賢人と愚人の違いは・・・
改札を出た先の広場に、一人の女が立っている。
白いワンピースの裾が風に揺れ、俯いてその様子を眺める姿がすでに一幅の絵画のように美しい。
と、誰かに思われているであろうことを想像して悦に浸るのは雨季の悪友・元アイドルの張本梓。初夏の日差しもなんのその、ノースリーブから出るむき出しの腕は白く細く、華奢な足をもっと華奢なデザインの白いサンダルで飾り、首元には近くで見なければそれがあると気付かないほど繊細なチェーンを通したピンクインペリアルトパーズのペンダントが控えめに煌めく。年齢不詳を最大の賛辞と捉える彼女は今日も可憐な少女然とした出で立ちで仲間を待っていた。
「あ、雨季~!」
駅前の道路の向こう側からやって来る友人に向かってにこやかに手を振る。もうドラマのワンシーンだ。
「よ~・・・」
自分に向けて手を振る美女に手を振り返す気力がないからせめて返事で返すのは、我らがヒロイン・橘雨季。二十年モノの上下セットのブランド物スウェットパーカーはくたびれてもはやジャージ、スマホとキーケースをよぼよぼのスウェットパンツのポケットに両手ごと突っ込み生気無く歩く姿は、さながらゾンビになりかけの病人である。
「ちょっと雨季~、大丈夫~?洗濯されたぬいぐるみみたいだよぉ~?」
「・・・かろうじて生きてる・・・」
「だねえ。雨季の好きなチョコレートケーキ買って来たから元気だして!」
梓が目の高さに掲げた紙袋の、青い桔梗色のリボンが目に眩しい。
「ああ・・・ジャン・ポール・エヴァン様・・・!」
「あずの分も食べちゃっていいよ~」
紙袋毎抱きしめスリスリしているところを笑われていると、残りの悪友・純子、麻里奈、響花がこれまた各々バッグの他に紙袋を手に到着する。
「いや~雨季ちゃん大変だったね~」
「あんた今年大殺界なんじゃないのー?それか何かに憑かれたー?」
「今からでも遅くないから厄除け行った方がいいわね。赤坂日枝神社か成田山か」
雨季に子猫が出来て以来(と、彼らは表現している)、定例の飲み会がストップしていたので今日は久しぶりに全員で会う。雨季も実家を追い出されてから丁度1週間、そろそろ誰かに泣きつかないと精神が破壊する頃合いだった。5人揃ったところで、ぞろぞろと歩き出す。
「でも地元の駅だったんなら良かったじゃん。なんだかんだで実家も近くだし」
「でも家はしばらく出禁食らってるんだよね~・・・」
「今だけよ、親なんてどうせ子どもには甘いもんなんだから」
「あそこケーキ屋さん?可愛い~!」
「スーパーが1軒だけってのはちょっとねえ・・・」
華やかさはないが静かな住宅地が広がる駅前の通りを、それぞれ思いついたことを口にしながら歩き続けること丁度5分、雨季が唐突に足を止めた。
「雨季ちゃんどーした?何か買いたかった?」
「・・・」
立ち尽くす雨季を取り囲む悪友4人。
「いえ、ここ・・・」
か細く呟く声を聴き、あたりを見回すと傍らに立ちそびえるのは小ぶりな6階建てのマンション。
「・・・・・」
思わず声を失うのも当然、かつて白だったが薄汚れもはやグレーになったタイル張りの建物は一目でバブル期の遺跡と分かる築30年越え。タイルは所々欠け、割れ、消失し、地面に近い所はよく見るとマイタケのようなキノコが生えている。全室がワンルームだと証明する狭い感覚で取り付けられたベランダの隔て板、その上に宙づりのように設えられた埃まみれで真っ黒の室外機、外から丸見えの廊下全体が醸す「外も中も古いです!」という雰囲気。全館冷暖房の洒落た輸入住宅から追い出された40代女性の住処がここでは、雨季でなくとも生気を失くす。
「・・・いや、まあ・・・、ビンテージマンションも悪くないんじゃないかな・・・」
「そ、そうよ、最近レトロテイスト流行ってるし!」
「昭和喫茶とかね!」
「ゆうても中はちゃんと修繕されてるんでしょ~」
友人たちの精一杯の励ましも通過するほどスカスカの雨季は、キーケースの中の鍵をオートロックの鍵穴に差し込む。
「あら!オートロックあるんじゃん!気が利いてるわね~!」
