすんのよ」
「その時は電話してくれていいから!」
「・・・ママに貢物は?」
「ディーン&デルーカのクッキー缶!」
「・・・マフィンもね」
「承知しました!」
外出許可が下りた雨季は小躍りで三島にチャットをし、その後も上機嫌で我先にとミルクに喰いつく猫達の世話に勤しんだ。
週末、ミルクタイムの合間を縫って雨季はクローゼットの中から引っ張り出した服を並べて久しぶりの一人ファッションショーをしていた。去年あまり着られなかったワンピースを着て行こうと決め、それに合う靴は何がいいかとアレコレ考える。久しぶりに心躍る至福の時間だ。そうこうしているとミルクの時間がやって来て、もうすっかり何よりも日常の一部と化した授乳をしているとLINEの電話が掛かってきた。麻里奈だ。
「おばあちゃん元気~?」
オンにしたスピーカーからは、真っ昼間から1杯やっていそうな明るい声が聞こえてきた。
「元気よ!可愛い孫達に囲まれてね!」
「あっはっはっはっは!」
「何笑ってんの!」
「いやー未婚の祖母とか思ったら可笑しくって」
絶対に飲んでると思われるテンションにイラっとしながら、雨季は黙々と作業を続けた。
「ねえ今なにしてんの?」
「孫達に授乳」
「ええー!見たい!見して!」
「ちょっと待って」
ビデオ通話に切り替えスマホをケージに近づける。
「え~!超可愛いんだけど~!」
「でしょ」
「やばいナデナデしたい~!」
「1匹どうですか、お嬢さん」
「なに孫売ってんのよ」
「どうせ里子に出すなら知り合いの方がいいじゃん」
「え、里親見つけるの?」
「そりゃそうだよ」
スマホをケージの上に放り、てきぱきと子猫達の世話を続ける。麻里奈の画面には監視カメラのような視点でケージの中でコロコロする子猫達が映っているのだろう、スピーカーからは悶絶する声が流れてくる。
「あ~実家暮らしだったら半分引き取るんだけどなあ~」
「賃貸じゃないじゃん」
「いやーアタシのブランズに傷は付けられないわー、良い感じに値上がりしてるからさ~」
「けっ!タワマン族め!」
ふと見ると子猫達は声がする天井を興味深々と見上げており、おそらく画面越しに麻里奈と見つめ合っているのだろう。
「アンタ達!このオバサンはかよわき命よりタワマンの売却益の方が大事な冷血漢だから媚売っても無駄よ!」
「オバサンとは何よ!」
スマホ越しに喧嘩する雨季を子猫達はこれまた興味深そうに眺める。
「もう切るからね!こっちは忙しいの!」
「ちょっとフィンランドのお土産は?!」
「届けに来て!」
そう言って雨季は得意の“足の親指でスマホの通話切り”をやるために高らかに足を振り上げたが、予想よりも高かったケージの天井に足は届かずむしろ攣り、下半身を走る感電するような痛みにその場でのたうち回った。
「いったああああい!・・・あ~、もうトシか・・・」
床に転がり痛みが引くまで待ったあと、スマホの通話が切れていることを確認しながら、そういえば在宅になってからヒールで出掛けていないことが運動不足かもしれないと考える。
「・・・もう本当に命懸けだわ、子育てって」
そう呟くと、さっきまで雨季の手の中でミルクをたっぷり飲んでいた子猫が雨季の顔のすぐそばまで近寄ってきた。
「・・・アンタのためにばあばは色々犠牲にしてんのよ」
「みゃぁあ」
「え?ミルクが足りない?そのぽんぽこのお腹で?」
「うみゃぁああ」
「どんだけ飲むのよ、パンクするわよ」
雨季は肘を付きながら上体をずりずりと動かし、シリンジでもう少しミルクを吸い上げ、ねだる子猫の口元にシリンジを差し出す。子猫は勢いよく噛みつき目を細めながらミルクを飲み始めた。