人間が作った法に従うのではなく・・・
翌日から、雨季の試練が始まった。
猫達は里親が見つかり次第譲渡することにはなったものの、それまでの間の全ての世話は雨季が行うことになり、さらに毎朝猫トイレの掃除と1階床のぞうきん掛けが命じられたせいで30分早く起きなくてはならなくなった。
「隅までキッチリよ、キッチリ!」
「はい・・・」
「ほら!巾木のところも拭きなさい!」
「え、なんでこんなとこ・・・」
「こういうところもホコリは溜まるのよ!」
「それただの大掃除じゃん!」
「何言ってんの動物の毛は軽くて舞いやすいのよ!ほら、ほら!ここにもふよふよしてるじゃない!」
小姑の如く母親から掃除を監視され、朝一で体力を使い果たした雨季は行きの電車の中では爆睡、ランチ休憩中もデスクに突っ伏しながらコンビニで買ってきたパスタを力なく啜る。食べ終わったら休憩終了まで寝ようと思っていると、そこに更に体力を奪う人間が現れた。
「橘ちゃん、どおーしちゃったんダイ?!元気ナイじゃナイか!!」
ノリがイラつくと評判の宇賀神部長に絡まれ始め、さらに雨季の機嫌は下降していく。
「あ~、あはは・・・ちょおーっと週末色々ありましてー・・・」
「なんだいなんだい話なら聞くよ!カレシが若いコのとこに逃げちゃったかナ?!」
線路に突き落とすぞこのセクハラ野郎!
と、心の中で叫びながらも、持てる気力を振り絞り理性的に振る舞う。この部長、終始誰にでもこんな調子なのだが、恐ろしく仕事ができる上になぜかちょいちょい人望もあるものだから、未だにコンプライアンス室呼び出しとなったことがない。
「いやー雨宿りさせた野良猫がうちで子ども産んじゃったんですよねえー・・・」
「なんだって?!そんなマンガみたいなこと!!」
「そうなんですよー、それで里親が無事に見つかるか心配で・・・」
「そりゃーブルーにもなるなあ!」
「でしょー・・・部長、どうです?子猫」
まあ100%無理だろうと思いつつ、あわよくばを期待して聞いてみるが
「いやあーうちは動物は血統付きじゃないといけないという先祖代々からの言い付けがあってサ!今いる子はウェルシュコーギーペンブロークでアーサーって名前なんだけど、あ、もちろんキング・アーサーから名前を付けててね!別のコをお迎えするならノラ子猫よりも憧れのケルブタルフェネックを子犬の時から育てたいという野望があるんだよボク!やっぱりマルタまで探しにいかなきゃかナア~!」
と、疲れ倍増な返答しか返ってこない。一人漫談を繰り広げる部長を無視して残りのパスタを平らげ、自社商品の野菜ジュースを飲み干し一息ついたところに麻里奈からLINEが入る。
『アタシ明日からフィンランド出張だからかわいい猫ちゃんグッズがあれば買ってきてあげる』
「えー・・・いいなあ~北欧・・・」
いくら仕事であるとはいえ友人が軽やかに世界中を飛び回っている様子を想像すると、またも自分がどこかに取り残されていくような感覚に襲われる。「私にもお土産くだせえアネキ」と返事をしても、免税店のキットカットという落差の激しい答えしか返ってこないので雨季は肩を落としながらパソコンに向かった。
帰宅後、夕飯の後に母親に言い付けられたブラッシングをするために、雨季は玄関に設えたケージの前で仁王立ちになった。
「デブ猫め・・・おとなしく毛を刈られなさいよ・・・」
右手にブラシを持ち、左手でケージを覆い隠す新聞紙をそっとどかすとその中には子猫達に授乳させるアンジェラの姿がある。突如ケージ内に光が差し込んだからか、アンジェラはハッと顔を上げ、雨季を見つめる。
「あ、おっぱい中ですか・・・それは失礼・・・」
そそくさと新聞紙を戻して退散しようとするが、リビングに繋がるドアの所で育子も仁王立ちになりこちらを監視していた。
「ひっ!!」
「ちゃんとやりなさい!サボるんじゃない!」
「いやだっておっぱい飲ませてるんだよ?!」
「だったらおトイレの掃除!した跡があるでしょ!ちゃんとやるまでリビングには入れないからね!」
