飼わざる人間は必ず退き・・・
「あ、いったぁ~・・・ちょっと、マジ・・・」
床から立ち上がった瞬間の立ち眩みと二日酔いの頭痛同時に襲い掛かかられ、雨季は再び床にうずくまる。久々に終電時間まで飲みまくり食べまくり、無傷でいられるとは思っていなかったがしかしこれは中々にキツい。飲み過ぎとは言え体調不良、横になってそのまま惰眠を貪りたいものだが、しかしそんなことはお構いなくお腹を空かせた元気な一匹の催促が聞こえてきた。
「わ~かったから、ちょっと待ってよ・・・」
さっき授乳しなかったか?と言いたくなる時間の短さを呪いながら再度立ち上がり部屋を出る。ドアを開けると相変わらず見たくもない光景だが、現実は現実だ。
よろよろと鍋に水を入れ、火にかけている間に哺乳器と粉ミルクを用意する。スマホを見ると12時過ぎ、昨夜の食べ過ぎで朝食を抜いていたがそろそろ雨季も小腹が空いてきた。ミルクを終えたら何を食べようかと冷凍庫の引き出しを引っ張り冷凍食品を物色しているうちにお湯が温まり、哺乳器に粉ミルクとお湯を入れ振って混ぜ、適温に下がるように水を張ったボウルに哺乳器を入れる。授乳がすっかり板に付いてきたと我ながら感心しても、今いる場所がここでは浮かばれないのが人の性だ。
温度計をミルクの中に差し子猫が飲める温度まで下がっていることを確認してから部屋に戻ると、さらにもう1匹起き出してきて2匹仲良く催促してくる。この2匹は麻里奈に突進して行ったコンビだ。おそらく世渡り上手に育つだろう。
「はいはい、ミルクの前におしっこね~今日はあたしの服汚さないでよ~」
初めて持ち上げた時よりも2倍は大きくなった体を掴む。生まれたばかりの頃を思い出し、ずいぶんと猫らしくなったなと思った。1か月も経てば猫も個性や性格が違うことが分かる。とにかくミルクを催促し動き回る活発な2匹、起きている間はいつもきょろきょろと部屋の中を見回している2匹、そしていつも寄り添い合っているおとなしい2匹。
「はあ・・・新しいケージ買わなきゃだよねぇ・・・いや、もう必要ない?どうなのアンタ達」
「ぴゃーあ!」
「タワマン?そりゃ無理だよ」
「ぴゃーあぴゃぁーあ!」
「じゃあ1人1つ?そしたらあたしはどこに寝ろってのよ、廊下か?」
またも噛み合っているのか不明な会話をしながら子猫の世話が続く。続々催促にくる子猫を捌いていき、ケージの隅で丸まる最後の子猫を持ち上げる。
「アンタはよく寝るよね~さすが寝っ子だわ」
お尻を濡れティッシュでさすり排泄させ、ミルクを飲ませる。他の猫達よりも時間をかけてミルクを飲み終わりケージに戻ると、いつも寄り添う子猫に体を舐められる。この子は兄妹猫達と比べて少し体が小さく、ミルクを飲むスピードも遅い。
「とりあえず明後日病院で診てもらうからね。全員行くんだからおとなしくしてよ」
車を使わせてもらうために母親にLINEをしてから、冷凍パスタを温めて食べ、洗濯をしてから着替えて部屋を出る。子猫が生まれた日に駆け込んだホームセンターへ行き、ケージやトイレ、子猫用離乳食のことを、馴染みの店員と話し込み値段を控えてから店を出て、駅前のスーパーで冷凍食品、レトルト食品、総菜、カット野菜などを買い込み家路に就く。
昨日は薄曇りの天気だったが、今日は晴れて空は明るい。日曜日だからリラックスした服装の家族連れの姿や、楽しそうにおしゃべりをしながら駅に向かう若者の姿がちらほら目に付く。彼らを視界の外に追い出しながら家までの道を歩いていると、誰かの敷地内に植えられた紫陽花が目に入った。今年は空梅雨だったせいで、道端の紫陽花はどれも薄茶色に枯れている。
(アタシ何やってんだろ)
毛玉の付きまくったスウェットジャージを着てスニーカーを履き、ガサガサと音を立てるスーパーの袋を腕に下げながら粗末な部屋へ帰る自分。20代の社会人になりたての頃、いつか都心の中心部のオシャレなマンションで一人暮らしをする時は、平日は忙しいから休日に手の込んだ料理を作り置きして、素敵なインテリアの部屋でカフェラテとクラブハウスサンドのランチ・・・などと夢見たのに。
「どこまで落ちるんだろ・・・」
立ち止まり、思わず声に出してしまう。
これは、不安や絶望ではない。じわりじわりと押し寄せる虚無だ。1歩足を進めるごとに、心に1か所ずつ穴が空いていく感覚を覚える。
「あー・・・やばいなぁ」
雨季は急いで部屋に戻り、食品を冷蔵庫に押し込むと昨夜の残りのチョコレートケーキを出し、箱のままケーキにフォークを突き刺す。狭い廊下にしゃがみ込み無心で濃厚な甘さのケーキを口に詰め続け、最後の一口を飲み込むと今度は牛乳をパックのまま、口が付かない高さから喉元めがけて流し込む。
「ふぅ~!」
チョコレートケーキと牛乳をエンジンに、空元気を搭載した雨季は次のミルクの時間にアラームをセットしてから寝床に潜り込み、岡田斗司夫のYouTubeチャンネルをひたすら見続け時折爆笑しては世の中の色々な悩みに心を慰める。その日はずっと、子猫の世話以外では動画を見るかweb漫画を読むかして過ごし、夜中の2時に授乳をした後眠りに付いた。
目が覚めたのは明け方、子猫の鳴き声で意識が現実に引き戻され、スマホを見るとアラームが鳴る時間まで30分もある。まだ時間じゃないと布団にくるまろうとしたが、あまりにも子猫の鳴き声が激しい。起き上がり壁に指を這わせ電気を付けると、ケージから脱走した子猫が枕元の近くまで来て鳴いていた。
「うわっ!アンタどうやって出てきたのよ?!」
雨季が近寄るとさらに声を張り上げて子猫は鳴く。
「なにそんなにお腹空いたの?ちょっと待ってよ今から準備するから」
ケージの扉を開けて戻そうとすると、子猫は暴れて雨季の手を引っ搔いた。
「いった!なにすんの!」
子猫はなおも激しく鳴き続ける。柄をよく見るとこの子猫はおとなしいコンビの片割れで、体の小さい相方にいつも寄り添って舐めていた猫だ。こんなに暴れるのは今まで見たことがない。
「なに、どうしたの・・・?」
不安になった雨季がケージの中を覗き込むと、他にも起き出して鳴き続ける子猫達の向こう側、ケージの隅に、一番体の小さい子猫がぐったりと力なく横たわる姿があった。