・・・猫が作った法に従うのである
雨季のヨイショのおかげか翌日の朝、育子も一緒に掃除を手伝ってくれたおかげで気持ちに余裕をもって身支度をできた雨季は1本早い電車に乗った。会社があるオフィスビル群の中にはいくつもカフェがあり、並ぶのが嫌でいつもは朝に寄らないが今日は少しゴキゲンなのでキャラメルマキアートをテイクアウトすることにした。
「あ、橘さん!おはようございます」
店に入って列に並ぶと、前に立っていたのは今年新卒で入社した女子社員だった。
「あ、おはよう。えっと、工藤さん・・・だよね?」
「そうです!首都圏販売本部第二リテール部配属工藤瑞子です!名前覚えてて下さったんですね、ありがとうございます!」
まるで警察官のような挨拶をする彼女、のちに知ったが高校生の時まで警察官志望だったらしい。
「え、いやいや当然、後輩でしょ」
先輩風を吹かせてみたが、実は当然ではない。
毎年盛大に行われる新卒の配属日夜の事業本部毎新入社員歓迎会。今年は5人の新配属社員が並び、他は皆無難な挨拶をする中で彼女一人だけ特技披露と言って、突如太鼓片手にエイサーを激しく踊りまくりパンツスーツの股が裂け、爪痕を残した猛者としてその場にいた全員の記憶に否応なしに刻まれたのだ。
「もう仕事には慣れた?」
「はい!おかげさまで楽しいです!」
君のキャラならそうだろうな、と心の中で呟きコーヒーを受け取るまで世間話を続け、紙カップ片手に二人で店を出ると初夏の風がふわっと雨季のロングヘアをなびかせた。
「橘さんって髪きれいですよね、シャンプー何使ってるんですか?」
「私?ラ・カスタって知ってる?」
「え、それすごく高いやつじゃないですか?」
「まあ、お安くはないけど、でもその分すごくいいの。前に長野のお店に友達と行ってからすごくはまっちゃって」
「えーすごい!橘さんって本当色々おしゃれですよね、大人の女性って感じで!同期の子も橘さんって読者モデルとかやってそうって言ってましたよ!」
「え?」
工藤の一言で、雨季のヤル気スイッチが押された。
「えぇ~・・・そんなことないってぇ~!ま~あ?大学生のころに雑誌載ったことあったけどぉ~・・・」
「ええ!雑誌に?!」
チャチな自慢をドヤ顔で繰り広げるが、山梨から出てきたばかりのピュアガールには効果バツグンに効いている。
「でも友達に元芸能人の子がいるけどその子なんてもっと凄くて~、今でも20代にしか見えないんだよねぇ」
「ええー!誰ですか?私知ってますか?芸能人とお友達なんてやっぱり橘さんってすごいです!」
久々に嘘偽りのないアゲ発言を浴び、クールに装ってはいても雨季は内心有頂天だった。
右手にはキャラメルマキアート、左手にはエルメス、シャンプーはラ・カスタ。そうだ、恐れるものは何もない。仲間内からグランマと笑われようと、母からうだつが上がらないとボヤかれようと、野良猫から同情引きやすそうな人間だと見定められようと、自分はいまだに若い子の曇りなき眼からすればモデルのような女性として映っているのだ。
「工藤さん、困ったことがあったらいつでも相談してね」
「え?!はい、ありがとうございます!!」
ふふっ、と大人の余裕スマイルでキめ、新卒女子の陥落に成功。
席に着きパソコンを立ち上げてからトイレに行き、鏡で入念に身だしなみをチェックする。目尻、唇、アホ毛、ストッキング・・・新卒女子の期待を裏切らない憧れの先輩であることは、仕事と同じくらい大事なことなのだ。この数日気分が落ちることばかりだったから、ここいらで締め直さなくてはならない。エレガントなデキる女風になっている事を確認してデスクに戻ると、同僚の三島が声を掛けてきた。
「雨季さん、なんかずっとスマホ鳴ってたよ」
「え?うそ、ありがとう」
こんな朝から営業電話かとカバンの中から取り出したスマホ画面には、母親からのLINE通知と電話の着信の通知が並んでいる。まったく、なんだよと思いながら掛けなおすと耳を劈く絶叫が響く。
「シロちゃんが逃げた!!!!」
シロチャンガニゲタ。
一瞬、何語かも理解できず呆けたが、“シロちゃんが逃げた”と脳内で変換された瞬間、雨季も同じくらいの叫びを上げた。
「はあああああぁぁぁぁ????!!!!」
雄叫びがフロア中に響き、新卒工藤も含めたその場にいた全員がギョっと雨季を見つめる。
「ちょっとどういうことよ!」
「洗濯物干してたら逃げちゃったの!」
「なんで逃げるのよ!!」
「窓からするって出ちゃったのよ!!」
「なんで窓空いているのよ!!!」
「洗濯物干してたのよ!!!」
「なんで洗濯物干してるのよ!!!!」
「今日が晴れだったからよ!!!!」
パニックの二人はしばらく電話越しに意味のない押し問答を続けた。
「とにかくいいから帰ってきて!すぐよ!!ナウ!!!」
ヒステリーを起こしかけている母親の剣幕に押され、電話を切ると雨季はパソコンをシャットダウンして目を丸くしている課長の元に飛んでいく。
「すみません課長、今日休みにしてください!」
「い、いいけど大丈夫なのかい?なんかヤバそうだよ?」
「分かりません!」
「そ、そうだよね・・・お大事に・・・」
課長の言葉を最後まで聞くことなく雨季はエルメスを掴み、残りがまだ少し入っているキャラメルマキアートのカップをゴミ箱に投げ捨てエレベーターに向かって走り出す。途中、ノリがイラつくと評判の宇賀神部長に出くわし、「お、橘ちゃぁ~ん」と声を掛けられたが全力で無視をした。