「やっぱ家は安心感が重要だもんね!」
開いた自動ドアの向こうにはまっすぐ続く短い廊下、右側が住戸、左側はオートロックの意味を無にする簡単に乗り越え可の柵。手前にエレベーターと階段、頭上には24時間監視というシールが貼られた防犯カメラ、そして左側には掲示板がありデカデカと指名手配犯一覧のポスターが貼られている。
「防犯カメラある!」
「エレベーターまでついてる!」
「ちゃんと外から中が見えるエレベーター!」
5人で狭いエレベーターに乗り込むと雨季は「4」のボタンを押す。あっという間に到着し、廊下に出ると外の景色が左手側に広がっていた。
「わあ~いい眺め!」
「花火とかよく見えそうじゃなぁ~い?!」
「風通しって重要だもんねぇ」
所々蜘蛛の巣が張り、カメムシの死体が転がる廊下には6戸分のドアが並び、奥から三つ目、侵入者除けに足元にブラックキャップを一列に整列させたドアを開錠し、「どうぞ」と言って雨季は友人たちに中に入るように促す。
「どれどれ~!」
「おじゃましま~・・・」
意気揚々とドアの向こうに首を突っ込んだ4人は玄関の境で立ち尽くす。
とても人2人横に並ぶのは困難な幅しかない玄関のすぐ右手は、塗装の剥げた小さな下駄箱、それに隣接して一口ガスコンロと小さな流しをベニヤ板で囲った経年劣化激しい極小キッチン、玄関左手には洗濯機があり閉じた蓋の上にはなぜか立派な大根が横たわっている。
「・・・はいんないの・・・?」
背後霊に囁かれ、4人は一瞬で吹き飛んだテンションを再度絞り出し急いで靴を脱ぎ始める。
「な、なんか、すごい、懐かしい感じするわあ~!」
「そうそう、平成の家ってどこもこんな感じだったわよね!」
「いや~なんだかんだ昭和生まれだよね~」
「ねえねえルームツアーしようよ!」
靴を脱いだ4人は廊下を挟んでキッチンの反対にあるドアに気付く。
「ここはぁ~・・・ウォークインクローゼット!」
梓が勢いよく開けたドアの向こうは、うす暗いオレンジの電球がぼやっと光るトイレ・洗面・カーテン付きバスタブ、昨今、新築物件では滅多にお目にかかれない古の三点ユニットバスである。便器が正面を向かずに微妙に斜めに配置されるほど、狭い、狭い、狭い。
「・・・・・」
最早どうリアクションするのが正解か分からなくなってきたが、しかしそこは学閥の雄たる慶應卒。持てる全ての発想力と語彙をフル稼働して友の廃人化を食い止める。
「海外のホテルスタイル~!」
「いや、これは江戸の長屋からインスパイアされた簡潔明瞭という名の美学だよ」
「全てが一つの空間で完結する一にして全ってヤツね!」
「あ!ここの丸い流しに水ためてお花いっぱい浮かせれば花手水になるよ!」
梓の風流な提案に「それ最高~!!」と3人で合いの手を入れるが、しかし雨季は
「そこは猫のシモで汚されるあたしの服を洗う場所」
と、死んだ目で一刀両断し、差し入れのチョコレートケーキやワインを冷蔵庫へしまう。
「雨季ちゃん・・・もうちょっといい部屋あったでしょ・・・」
関東私学の雄は、ついに白旗を上げる。
「そうよいくらなんでもこれはあんまりじゃない?!大学生男子じゃないんだから!」
「仕方ないじゃん・・・猫6匹住ませてもいい部屋なんてフツーないんだから・・・」
「このマンション自体が動物無制限なのぉ?」
「でもそしたら原状回復とかクリーニングですごいお金取られそうね」
「いや、この部屋のみ・・・」
雨季の一言に4人は凍り付く。
「・・・雨季ちゃん、まさかとは思うけど事故b・・・」
「いやああああ!言わないで!!」
何よりもホラーが苦手な響花が叫ぶ。静寂が訪れ、換気扇の隙間を吹き抜ける風の音だけが虚しく聞こえる。
「マジ・・・」
「何があったの・・・?孤独死?」
冷蔵庫の中から引っ張り出した2リットルペットボトルの水をコップに注ぎ、一口飲んでから雨季は答える。
「半年前、結婚詐欺に遭った女性が相手の男を縊ったそうな・・・」
「・・・・・」
この日、学閥の雄たる慶應卒の4人は、人生で初めて無力感というものを味わった。