1 断罪、婚約破棄、そして追放
けたたましい音を立てて馬車が疾走する。
西の国境へと続く薄暗い森の道。舗装もなく、一頭立ての粗末な馬車ではろくにスピードも出ない。馬を駆る野盗の集団に追いつかれるのは時間の問題だ。
激しく揺れる馬車の中で、フランチェスカは一人、身を固くしていた。
筆頭侯爵家の令嬢だというのにお付きの者はいない。
場違いなイブニングドレスは、二日前の夜会で、婚約者であった王太子アレッシオから断罪され、婚約破棄と国外追放を言い渡されて、そのまま屋敷に立ち寄ることすら許されず夜明けと共に馬車に乗せられたためだった。
美しい光沢を放っていた青のドレスも、綺麗に結い上げられていた絹糸のような黒髪も、無残に乱れ今や見る影もない。
(罪など……わたしは罪など決して……!)
フランチェスカに指を突きつけてアレッシオが言い連ねた罪状は、妃教育予算を横領して宝飾品を買っただの、か弱き伯爵令嬢ロザリアに嫉妬して嫌がらせを繰り返したなどというもの。
どれもこれも、フランチェスカには身に覚えのないものだった。
妃教育予算をくすねて宝飾品を買っていたのはアレッシオ自身。
その宝飾品は、彼に腰を抱かれながら大きな瞳を潤ませるロザリアの豊満な胸元で輝いていた。
(支払いの出所を誤ったのであれば速やかに正すべきだと、殿下に進言したのがいけなかった? それとも、恋人を愛妾に迎えるにしても公の場では正式な婚約者をエスコートしてほしいと言ったのが気に障ったの……?)
おそらくどちらもだろうし、それがなくともいずれ別の理由でこうなったに違いないと、フランチェスカは思う。
王太子アレッシオに国一番の侯爵家の後ろ盾をと、国王陛下たっての希望で結ばれた婚約だった。
だが、アレッシオは初めから、フランチェスカのことがお気に召さなかったらしい。
『あーあ。こんな地味なのが僕の婚約者か』
顔合わせのお茶会での、それがアレッシオの第一声だった。
きらびやかな金髪に明るい緑の瞳の、絵に描いたような美少年だったアレッシオから見れば、まっすぐの黒髪に薄青の瞳のフランチェスカは地味に映ったのかもしれない。
けれど、両親と兄から愛されて育った当時五歳のフランチェスカにとって、アレッシオの冷たい言葉と眼差しは衝撃だった。
期待も希望も一瞬にして砕け散った。
それでもフランチェスカは、砕けた欠片をどうにか掻き集め、元のとおりに繋げようと努力した。
厳しい教師達による日々の妃教育にも、音を上げることなく食らいついた。
王太子に輪をかけて冷淡な王妃からの嫌味にも耐え続けた。
次第に食が細くなり笑顔が消えていくフランチェスカを家族は案じたが、心配をかけるのも心苦しく、「大丈夫よ」と作り笑いで強がった。
細身で表情の乏しいフランチェスカは、成長するにつれてますますアレッシオの好みから遠ざかってしまったらしい。
勉強嫌い、公務嫌いのアレッシオに代わり、文官達から請われるままに本来王太子がすべき事務仕事を担うようになったのも、彼のプライドを傷つけたのだろう。
『なんだ、その目は。いつだって自分は正しいような顔をして良い子ぶって。心の中じゃ俺のことを馬鹿にしてるんだろ。まったく、なんでお前のような可愛げのかけらもない、つまらない女と結婚しなきゃいけないんだ』
忌々しそうに吐き捨てられたとき、フランチェスカの柔らかな心は深く抉られた。
アレッシオは当てつけるように、フランチェスカと真逆の、華やかで可愛らしくて女性らしい丸みのある令嬢達を、かわるがわる恋人としてそばに置くようになった。
その上、半年前に伯爵家の庶子ロザリアを寵愛するようになってからは、公の場で婚約者をエスコートするという義務すら放棄するようになった。
少しずつ、少しずつ、フランチェスカの心は凍り付いていった。
