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人間の世界に偽詐多く・・・

「雨季さんやつれたね・・・」


 翌日会社で顔を合わせた社内の誰もが、変わり果てた同僚に驚愕(きょうがく)し、同情の眼差しを向けた。


「・・・はよ~・・・あはは・・・」


 のらないファンデーション、隠れてくれないクマ、一晩で存在感を2倍にした目尻の皺。


 モデルのような先輩の評判は失墜寸前なのは自覚できるが、今はそんなものに構ってはいられない。睡眠が不足し過ぎていて気を抜くと白目を剥いて倒れそうになる。


「猫ちゃんは大丈夫なの?」

「もちろん・・・夜通し世話したよ・・・」

「マジぃ?動物飼うってそんなに大変なの・・・?」

「老体に(こた)えるわ・・・」


 必要な資料のスキャンを取ってからパソコンをバッグにしまい、部長を含めた上司・同僚達に挨拶してから会社を出て、電車に乗る前に駅ビル内のお気に入りのブーランジェリーでデニッシュや菓子パンをどっさり買い込む。家の周りではおしゃれなパンなど買えないから、次出社できるようになるまで食いだめするためだ。


 まだ少し混んでいる山の手線では頑張って立ち続け、乗り換えた先の私鉄急行では座ることができたから最寄り駅までの数十分間を仮眠に充てた。


 膝の上に抱えたパンの袋から、ふわふわと漂う甘い匂いを嗅ぎながら半ば落ちた夢の中で、雨季は、まだ大学生の時にみんなで行った香港の景色の中にいた。まばゆい夜景を見下ろすレストランで中華料理を堪能しているかと思えば、運ばれてきた料理が気付いたらダイナミックな海鮮料理になっている。まだ生きているカニや大きなエビが目の前で捌かれ火鍋に入れられ、それらが茹で上がるのを待つ間にパイナップルクリームの挟まれたパンを食べていると、ふと気づくと膝の上には白い猫・・・


「シロちゃん!!!」


 叫ぶと電車は最寄り駅の一つ前の駅に停まっていた。


 斜め前に座っていた老人が目を細めてこちらを見るので慌てて頭を下げる。ドアが閉まった電車はゆっくりと走り始め、雨季はいそいそと降りる準備を始めた。


 駅の改札を通ると、強い日差しが(まぶ)しく降り注ぎアスファルトの地面の上で乱反射している。そういえば香港も暑くて日差しが強くみんな日陰を歩いたが、梓だけは堂々と日向を歩いていた。アイドルなのに日焼けを気にしなくていいのかと思いきや、


「あずもあずの人生も、光が当たっているべきなの」


 と、UVカット組を一笑していた。


 あの時はみんなで梓のメンタルを鬼だ鋼だと揶揄(やゆ)したが、あれから20年、梓と自分の違いは色々な形で人生の随所に表れた。


「日向なんて怖くて歩けないって・・・」


 雨季は足早に駅前のスーパーに走り込み、バスが来るまでの15分間を買い物して潰してから足早に帰宅した。


「ままぁ~・・・ただい、ヒッ!!」


 玄関ドアを開けるとそこには子猫のいるケージの傍らで、まるでサスペンスで見る死体のように倒れる育子の姿があった。


「ママぁ!死んじゃダメ!デニッシュ買ってきたから!!」

「あ~・・・うきちゃんかえってきたの・・・」

「ママこれ食べて生き返って!」


 雨季はラ・フランスのデニッシュを育子の口に押し込む。白目の育子は口だけモゴモゴ動かしやがてデニッシュを飲み込んだ。


「雨季ちゃん後は頼んだわよ・・・ママは夜まで寝るから・・・」


 そのまま育子はふらふらと階段を上がって行き雨季は一人になった。


 ケージの中の子猫達は全員穏やかな表情で寄り添って眠っているから、ミルクタイムまではまだ余裕がありそうだ。自治会役員の家に行った正敏はまだ帰っておらず家の中は静まり返り、とにかくできるうちに仕事を片付けようと、雨季はダイニングテーブルにパソコンを広げ、溜まっているメールを(さば)きながら自分もデニッシュを頬張りコーヒーで流し込む。


 カスタードの甘みとコーヒーの苦みを刺激に今にもシャットダウンしそうな脳を無理やり働かせるこの感覚は、かつて大型連休の度に海外旅行へ行き、帰りのフライトから時差ボケのまま出社していた時の感覚であると自分に言い聞かせた。そうでなければ()えられそうにない。


「あ~・・・仕事が大好き、仕事がだいすき、しごとがダイスキ・・・」


 静寂の中で自分が打つパソコンのキーボードの音だけが響き、またも湧き出始めた眠気が意識を少しづつ自分から奪おうとする。


 思えばこの1週間弱、突然降って沸いた猫の世話に生活を振り回され、疲弊した心身は回復の余地を与えられていない。それどころかどうにか抗っていた老化という最大の敵が、顔に、手に、髪に、勝手に居座り主張し始め勢力拡大を開始している。


 疲れ果て、どこもかしこも剥がれ落ちていく自分。

 もしこのまま母猫が戻らなければ、雨季の生活は間違いなく、“このまま”だ。


「え~・・・もう、うそでしょぉ・・・」


 キーボードを叩く手が止まり、その上に頭ごと落っこちる。


 雨季は自問する。

 自分の人生は、なぜこんなことになってしまったのか?


(ああ、ついに天罰か・・・)


 頭を上げてパソコンの画面を見ると、メールの返信が来ている。それにまた返信してから立ち上がり、食器棚から取り出した大きめのマグカップに紅茶のティーバッグとポットのお湯、牛乳を入れてミルクティーを作った。一口飲んで、今自分に必要な栄養は糖分だと感じスプーンたっぷりのはちみつを何杯もかけて「ぎょえっ!」と叫ぶほど甘いミルクティーを従え、再度仕事に取り掛かる。


 これも罰なら、甘んじて受け入れなければならないのだ。

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