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・・・捨てざる人間は、必ず進む

 初めてミルクをあげたあの時、小さな体は自分の手の中で震えながらも精一杯呼吸をしていた。毎日毎日、生まれたばかりの命の灯を消さぬように必死で守ってきたつもりだった。しかしあまりにもあっけなく途切れてしまう糸の儚さと、己の無力さに雨季は愕然とする以外に方法がなかった。


 緊急病院のロビーで父親の車を待つ間、雨季はこれまでの時間を思い起こし、どこに落ち度があっただろうかと考え続けていると、ふと、自分はものすごく喉が渇いているということに気付き、夜明けの部屋の中で病院の電話窓口や家の電話に向かって叫び続けたことを思い出した。


 入口近くの自動販売機に近づきボタンを押して財布を決済端末に当てると、ガコンという音と共にペットボトルが落ち呑気なメロディが鳴り響く。拾ってその場でキャップを外し一口口に含むと、痛いほどに冷たい水が喉を下って体内に広がりじわじわと内臓を冷やしていく。


 死んだ子猫も、こんな風に冷えていったのだろうか。


 ロビーの椅子の上に置かれたキャリーケースの中の小さな紙箱の中に子猫はいる。再度キャリーケースの隣に座り中に手を入れ箱を撫で、こうしているうちに、医者の判断が全て間違いで本当はただ眠っていただけの子猫がお腹を空かせて動き出さないかと想像するが、そんなことが起きないことは固く冷たくなった体に触れた時にもう解っていた。


 迎えに来た正敏の車に乗り実家へ帰り、玄関クローゼットの中にあるスコップを手にするとそのまま庭へ直行する。花壇の日当たりのいい場所に無心で穴を掘り、朝日が照らす穴の中に箱から出した子猫を寝かせ、庭に咲くバラやマリーゴールドの花で子猫の周りを飾り、その上に優しく土を掛けて愛らしい姿に別れを告げた。


「お前、朝ごはん食べるか?」


 家の中に戻ると正敏が声を掛けてくる。


「ううん、いい。ママ待ってるから早く戻んなきゃ」


 今、雨季の部屋では育子が残った子猫達の世話をしている。こんな時くらいゆっくりしていけと言われたが、今は慌ただしくしていたい雨季は父の配慮と理解しつつも断る。


「じゃあこれ持ってけ。ママがレーズン食パン焼いたぞ」


 キッチンにはビニール袋に入れられた食パンが置いてあった。猫が来るまではよく朝食に食べていた手作りのレーズン入り食パンは雨季の大好物である。自分が子猫達と家を出て行ったおかげで母はまた夜に食パンを仕込む余裕ができたのだと思い、複雑な気持ちでビニール袋ごとパンをバッグの中に入れ玄関に向かおうとした瞬間だった。


 どこかで鳴き声が、微かだがにゃあという声が聞こえたような気がして雨季は振り向くがここは実家だから猫がいるはずはない。毎日毎日子猫達の鳴き声を聞いていたから空耳かとまた玄関に向かおうとすると、もう一度鳴き声が響き、そのしっかりとした、子猫のかよわく甲高い鳴き声とは違う成長した猫の鳴き声に、雨季は弾かれたように窓に向かって走り出し、レースのカーテンを勢いよく開ける。


 先ほど自分が子猫を眠らせた花壇にはバラの木やローズマリーが植えられているが、その植木の足元に真っ白な毛色の猫がこちらを向きながら行儀よく座っていた。


「シロちゃん!!」


 雨季は急いで窓を開け裸足のまま庭に飛び出る。小石が足の裏にいくつも刺さるがそんなことはおかまいなしに花壇のアンジェラと対峙する。


「アンタどこ行ってたのよ!勝手に出て行ってこっちは大変だったんだから!!」


 雨季の叫びを聞いていたかと思えば、右手を舐め始めるアンジェラに雨季はさらに声を張り上げ激昂(げっこう)する。


「聞いてんの?!子ども達置いていなくなるとか無責任にもほどがあんでしょ!!」


 右手を舐め終わったアンジェラは再度雨季をじっと見つめる。


「アンタのせいであたしの生活はめちゃくちゃなんだから!・・・家まで追い出されて、全部、ひとりでやんなきゃいけなくて、それで、一匹、死んじゃって・・・」


 どこかに向かって、言葉を絞り出す雨季の足にやわらかい何かが触れた。下を見ると、裸足で立つ雨季の足の甲にアンジェラが寝転び腹を出しながら、初めて会った夜と同じように見上げてくる。雨季がしゃがむと起き上がったアンジェラは膝の上に両手を置き雨季と同じ目線で立ち、にゃあと一声鳴いた。


「うっ・・・ごめんねぇ・・・」


 雨季の瞳からボロボロと涙が溢れグレーのスエットパンツに落ちていく。アンジェラは一層背伸びをして涙が伝った雨季の頬を舐めた。


「うわあああああ!ごめんねぇシロちゃん・・・ごめんねぇ・・・」


 雨季はアンジェラを抱きしめながら大声で泣き出し、そんな雨季を慰めるようにアンジェラは雨季の膝の上で体を摺り寄せる。


 朝日が満ちていく庭に座り込み、アンジェラを抱きながら、涙が枯れるまで雨季は泣き続けた。

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