それでもアレッシオは国王陛下の唯一の子であり王太子だ。いずれはきちんと立場をわきまえてくれるに違いないと、フランチェスカは信じていた。心を凍らせながらも、そう信じようとした。
婚約破棄だなんて、ましてや罪人として国外追放されるだなんて、思ってもみなかったのだ。
(嵌められたんだわ……。わたしが甘かった……)
断罪劇は、フランチェスカの父である宰相が公務で王都を不在にしている晩に行われた。
青褪めるフランチェスカを見て、ほんの一瞬ニヤリと口の端を歪めたロザリアの顔を思い出す。フランチェスカはまんまと悪役に仕立て上げられたのだ。
せめて国王陛下が健在ならば状況は違ったのだろうが、国王は一年ほど前から病に伏せり、ここ数ヵ月は公の場に姿を見せていない。
代理を務める王妃は、驚きも迷いも見せず、アレッシオの行動を追認した。あらかじめアレッシオとジーナの企みを承知していたに違いない。
(いったいどう振舞えば、アレッシオ殿下と王妃様に認めていただけたのだろう……)
アレッシオとの婚約以来、十二年もの間考え続けた問いへの答えはいまだ見つからない。
ただ、全てが無駄だったのだということだけが、確かな事実だった。
だがもはやそんな感傷に浸っている場合ではなかった。
馬のいななきと蹄の音が迫る。囃し立てるような男達の声がそれに混じる。
彼らに捕まればどうなるのだろう。殺されるか、売り飛ばされるか、それとも……。
最悪の考えばかりが頭に浮かぶ。いっそ自害しようにも、罪人扱いのフランチェスカは護身用の短刀すら持たされていない。
やがて馬車は、ひときわ大きく揺れたかと思うと、つんのめるようにして唐突に停止した。続いて、御者の男の悲鳴が遠ざかっていく。
野盗達が馬車を取り囲む気配に、フランチェスカは息をのんだ。
「おい、早く開けてみようぜ」
「財宝はねぇが女は俺らの好きにしていいって話だからな」
「すげぇ上玉の生娘だってよ。へへっ、売り飛ばしちまう前に存分に楽しもうぜ」
下卑た笑い声と共に扉の取っ手に手がかかる。
(もう、舌を噛み切るほかない。お父様、お母様、お兄様……。最後に一目、お会いしたかった……)
震えながら覚悟を決め、ぎゅっと目をつむった、その時だった。
新たに複数の蹄の音が押し寄せてきた。
「な、なんだ!?」
「おい、こんなの聞いてねぇぞ!」
野盗達の狼狽えた声。続いて金属のぶつかり合う音、激しい喧騒。
やがてそれらが静まった後、馬車の扉が控えめにノックされた。
「我々は西境騎士団です。フランチェスカ嬢、ご無事でいらっしゃるか?」
低く艶のある男の声は、西の国境を守る騎士団の名を告げた。
「……はい」
身じろぎもしないまま掠れた声でどうにか答えると、「失礼する」という声に続き、馬車の扉が開かれた。
身を屈めて顔を覗かせたのは、騎士服をまとった大柄な男だった。
少し癖のある赤毛を後ろに撫でつけた、端正な顔立ちの男。
鋭い瞳の色は鮮やかな緑。
フランチェスカより一回りほど年上と思われる男は、咄嗟に身を引いてしまいそうな威圧感をまとっている。
男は、息を潜めて身を固くするフランチェスカを見るなり、緑の目をわずかに見開いた。
「フランチェスカ嬢、大きくなられたな」
厳めしい目元がふっと和らぐ。その柔らかな表情に記憶の奥深いところがくすぐられた
「あ、あなた様は……」
「覚えていないのも無理はない。最後にお会いしたとき、あなたはまだほんの幼い少女だったのだから……。西境騎士団長を務めるレオナルドだ。フランチェスカ嬢の身の安全は我ら西境騎士団がお守りする。どうぞご安心を」
目の前に、大きな手が差し出される。
「レオ様……?」
遠い記憶の中でフランチェスカの頭を優しく撫でた人の微笑みと、目の前の男が重なった。
「レオナルド、王弟、殿下……」
差し出された手を取った瞬間、張り詰めていたものがプツリと切れた。視界が暗転する。
ふらりと傾いだ体を、逞しい男の腕が受け止めた。