人間が猫に従うというのは・・・
「いやー普通気付くっしょ。あきらかに腹だけ出てたじゃん」
ボトルに残ったワインを全て自分のグラスに注ぎながら、こんな面白いネタはないと言わんばかりに雨季をイジるのは奥野純子、43歳。IT企業システムエンジニア、副業でウェブデザイナーもする筋金入りのITオタク、父親はかつての経済産業省事務次官である。
「雨季ちゃん一本とられたねぇー猫に」
「面白くない!」
純子のグラスを横取りしてワインを一気飲みしても、雨季の腹の虫は収まらない。
「あたし超怒られたんだよ?!昨日なんて一日中家の掃除とか除菌とか獣医とか猫砂とか!!」
「つまり猫ちゃんをお迎えする準備に勤しんでたってことね、あんたもついに世帯主か」
雨季の目の前に唐突に1万円札が突き付けられる。
「出産祝いのご祝儀はこれで足りる?」
ネイルの光沢が輝く指に、ご祝儀を挟むのは花房麻里奈、42歳。大手広告代理店主任、豊洲のタワーマンション・ブランズで悠々自適な一人暮らしを楽しむ典型的なバリキャリOL。キャリアもプライベートも友人イジりも余念がない、リア充を地で行く女だ。
「じゃああたしも」
そう言ってテーブルの上に置いた1万円札を揃えた指でスッと雨季に向かって差し出したのは西谷響花。42歳。スイスの高校を卒業した帰国子女で外資系ローファーム勤務、仲間内で唯一婚姻歴有り。細かいダイヤがいくつも光るデコラティブな指輪をはめた手で差し出されたせいか、雨季の目には福澤先生まで成金のオジさんに見えた。
「雨季ちゃんペイペイやってたっけ?」
スマホを取り出す純子を見て、
「え~、あず今日手持ち少ないしペイペイもやってないし~・・・あ、じゃあこれあげる!」
GUCCIの腕時計を外して渡すのは張本梓、41歳。紅白出場履歴のある人気アイドルグループの元1期生で現在は総合商社で働く派遣社員、祖父は市役所も頭が上がらない長野県の大地主である。
「昔、細かいお金が欲しくて買ったやつだけど、あずが使ってたってオークションで売れば1万円以上にはなるはず!」
さすが元アイドル、自分が一番カワイイ、と混じり気のない自尊心で生きてきただけあり実際同い年には見えないほどの美貌と可愛さを今でも誇るところは尊敬に値するが、40を超えた今でもぶりっ子キャラで正論をかますコイツとはなぜ友達なんだろうと、時々自分がよく分からなくなってくる。
「いらんわそんなもん!それより子猫引き取ってよ!」
悪酔いが始まった雨季は友に絡み、そんな様子がさらに笑われる。
新宿駅前のオフィスビル高層階に位置するこのイタリアンレストランは、雨季達の行きつけレストランの一つである。あまりにも常連過ぎて少しばかりの大声や迷惑を掛けない程度の無作法は目をつぶってもらえている・・・のかは、不明。
「もおー雨季飲みすぎだよぉ~ほうれい線さらに濃くなるよぉ~」
「猫くらいいいじゃん散歩の必要ないんだし」
「でも餌代とか全部あたし持ちなんだもん・・・」
「じゃあ素直にご祝儀貰っときなさいよ」
「やだ、なんか負けた気がする」
なんにだよ、というツッコミを無視し、新しく運ばれてきた白ワインのボトルに直接ストローを差し込み仏頂面でそれを吸っていると、テーブルの上のスマホがブルっと震える。
「んん?!」
画面には一言、『シロちゃんがトイレしたから帰ってきなさい』という母親からのメッセージが表示された。
「ああーもう!いい感じに飲んでんのに!!」
「いやーお母さん大変だねえー!あっはっはっはっは!」
「ほらほら子どもたちが待ってるよぉ!」
「いや、孫でしょ!孫!」
「一晩でシングルグランマ!!」
酔っ払いが囃し立てる声に睨みをきかせ財布の中から取り出した5000円札をテーブルに叩きつけ、雨季はヒールを鳴らしながら店を出てエレベーターホールのスイッチを小突くように押す。
ふと、目を向けたガラス窓の向こう、眼下に広がる新宿の夜景が、つい数日前まで当たり前に自分のものだと思って疑いもしなかった煌びやかな輝きが、急速に自分の手の中から零れ落ちていくような感覚に襲われ苛立ちを覚えた。店の中には楽しそうな賑わいの声が溢れているのに、自分は一人下りのエレベーターを待っている。通い慣れたレストランが、いつも飲むワインが、自分に背を向け始めた、そんな気がしてならない。
「デブ猫め・・・あたしに何の恨みがあんのよ・・・」
到着したエレベーターに乗り込み1階に着くまでの間、設置された鏡を覗き込みせめて身だしなみだけでも崩れがないかを念入りに確認してビルを出た。