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たった40秒あまりでのKO負け、一回戦敗退という惨敗が、十五、六歳の人一倍プライドの高い少年の心をどれほど傷つけたかを想像するのは、さほど難しくない。皇木はこの敗戦をことあるごとに自分から話し、「まあ俺は42秒で負けたわけだけど」などと自嘲するようになった。
この試合で分かったことだが、皇木にはボクサーとしての決定的な欠点が二つあった。
一つはパンチ力の無さだった。試合では先に皇木がクリーンヒットを放ったにも関わらず、豊田は平気でパンチを返してきて、結果皇木のKO負けに繋がった。以前の練習試合での田村とのスパーリングでも、いくら皇木がパンチを浴びせても田村はダウンせず、結局皇木は後半田村の反撃を受けた。
つまり皇木には一発で試合の流れを決定づけられるようなパンチ力が無かった。パンチ力というのは後天的に練習で身につく部分もあるが、多分に天性のもので、ボクシングをはじめたばかりであってもパンチ力の強い人間はいる。またその逆に、いくら練習を積んでもパンチ力が強くならないボクサーもいる。皇木にはこのパンチ力が欠けていた。
欠点の二つ目は、顎が異常に打たれ弱いことだった。豊田のたった一発のパンチに皇木はあえなく倒れてしまった。そしてこの後も練習試合や大会で、皇木はしばしばその顎の弱さを露呈するようになる。優位に試合を進めていても、一発パンチをもらっただけで倒れてしまう――私は皇木のそんな姿を何度か見た。
この「顎の弱さ」はパンチ力以上に生まれ持った要素が大きく、また鍛えて克服することが難しい。
あるいは皇木は、豊田との試合で顎を壊されてしまったのかも知れない。もともと打たれ弱くなかったボクサーがある時強いパンチをもらってKOされ、以後パンチをもらうとすぐ倒れてしまうようになることがたまにある。そうして一度打たれ弱くなった体質はだいたいにおいて一生改善しない。
果して皇木が元々打たれ弱かったのか、あるいは豊田との試合の激しいKO負けでそうなってしまったのか、どちらなのかは今となってはよく分からない。しかしとにかくその後皇木はノックダウンされやすい体質を時々露呈させた。
一年時の新人戦後、皇木の試合を見たり、時々彼と話などしたりしながら、私は皇木がボクシングを辞めてしまうのではないかと危惧した。そうなるだけの理由は十分あるように思えた。
日々苦しい練習に耐えながら自己の強さの表現をひたすら追い求める世界で、皇木は「一回戦 42秒KO負け」のレッテルを張られ、嘲りの中で過ごさなければならなかった。パンチ力の無さと顎の弱さ、ボクサーとしての二つの素質的欠点を抱え、しかもそれは努力ではなかなか解決しないものだった。プライドの高い彼が、このころ部活を辞めようと一度も思わなかったかというと……私はそうではないような気がする。
しかし皇木はボクシングを辞めなかった。
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皇木にとって唯一プライドを繋ぎとめてくれたことは、豊田があの試合後新人戦の準決勝、決勝をノックアウトで勝ち、計三試合全てKO勝利という圧倒的な成績で優勝したことだった。
豊田選手はこの後高校二年時にアマチュアボクシングを辞め、横浜光ジムという名門ボクシングジムに移籍する。
それから赤穂亮と名前を改め、プロボクシングの世界タイトルマッチに二度挑戦する有名なボクサーになった。
プロの戦績は43戦39勝(26KO)2敗2分。主なタイトルは第71代日本バンタム級王座、WBOインターナショナルバンタム級王座、第32代OPBF東洋太平洋スーパーフライ級王座。二〇二三年二月に三十六歳で引退を発表した。引退時の世界ランキングは8位。
要するにのちにプロボクサーとしてワールドクラスの戦績を残す選手と、初めての試合で当たってしまったのが皇木の運の無さでもあった。
豊田(赤穂)はこの新人戦後、二年生の時にも栃木県の高校ボクシング大会に出場し、目立った試合をして栃木県内の高校ボクシング関係者にはよく知られた選手になった。二年時のある大会中に皇木は豊田と前年の新人戦の試合について話をし、「はじめからあんなにコンビネーションをもらってしまって、負けたと思った」とこの時言われたそうで、うれしかったらしい。そのことを私に「さっき豊田がこんなことを言っていた」と自慢げに話してき、KO負けの溜飲を下げ、自身の誇りをどうにか保っていた。