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ここで、愛斗学園高校ボクシング部というものについて、少々説明したい。
私たち小山高校、白鴎高校をはじめとした栃木県内の高校ボクシング部の情熱は、この愛斗学園ボクシング部を打倒することにほとんど全て注がれていた。
愛斗学園は良く知られるように野球の強豪高校だが、ボクシング部も負けず劣らず名門である。
その主な実績の一部を紹介してみると、
・全国高校総体 (インターハイ) 個人チャンピオン29名輩出
・同大会 学校対抗優勝8回(全国最多優勝回数)
と、インターハイだけに限っても輝かしい成績を残していることが分かる(右記の実績は二〇二三年五月時点のもの)。
要するに愛斗学園はボクシング部活動において全国有数の高校であり、栃木県内では圧倒的な実力を誇っていた。
愛斗学園ボクシング部は、部員数からして他校とはまるで違った。私と同学年のその部員数は――今でも良く覚えているが――入部時点で三十七名いた。これに対して小山高校ボクシング部の私の代の部員数は、初め十三名。この十三名のうち、最後まで部を続けたのは私を含めて二名しかいなかった。白鴎高校の皇木の同学年で最後まで残ったのは四名。
地味で辛い練習と、実力が無ければ練習でも試合でも殴られてばかりでいることに大抵の選手が嫌気がさして、次々辞めていってしまう、それが高校ボクシング部の実情である。
私と同学年の愛斗学園の選手たちも多くが中途退部していったが、それでも三十七名のうち十五名~二十名ほどは生き残った。そんな状態だから、当時の栃木県大会の出場選手は半数以上が愛斗学園の選手で占められていた。人数が多ければ当然その中には才能のある選手もいて、そういった愛斗学園のエース格の選手が大抵県大会の各階級の優勝をさらうのだった。
また、栃木県大会に応援に来る保護者やOBなどもほとんどが愛斗学園の関係者だった。そのため会場は私たちにとって完全アウェーの、愛斗学園のホームグラウンドのような雰囲気に陥っていた。
愛斗学園が県内で強盛を誇った理由は、県大会の試合のジャッジを行う審判の大半が愛斗学園の出身者であったことにもあった。この愛斗学園OBの審判たちが、露骨に母校の選手の贔屓判定をしていたのだった。私たちはこの贔屓判定を「奈良判定」ならぬ「愛斗判定」と陰で呼んでいた。
愛斗学園と他校の選手とが闘う際には、他校の選手はよほど優勢に試合を進めていかないと判定では勝てなかった。五分五分の試合だと、まず愛斗学園の選手に判定が上がる。実際私がボクシング部に所属していた時も、この不可解な「愛斗判定」で仲間が敗れた試合を何試合も見た。
私が愛斗学園の敵である小山高校の出身だから、嫉みでこんなことを言っているのではないかと思われるかも知れないが、決してそうではなく、客観的に見て愛斗判定は存在したと私は考えている。その一証拠として、小山高校ボクシング部の監督だった天谷という教師が私にしてくれた、とある裏話がある。
私が二年生だった時の関東大会県予選のある試合で、愛斗学園の選手と白鴎高校の選手が本選出場を賭けて対戦した。この試合の審判の一人を、天谷監督が任された。
どちらが勝ったとも言えないような勝敗の際どい試合になり、判定となった。天谷監督は白鴎高校の選手に勝ちを入れた。しかし他二人のジャッジが(もちろん愛斗学園関係者である)愛斗学園の選手の勝ちとして、判定は二対一で愛斗学園の選手の勝利と決まった。
ここまでは、別にいい。
その後この大会の審判団の反省会のような会議があって、天谷監督も出席させられた。すると例の試合で、天谷監督が白鴎高校の選手の勝ちと判定したことが問題にあげられた。愛斗学園OBで、栃木県少年ボクシング連盟の重職を務めていた人物が、
「選手には一回しかチャンスが無いんだから、きちんとしてもらわないと」
と天谷監督に注意してきたそうである。
天谷監督はただ公平に、白鴎高校の選手の優勢と見てジャッジしたつもりだった。それがなぜ注意されるのか分からないし、そもそも白鴎高校の選手だって「一回しかチャンスが無い」のは同じである。それを天谷監督に圧力をかけて、暗にこれからは愛斗学園の選手にきちんと勝ちの判定をするよう、注意してきたのである。
栃木県の高校ボクシング大会の判定が今でもこのような状態であるかどうか、私は知らない。だが少なくとも約二十年前はこの「愛斗判定」が大きく幅を利かせていた。そしてその判定の力もあって愛斗学園一強の構図が栃木県下でできており、私たち他校の部員は「愛斗憎し」の思いを強めて、愛斗学園の選手を倒し、県大会を勝ち抜いて上位大会に出場したいという夢を皆抱くのだった。
――二年時の秋の新人戦決勝、皇木の対戦相手となった岩崎選手は、その愛斗学園のバンタム級のエースだったわけである。