人間は、猫に迷惑を掛けない範囲で自由である。
再び1週間、子猫達の世話と在宅ワークを頑張った雨季に訪れたのは、待ちに待った宇津木リーダーの送別ランチ会。
会社の業績は絶好調!
株価は上場来最高値!
賃上げはもう少し頑張ってほしい!!
と、そんな事情を鑑みて選ばれた場所はそこそこお高いホテルのイタリアン。総勢8人で席に着きメニューを見る。
プリフィクスランチコースのお品書きは、前菜と選べるパスタ、選べるメイン、デザート。あーでもないこーでもないと隣に座った三島ときゃっきゃしてから、パスタはペンネのアラビアータ、メインはミラノ風カツレツをチョイス。オーダー後、即運ばれてきたウェルカムドリンクは、ノンアルコールのスパークリングワイン。
(これだよ、これこれ!)
テンションも絶好調な雨季は、曲線美が美しいシャンパングラスの中で弾ける気泡と神秘的な赤紫色の液体をうっとりと見つめ、グラスを少し揺らして芳醇な香りを楽しむ。
「やっぱ食前酒はカベルネですよね・・・」
いつまでもくんかくんかと匂いを嗅ぐ雨季を見て、不思議そうに課長は「ぶどう炭酸だよね?」と確認するが周りに「シッ!」と窘められる。
「橘さん来てくれてありがとうね、会えないかと思ってた」
三島とともにぶどう炭酸を楽しむ雨季に、本日の主役の宇津木リーダーは優しい笑顔を向ける。
「いえいえ、宇津木リーダーのためならなんのその!」
「猫ちゃん達はお母さんが面倒見てくれてるの?」
「あ、まあ1回分のミルクとかのお世話だけなんで全然大丈夫ですよ!私より子育ては段違いにベテランなんで!」
大きなお腹に手を当てながら笑う宇津木リーダーを見て、自分も今育てているのが猫でなく実子だったらこんな風に穏やかだったのだろうかと思う。
運ばれてきた料理にみんなで小さく感嘆の声を上げてからナイフとフォークを手に取り、食事をしながら雨季が在宅勤務中の間に起こった社内のあれやこれやを聞き、雨季も子猫の世話がいかに大変かを話してみんなで笑い合い、鬱屈としていた気持ちは発散されていく。大好きなペンネのアラビアータはトマトの酸味が絶妙、ミラノ風カツレツはカリっとした衣とジューシーな豚肉の油が絡み合う。デザートのティラミスは卒業旅行で行ったイタリアで食べた本場のものよりも美味しいかもしれない。
「んん~甘いの久しぶり!」
「私もしばらくこんなオシャレな食事できないかと思うと辛いわぁ」
「じゃあ二人には自分の分あげるよ」
課長は手つかずのティラミスの皿を、向かい合って座る雨季と宇津木リーダーの方へ差し出した。
「ええ~!課長優しい!」
「どうしたんですか?!」
「昔子育て中の女性を大事にしなかったから、今家で居場所がなくてねえ」
「ちょっとちょっとリアル!」
個室を予約しておいて良かったというほどの笑い声が響き渡る。皆は課長をイジり倒し、その傍らで雨季は半分こしたティラミスをペロリとたいらげて紅茶を一口啜った。口の中に残るティラミスの甘い余韻に紅茶の香りが重なり、これまでの人生で幾度となく味わってきた華やかな享楽の時間に雨季は連れ戻され、夢心地だった。
業務時間中のランチのため長居はできなかったが、オフィスビルの入り口で皆と別れた後、スマホをチェックしても母親からのLINEはないから問題はなにも起きていないと安心し、上機嫌でいつものブーランジェリーでデニッシュを買い込んでから電車に乗った。乗り換え駅の新宿ではディーンアンドデルーカに寄りお土産のスイーツやクッキーを買う。どうせ両手に荷物を下げるなら洋服や靴の方が満足度は高いが、今はおやつでも十分である。大量、大量、とほくほくしながら帰りの急行に乗り予定とそこまで違わない時間に地元の駅に着いてからバスに乗って帰宅した。
「ただいまー。ママー、お土産買って来たよー」
