猫は、人間よりも強し。
梅雨とかいいつつほとんど雨なんて降らなかった6月が終わり、7月に入り気象庁が形ばかりの梅雨明け宣言をした今週から、雨を降らすことを忘れていた空が思い出したようにほぼ毎日ゲリラ豪雨を降らすようになり、俺達野良猫は各々の雨宿りスポットで雨が止むのを待つことになる。
最近見つけたここはずいぶん前からテナント募集の張り紙が貼られた一軒家風の物件の軒下で、裏口の方に回れば人間に姿を見られることもない。勝手口の上にも雨除けの屋根が付いているから、そこで俺は雨を除けながら缶コーヒーで一服しつつパソコンで定点カメラアプリの画像を見ていた。
夕方6時を回り業務を終えた雨季は買い物へ行き、部屋の中では子猫達が姐さんに甘えたりじゃれ合ったりする様子が確認でき俺は心底ほっとする。
姐さんが橘家に帰還しマンションにやってきたあの日、姐さんの姿を見つけ歓喜乱舞の俺は雨季の外出を見計らいベランダから窓を叩きまくって姐さんに窓を開けてもらい、部屋の中に入ることに成功した。
「姐さああああああん!!!!!無事で良かったあああああああ!!!!!」
「久しぶり、心配かけたんなら悪かったよ」
姐さんの失踪が発覚して以来、俺はとにかく色々な情報に頭が混乱させられる日々を送っていた。パピ局長の協力依頼の元たくさんの野良猫達が姐さんの捜索に当たってくれたが、とある目撃情報によると姐さんが橘家のある方角から走り去って行ったことが分かり、近隣の防犯カメラをハッキングした結果確かに姐さんは追い出された訳ではなく自分から脱走していたことを俺も確認した。
なぜ脱走したのか。
何か理由があったのか。
おそらく橘家で何か命の危機を感じる出来事の発生、もしくはそれに近しい何かを見聞きしたための脱走だったのでは、という仮の結論に至り、姐さんの捜索を続けながら子猫の様子を見張ることに注力することになったのだが、しかし残念なことに子猫の1匹は天に召されてしまった。
「姐さん悪かったよ!俺、あんなヤバイ人間だとは思わなかったんだ!!」
「誰がだい?」
「雨季だよ雨季!あいつの身辺調査報告読んだらダチ諸共曰く付きだったんだ!」
チャン・トドロキの報告書の内容を俺は事細かに話した。
「だからチビも死んじまったんだ!姐さんここを出よう!!」
「何言ってんだい、あの子はいい子だよ」
「え?!」
面食らう俺をよそに、マイペースに右足を舐めていた姐さんは今度は左足を舐め始めた。
「アンタは何か勘違いしてるよ。まあアタシがそうさせちゃったんだね、謝るのはアタシの方だよ」
「な、何がだ?!」
「アタシはひどい目に遭って家から逃げたんじゃないよ」
「え、じゃあ何で?!」
姐さんはピタリと毛づくろいを止めて少し悲しげな表情になった。
「死んだ子はね、もともと体が弱かったんだよ」
「え?」
「産まれてすぐ分かったよ。乳を飲む力が全然なかったし呼吸もおかしかった。アタシが自分だけでなんとかするには限界だったんだよ・・・」
「だから家を出たのか・・・?」
「そう、人間に世話してもらわなきゃ生きられないと思ったからね」
姐さんはまた左足を舐め始めた。
「で、でも結局、チビはダメだったじゃないか、姐さんがいればもっと・・・」
「アタシだったらもっと早くに死んでたよ。それこそ目も明かないうちにね。あの子に頼んで良かったよ、見てみなアタシの子達。みんな元気で毛もツヤツヤだろ?」
俺はケージの中で昼寝するチビ達に目をやる。
暑くなってきたからかそれなりに間隔を取りながら、腹を出したり手足を投げ出したりして無防備な姿でみんなスヤスヤ寝入っている。
たしかに毛並はツヤツヤで、腹はぽっこり耳もピンッ。健康に育った子猫の姿そのものだった。
「あの子ね、子ども達の名前を考えているんだよ。いい名前付けてやるんだ、って」
「名前は姐さんが付けるべきだろ?!」
「いいよ、これからずっと世話してくれるんだから。里親に出そうと思っていたけど全員自分で飼うって電話で話してたよ」
「里親だってぇぇぇ!!!」
思わず吹っ飛ぶ俺を「だからそれをやめたんだよ」と姐さんは窘める。
「親子一緒にいられるなんて嬉しいよ、優しい子に出会えて良かった。あんたのおかげだよスカジャン、あんたも立派な子に育ったねえ」
「・・・ね、姐ざんんんっっ・・・!」
涙と鼻水とヨダレが噴水の如く吹き上がり、その辺のティッシュで鼻をかみ顔を拭くと俺の顔を見た姐さんが声を上げて笑った。その声に目を覚ました子猫が1匹、ケージの入り口近くに寄って来る。
「ままあ~・・・あ、しゃてえおじちゃん」
「こら、スカジャンおじちゃんだ」
子猫は寝ぼけ眼でケージの隙間をすり抜け横たわった姐さんの腹の中にすっぽりとおさまり、姐さんに顔を舐められて気持ちよさそうに目を細める。なんて平和な光景だろうか。まさに俺が守りたかったものだ。
「よし、そろそろ雨季も帰って来るな。とりあえず俺は外で見守ってるから安心してくれよ!」
「分かったよ、でも心配はいらないよ」
「いや姐さん、人間は信頼し過ぎちゃ足元すくわれるぜ」
「大丈夫だよ、むしろ心配なのはあの子の方だ」
姐さんは子猫におっぱいをあげながら物憂げな表情をする。
「いやいや姐さん、アイツは咎人だぞ。本人は純愛のつもりだったかもしれないが、昔不貞を働いてたんだ。まったく、とんだ肝っ玉だよ。姐さんが心配するような人間じゃないさ」
自慢じゃないがこういう仕事をしていると、人間達のアレやコレやというものも耳に入って来るものだ。現実はドラマよりも小説よりも生々しい。人間とは猫さえ簡単に捨てる生き物なだけでなく、時として周りの人間さえ笑顔で裏切り傷付ける生き物なのだ!
