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そのクリスマス・イブのことは今でもはっきり覚えている。
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二〇〇三年のクリスマス・イブ、栃木県南東部には夕方から雪がちらつき、ホワイトクリスマスとなった。
高校二年生だった私は通っていた学校の近くを流れる川の土手の上を、ボクシング部の後輩の和久井と一緒にランニングしていた。
当時私が所属していたボクシング部では、毎夕の練習前に五キロメートルのロードワークが選手に課せられていた。私はそのノルマをこなすため、仲の良かった和久井と共に、定められたランニングコースをその日も走っていたのである。
私と和久井が学校を出て川の土手にたどり着いたあたりで、鈍色の厚い雲に一面覆われた空から粉雪が舞い落ちはじめた。
(雪か)
私は憂鬱になった。寒さで体はなかなか温まってこない。日々の練習の疲れで体はあちこちきしんでいる。特にパンチを打つ際の体の回転に酷使している、左腰の痛みがひどい。
――このロードワークを終えると、学校の体育館での、マンネリ化した辛いジムワークが私を待っている。私はこのころボクシングという競技の練習の厳しさにいささかうんざりしはじめていた。部活動などしていない世の中の男子高校生たちが、女の子と「ホワイトクリスマスだね」などと浮かれているだろう時に、なぜ黙々と土手でランニングをしていなくてはならないのだろう?
「降ってきたな」
私は規則正しく白い息を吐いている隣の和久井に声をかけた。自分の気持ちに共感してもらいたくて、そのひと言に憂鬱さを含めた。
「そうっすね」
しかし和久井はそんな私の心情などにはまるで気付かなかったようで、気のない返事をしただけで熱心に走り続けた。この真面目な後輩はこの前月に初めて出場した公式戦で惜敗し、それがよほど口惜しかったらしく、情熱的に日々の練習に打ち込みはじめていたところだった。仕方なく私は和久井から同情を得るのを諦め、後輩を見習って黙って脚を動かし続けた。
土手をずっと川の下流へ走っていくと、やがて大きな橋に差し掛かる。部で定められたランニングコースは土手の道を左折してこの橋を渡り、その先の道路を更に左折して帰り道につくというものだったので、私と和久井はいつも通り土手の道を折れて橋を渡りはじめた。橋には二車線道路が通っており、車の行き来が激しい。その車道の端についている歩道を走った。
橋をもうすぐ渡り終える、というところで車道を挟んだ反対側の歩道に、若いカップルがこちらへやってくるのが見えた。私はなんとなしにそのカップルを眺めた。
カップルは私から見て右側を歩いてくる。彼氏は黒の厚手のダウンジャケットに、当時田舎で流行っていただぼっとしたズボンを穿いていた。頭にぴったりとしたニット帽を被っている。洒落た、しかし若干不良っぽい服装だった。その斜め後ろを歩く彼女は、コートの下に高校の制服のやや短いスカートを見せていた。黒のショートヘアー。彼氏に似合わず真面目そうな女子高生である。二人とも傘は差していない。
すれ違いざま、その彼氏が皇木であることに、私は気付いた。
「皇木!」
私は足を止めて向かいの歩道に声をかけた。皇木がこちらを向いた。やはり足を止め、
「おう」
手をあげて挨拶してきた。彼女も皇木にしたがって立ち止まった。
「皇木、お前、今日練習は?」
私は大声で聞いた。声を張らないと、行き交う車の音に声が掻き消されそうだった。
「サボった!」
皇木のあっけらかんとした返事が返ってきた。
「そうか!」
私はそれで会話を終えたつもりで、そばで状況を見守っていた和久井を促がし、再び前を向いて走りだしかけた。すると皇木が、
「渡辺!」
と叫んだ。私がまた右側の歩道を見ると、
「今、二日で一箱のペースで吸ってる」
皇木がそう言いながら煙草を吸って煙を吐き出す仕草のまねをしてみせたのである。
「はっ、バカだな!」
私はちょっと笑ってランニングを再開した。
少し走って皇木と彼女が見えなくなってしまうと、和久井が「今の誰なんですか?」と私に聞いてきた。
「分からなかったか? 白鴎の皇木だよ」
私が答えると、和久井は、
「全然いつもと違うじゃないですか!」
と驚いていた。皇木の私服を見慣れなかったため、彼の服装が意外だったらしい。
「白鴎、今日練習無いんですかね?」
「いやあるだろ。皇木がサボっただけだよ、多分」
「それで彼女さんとデートですか?」
「そうだな」
「煙草吸ってるって言ってましたね」
「ああ。あいつはバカなんだよ」
私たちは帰り道を並んで走りながら、大体そんなことをしゃべりあった。私たちの着ているウインドブレーカーに、細かい雪が降りそそいでは消えていった。