1-6
皇木の相手は豊田亮という、前に書いたとおり私設のボクシングジムに所属している選手だった。もちろん高校一年生である。なんという高校名だったかは、不正確で大変申し訳ないのだが私は失念してしまっている。間違いないのは彼の通っていたその高校には元々ボクシング部が無く、この豊田を大会に出場させるためだけに部を創設したということである。そのため部員は豊田一人だけしかおらず、豊田が部を辞めた後この部は廃部になったようだ。
そのような一時的に創られた部だったため、私はその学校名を失念してしまったわけだが、豊田選手の出身は栃木県芳賀町ということで、もしかしたら「栃木県立芳賀高校」がそれだったかもしれない。しかしこの芳賀高校というのは二〇〇七年に統廃合されており、今その学校はない。
いずれにせよ読者に分かっていただきたいのは、皇木の一回戦の相手がたった一人の部員しかいない、伝統も何もない学校の部の選手だったということである。
私はこの豊田選手を彼の試合直前に見かけた。
人でにぎわう試合会場のほぼ中央で、タンクトップ、ハーフパンツのユニフォームに身を包んだ彼が、同じジムの練習生と思われる少年とミット打ちをしていたのだ。私は試合用グローブを着けてミットを打つ彼の顔を見た瞬間、以前皇木に見せてもらった記事の写真の男性を思い出した。
豊田は髪を長く伸ばし、(確か)茶色に染めていた。肌が浅黒かった。日焼けサロンに通っているのかも知れなかった。面長の顔で、眉が細く整えられ、眼光が鋭い。なんにせよどう見てもちゃらちゃらしたヤンキーである。
(あれが皇木の相手じゃないか?)
そのヤンキーボクサーを見て、私は思った。興味を引かれて傍で眺めていると、そのヤンキーが、ミット受けをしているやはりヤンキーのジム仲間とパンチの確認をしながら、
「普通にこれで倒れるよな?」
「ああ、倒れるだろ」
などと言い合っていた。確認していたのはいかにも初歩的なワンツーパンチである。
(こんなちゃらちゃらしてんのが、勝てるわけないだろ!)
私は心の中で毒づいた。このころには私は皇木に対して自分の所属する部の仲間に準ずる親しみを感じていたから、(皇木、こんな奴に負けるなよ)と願った。
やがて皇木と豊田の試合順が回ってき、二人はリングの両コーナーに上がった。プロボクシングと違うのは二人がヘッドギアを着け、タンクトップを着ていることである。皇木の白鴎高校のユニフォームは、黒地に白のラインが入ったものだった。試合は2分2ラウンドと短い(二年生の部は2分3ラウンド)。
両者リング中央で手を合わせてコーナーに戻った。
ゴングが鳴った。
ゴングと共に、皇木はバネで弾かれたように飛び出して勢いよくステップを踏み、豊田に向かっていった。豊田も同様に全速力でリング中央へ進んだ。
高校ボクシングの新人戦の一年生の部、つまり生れて初めての試合となる選手同士の闘いというのは、大抵単純な打ち合いになる。多くの選手が高度なディフェンステクニックを持たないうえ、2分2ラウンド、たった4分間の短い闘いである。選手たちは細かいテクニックを競うのではなく、体力と根性をこの4分間に全て注ぎ込んで、数ヶ月間主に習ってきたワンツーパンチの連打を繰り出して相手と打ち合うのだ。ガード、ディフェンスなど二の次である。相手のパンチをもらいながらも攻め続けて――やがてダメージを負いすぎ、気持ちの折れた方が後退し、勝敗が決まることが多い。
皇木と豊田の試合も、そのようにしてはじまった。両者はリング中央で激しくぶつかり、コンビネーションブローを打ち合った。皇木の連打が、豊田の顔面を捉えた。
……後の話になるが、豊田はこの瞬間を振り返って「負けたと思った」と言ったそうである。「はじめからあんなにコンビネーションをもらってしまって、負けたと思った」と。彼は相当焦った――パニックに近い状態になったらしい。「それで、『うわあーっ』と思って」慌ててやみくもにパンチを返した。
そのやみくもに打った右ストレートがたまたま皇木の顎に入った。
次の瞬間、皇木の体は糸の切れたマリオネットのように力が抜け、彼は綺麗にしりもちをついた。
すかさずレフェリーが間に入り、カウントを取った。早いダウンに会場がどよめいた。
皇木はリングの床に両手をついて立ち上がった。しかし膝が笑っているのが観戦している私の位置からも分かった。皇木はファイティング・ポーズをとった。試合が再開された。
豊田が機を逃さず跳ぶようにして皇木に迫り、攻撃した。皇木も引かず、けな気にパンチを返したが――再び豊田の右を顎にもらい、あえなく倒れた。試合のルールはツー・ノックダウン制である。レフェリーが試合を止めた。
リングサイドでセコンドを務めていた白鴎高校の北村監督がさっとリングに入って、立ち上がろうとしていた皇木を抱えるように起こし、肩を貸した。皇木はコーナーに置かれた円椅子に座らされた。
「ただいまの試合は、1ラウンド42秒、○○高校豊田君のノックアウト勝ちでした」
リングアナウンスが会場に響きわたり、リング中央で豊田がレフェリーに片手を持たれて勝利の挙手をさせられた。その後豊田は試合の作法通り四方の観客に頭を下げ、コーナーに座っている皇木に握手した。
豊田の握手を受けた皇木はリングロープの外に出ると、リング脇の階段を降りた。脚がもつれ階段を踏み外しそうになり、だだだだっと足音が鳴った。
「おいおいだいじょうぶか」
私の隣で観戦していた石川という先輩――この先輩は白鴎高校との練習試合時に皇木と仲良くなっていた――が深刻に呟いた。
皇木はどうにか自分で歩いて白鴎の選手が待機しているスペースに戻ってきた。
「ごめん……ごめん」
歩きながらすれ違う、白鴎の部員仲間やその他知り合い全てにそう謝っていた。私のそばを通り過ぎるときも、私を見て、
「ごめん、マジごめん」
白い顔をして謝った。