「だから俺は姐さんが人の道から外れるようなことする奴の元にいるのが心配なんだよぉ・・・今は良くても切羽詰まったら何するか分からないじゃないか。それでなくともアイツ契約社員だし!」
これも俺にとっては大きな誤算だ。大手企業とは言え正社員と非正規の賃金待遇は雲泥の差がある。実家暮らしだったから雨季をターゲットにしたのに今じゃ家を追い出されているじゃないか!
「人間性も稼ぎも難アリ、不安になるなという方が無理があるだろ?」
「分からないもんだよ、本当は何を抱えているかなんてさ」
「そうかぁー?」
「・・・難儀な性格なんだよ・・・」
姐さんは、お腹がふくれてウトウトし始めた子猫を胸の中に引き寄せて寝かし付け始めた。
「まあ、安心おし。アタシの目に狂いはないよ」
「姐さんがそう言うならそれでいいけどよ・・・」
「ほら、あの子が本当に帰って来るよ」
「おお、いけね。じゃあ姐さん明日も様子見に来るからな!念のため定点カメラと盗聴器も入れるわ!」
「はいはい。作業するなら次の土曜にしな。あの子、健康診断で午前中いないよ」
「おう!」
俺は窓ガラスを開けてベランダに出る。ムシムシした空気が全身にまとわりつくのを感じると、いよいよ本格的に夏だと実感する。
手摺を伝って一番端の部屋まで移動し、下の階の住人がベランダに張り巡らせたゴーヤのグリーンカーテンにダイブし、更に下の階の住人がベランダに置いたトーテムポールに飛び乗り、蹴ってジャンプしてから華麗に道路の地面に着地する。通りに面した方に歩いて行くと、ちょうど荷物を両手に下げた雨季が戻ってくるところで、俺の目の前を小走りに通り過ぎる時、手にしたエコバッグの中に猫砂の大袋が入っているのが見えた。
「・・・まあ、引き続き試用期間みたいなもんだな」
俺はひとまずその場を離れ、自分の寝床に戻ることにした。
その後は毎日姐さん達の様子を見に行き、ベランダから雨季の働きっぷりも観察したが、確かに甲斐甲斐しく姐さん達の世話をしていた。
トイレ掃除、部屋の掃除、食事の準備に就寝時間の寝床の準備。新しい布製のケージも導入され、子猫達は大喜びではしゃぎ回った結果トイレをひっくり返し猫砂をブチ蒔き雨季を怒らせたが、みんな楽しそうでそんな様子を見守る姐さんの表情は穏やかだ。
「・・・まあ、ギリ合格ということにしといてやるか」
パソコンを開き、多摩地区移住台帳の姐さんのページに雨季の新しいマンションの住所と、子猫の名前を入力していく。
ネオノエ。
パピヨン。
アルマ。
ブレア。
モンテーニュ。
そして死んだ子猫はカプシーヌ。
姐さんと子ども達の安らかな日々は、俺の画策したものとは大分違った形にはなったが、これはこれでいいのかもしれない。猫の数だけ、幸せの形もそれぞれだ。
「・・・しっかしまあ、よくやるよなあ・・・」
俺は、チャン・トドロキの調査報告を改めて思い出す。
上司と3年に渡り不貞関係。
とてもとても、普通の女子のやることとは思えんが、姐さんの言葉を借りれば本当は何を抱えているかなんて分からないものらしいから、これも黙って見守ろう。
ま、俺達猫を飼い始めれば、人間はそれだけで幸せになれるものだからな。