そう叫ぶと育子はくるりと踵を返し、リビングのソファに身を沈めテレビを見始めた。
「くそう・・・」
なんだってかこの家はリビングの中に二階へ行く階段があるのだ、これでは部屋に戻れない。雨季は仕方なくトイレ掃除に取り掛かり、新しく猫砂を補充してごみをまとめる。ついでに水も新しいものをボトルに詰めケージの外側に取り付けると、その瞬間首を反らしたアンジェラとまた目が合った。
「なによ、ちゃんと掃除してるでしょ。アンタまで文句言うの?」
アンジェラはそのまま雨季を見つめ続ける。
「まったく、アンタのせいでこっちは大変なんだからね。そりゃアンタもシングルマザーでノラは大変だろうけど、こっちは一夜にしてシングルグランマなんてみんなに笑われたんだから、分かってる?」
雨季が愚痴をもらす間もアンジェラは真ん丸の目で雨季を見つめ続けた。
「はあーあ・・・猫はいいよねえ、何しても許されるんだもん・・・」
カリカリを入れた餌皿をそっとケージの中に入れると、ふと子猫の様子に目が行く。まだ目は開かず、いったい何がしたいのか、というようにあっちに行ったりこっちで重なったりしている子もいれば、無心で母猫のおっぱいに吸い付いている子もいる。毛が全て真っ白の子もいれば、所々黒い毛が混じっている子もいる。母猫が丹念に舐めているからか、どの子も同じ方向に向かって揃った毛並みはツヤツヤと輝いている。
「でっかいおっとっとって感じ」
そう呟くと、アンジェラはにゃーあと答えた。
「なに、可愛いでしょって?まあ・・・ねえ」
この小さな生き物がこれになるのかと子猫達とアンジェラを交互に見比べていると、リビングにはもう育子の姿はなかった。
「よし、今日の世話はちゃんとしたからね!明日こそちゃんとブラッシングさせてよ!てかあんまり毛撒き散らさないでよ!」
アンジェラは大きくあくびをして雨季を見つめた。
翌日も朝は拭き掃除とトイレ掃除とカリカリの補充をし、夜はアンジェラをケージの外に出しブラッシングをした。おとなしく体を横にしてブラッシングをされる様子を育子はまじまじと見つめる。
「案外おとなしいのねえ。人慣れしているっていうのかしらねえ」
「獣医さんは2歳くらいって言ってたもんね」
「猫の2歳ってどれくらい?」
「人間なら立派な大人だって」
集めた毛をまとめ床を再度掃除している間、アンジェラはあちこち匂いを嗅ぎながらリビングの中の散策を始めた。
「あらあら、シロちゃん、おしっこはしないでね」
育子がアンジェラの散歩を側で監視し、その隙に雨季はケージの中のタオルを交換しトイレを掃除する。
「シロちゃんそっちは窓よ。夜だから何も見えないでしょ」
育子はカーテンを持ち上げ掃き出し窓の向こうを見せながらアンジェラの背中を撫でている。
「外はねえ、ママが丹精込めてお手入れしている花壇があるのよお。シロちゃんもお花好き?あら!あらあらシロちゃんのお手々、クリームパンみたいねえ。あーでも、ちょっと爪が伸びているんじゃない?」
向かい合って膝に手を乗せられた育子は機嫌よく一方的に会話をし始めた。
(お、意外に気に入り始めたのか・・・?)
母が猫達に対し愛着が湧けば、自分はもう鬼のように掃除をしなくて済むかもしれないという邪心が雨季の中に芽生え始めた。
「ママ~、シロちゃんてほんとおりこうだよね~。お行儀良いし暴れないし」
「ほんとうにねえ、どっかのうだつが上がらない娘とは大違いだわ」
カチン!とは来たがここはグッと堪えて猫達をヨイショする。
「シロちゃんの子ども達も可愛いんだよお~。小さな命が必死に生きるってなんか見てて感動するよねえ~。ペットの飼育が子どもの教育にもいいってよく言う訳が分かったよ私~!やっぱり動物は人間のパートナーだよね!生類憐みの令!」
アンジェラを撫でる母の周りで神輿を担ぐがごとくワッショイワッショイと猫の可愛さを演説する娘を見て、父親の正敏は言葉を失っていた。