靴を脱ぎながら玄関に置かれたケージに視線を移すと、子猫達はおとなしく眠っているのか鳴き声も物音もしない。そのまま雨季は一度置いた荷物を再度持ち上げてリビングに続くドアを開けると、ダイニングには育子だけでなく正敏もいた。
「ただいま、お土産買ってきたよ」
雨季はテーブルの上に戦利品を広げるが、いつもならすぐに手を伸ばしてくるはずの両親が微動だにしない。
「食べないの?」
「・・・雨季ちゃん、ちょっと聞きなさい」
育子の表情が険しく、嫌な予感がした。
「ママね、この間から町内会の平沢さんのところに猫の里親探しのことでお伺いしてたんだけど。平沢さんとこも猫好きで3匹いるのよね」
「え、じゃあ貰ってくれるの?」
「そうじゃなくて」
育子はピシャリと言い放つ。
「平沢さんのお宅、3匹とも子猫の時から育ててるのよね。だから家中がすごいことになってるの。壁紙とかソファとか障子とか、爪で裂いた跡が」
その後に続く言葉が何であるのか、第6感は知っている。雨季の背筋が少しずつ凍り始める。
「猫は可愛いけど家中ボロボロにされるのは堪らないわ。だから雨季ちゃん」
育子は雨季の目を見つめて言い放つ。
「猫達連れて出ていきなさい」
言われた言葉の意味を理解できる故、一層脳は飲み込みを拒否する。走り出した感情を制御しながら、雨季は精一杯の抵抗を試みた。
「え、なに、なに言ってんの?!無理に決まってるでしょ!」
「どうして無理なのよ、アンタ在宅でしょ」
「いや、そうじゃなくて!」
「なにがそうじゃないのよ」
「あたし一人暮らしなんてできないよ!」
雨季は救いの手を正敏に求める。
「パパ何とか言ってよ!ママがまた無謀なこと言ってる!」
「お前は家を出ていくべきだ。引っ越し先はもう見つけてある」
「はっ?!」
救いの手を求めたのに、逆にその手が持つハンマーで殴られたような衝撃が雨季を襲う。
「父さんの現役の時の伝手で、駅前のマンションに猫と一緒に即入居していいって言ってくれた大家さんがいる。普通猫6匹なんて受け入れてくれないから有難いんだぞ」
「いやそれ絶対ワケ有り物件でしょ!」
「ちょっと古いってだけだ」
「無理無理お金ない!」
「いい加減にしなさいよ!!」
テーブルを叩いて育子が叫ぶ。
「アンタこの先一生パパとママに甘えておんぶに抱っこで生きていく気なの?!」
「別におんぶに抱っこじゃないじゃん!ちゃんと生活費入れてんじゃん!」
「そういう問題じゃないでしょ!」
鬼の形相で育子は畳み掛ける。その顔は悠々自適ライフを楽しむ専業主婦のソレではない。
「パパとママの人生はねえ!アンタなんかの面倒見続けるためにあるんじゃないわよ!勝手に子ども作ってその世話まで親にやらせるなんてどういうこと?!あの猫達のせいで予約してたベリッシマだってキャンセルしたんだからね!」
あたしの子どもじゃないと言いたいところだが、育子にとってはそんなことはもうどうでもいいのだろう。ここまでキレまくる母を宥める手腕など、雨季は持ち合わせていない。
「この家だって破壊されてたまるもんですか!猫のやることだったらソファバリバリにされても障子ビリビリにされてもトイレットペーパーボロボロにされても戸棚ゴソゴソされても怒れないのよ!!里親に出すなら好きにすればいいけど全部引き取り手が見つかるまで帰ってくるんじゃないわよ!!!」
「そんなあ!!」
追い打ちを掛けるように正敏が書類の束を差し出す。
「これが物件の概要だ。敷金礼金は払ってある。家賃はお前の給料天引きにしている生活費口座から払われるようになってるからお前は何も手続きいらないからな。洗濯機と冷蔵庫も明日届くからこの週末で引っ越すんだ」
青ざめる雨季に淡々と告げられる、周到に用意されていたであろう追い出し計画。そして最後に無慈悲なる宣告が下された。
「ママのエルメスも返しなさいね」
呆然自失の雨季はそのままフラフラと階段を上がり自室に入り、エルメスから取り出したスマホでグループLINEに一言メッセージを送った。
『ごめんやっぱご祝儀ちょうだい』