01/あの二人、悪魔が憑いてるらしいんだよ
僕、虎丸コハクはあくまで、奇怪な青春を謳歌したいと思っていた。オカルト研究部に入って仲間と都市伝説を調べたり、いわくつきの神社仏閣巡りをしたりするような、奇妙で怪しげな高校生活だ。しかしここ、自称入道雲の町、ニュウ都シティを見下ろせる丘の上にそびえ立つ、ユウヒ丸跡高等学校。通称ヒマ高にオカルト研究部は無く、一から新しく部活を立ち上げるほどの行動力も僕には無かった。その結果として僕は、帰宅部として当たり障りのない青春を謳歌できていた…………はずだった。
「頼む虎丸! 生徒会長に立候補してくれ!」
七月一日、放課後。新生徒会室予定地、現よくわからない物置部屋にて。僕は教員生活一年目にして生徒会の顧問を押し付けられた黒縁眼鏡の新任教員、宮浦先生と教室の掃除をしていた。壊れて首の回らない扇風機が、また耳障りな音を立て始めた。
「…………生徒会長、ですか?」
「うん。生徒会長」
現在の生徒会室はもともと茶道部の部室だったため、畳の部屋があるらしい。そのため、今年度から復活した茶道部に取り返されることになったらしい。そしてその結果、次の生徒会からはこの空き教室を生徒会室として使うことになった、らしい。僕はその掃除を任された宮浦先生に頼み込まれたので仕方なく手伝っていたのだが、さらにとんでもない要求をされることになった。
「生徒会長……いや、何で僕なんですか?」
「頼むよ、俺達教員志望組の仲だろ?」
教員志望気分が抜けない新任教員、宮浦悟朗先生は、入道雲の見える窓を一生懸命雑巾で擦っていた手を止め、こちらに振り返った。
「……そうですね。一応、ちゃんとした理由を聞かせてもらっても?」
僕は一応、将来の夢は学校の先生ということにしている。本当の夢は小説家だが、親にも学校にも反対されたため建前上は、教員を目指していることにしている。その上で新任教員と仲良くしておけば教員を目指してるっぽさが出ると思ったのだが、まさかこんなことになるとは思わなかった。
「うん。虎丸もさ、今立候補してる星木さんのことは知ってるよね?」
「……はい。まあ」
星木ミウ。願望会という新興宗教団体の教祖の一人娘で、最近この学校に転校してきたクラスメイト。その影響力は絶大で、既にこの学校にも彼女の親衛隊のようなものが発足していると聞いたことがある。
「今立候補してるのは星木さんだけなんだけどね」
「……やっぱり、選挙をするための対抗馬がいる感じ、ですか?」
願望会にまつわる、秘密結社的で都市伝説的な噂は絶えない。願望会のホームページも見たことがあるのだが、良い感じに不気味な感じで、僕は割と気に入っていた。そのため一度彼女とも話してみたいとは思っていたのだが、わざわざ話しかける程の行動力は僕には無かった。
「いやいや、そんなことのために虎丸の力を借りたりしないよ。虎丸には、選挙に勝ってもらうんだから!」
「…………」
「…………」
「……え、いや、無理ですよ」
僕は宗教団体の子息でも無ければ親衛隊もいない。普通に考えて、勝てるわけがない。僕は水を張ったバケツの上で、雑巾を力一杯絞る。そんな僕に向かって宮浦先生は、手を合わせている。
「頼むよ! あの願望会の星木さんがトップの生徒会なんか、俺じゃ手に負えないって。この学校の生徒会顧問を俺がやり遂げるためには、虎丸の力が必要なんだよ!」
とは言え、僕が勝てるわけがないことに変わりはない。それに選挙で僕が負けてしまえば、宮浦先生にはどうしようもないし、引き下がるしかないだろう。そう考えた僕は、宮浦先生の頼みをまた、安請け合いすることにした。
「…………わかりました。考えておきます」
「ホントか?! ありがとう虎丸! 先生も、全力で協力するからな! 必要になったらいつでも呼んでくれ! あ、バケツの水、換えてくるよ!」
テンションが上がった宮浦先生は、バケツを掴んで勢いよく廊下に出ようとしたところで誰かとぶつかり、盛大に水をぶちまけた。
「せ、先生、大丈夫ですか?」
雑巾を置いて近づくと、宮浦先生は青ざめた顔で固まっていた。
「ほ、ほ、星木さん、ごめ、ごめんなさい……」
その視線の先、バケツに入っていたまあまあ汚れた水を頭から被って尻もちをついていたのは、噂をすれば、噂の生徒会長立候補者星木ミウだった。
「いえ、こちらこそすみません。私が立ち聞きしていたせいですから……」
「いや、その、着替え、着替え取ってきます!」
宮浦先生は床の水で滑ってこけそうになりながらも、一目散に教室を飛び出して行った。
「…………」
「…………」
彼女は落ち着き払った様子で立ち上がると、残されていたもう一つのバケツの上で濡れたスカートを絞った。右目の眼帯は、小さい頃に参加させられた願望会の儀式か何かでケガをした、という噂を聞いたことがある。
「……これ、使います?」
僕はまだ使っていなかった新品の雑巾を差し出した。彼女は一枚受け取ると、それで顔を拭いて近くの机の上に置いた。
「……ありがとう」
「……顔位洗ってきますか? ここ四階だし、人も滅多に来ませんし」
前からこの空き教室は、よく宮浦先生と雑談する時に使っていた。人が滅多に来ないので、いわゆる秘密の隠れ家にはぴったりだったからだ。すると彼女は近くにあったパイプ椅子に座ってから、靴下を脱ぎ捨てた。
「……人が来るとまずいの?」
「え、いや、その格好、あんまり人に見られない方が良いと思いますけど……」
「…………」
「…………」
「……それって私が願望会の、娘だから?」
「……」
「……違うの?」
僕はそんなこと一言も言っていないのだが、彼女はまるで聞き飽きたかのように吐き捨てる。願望会の娘。今の一言でわかった。彼女は自分が願望会教祖の一人娘であることにあまり、良い感情を抱いていないようだ。
「……いや、確か生徒会長立候補者の、ミウさんですよね?」
「生徒会長立候補者って…………コハク君もそうでしょ?」
どうやら、さっきの話を聞かれていたらしい。
「それは……その、予定ですけど」
「…………」
彼女は黙ったまま、制服のネクタイを外して机の上に投げると、代わりに雑巾を手に取って僕に背を向けた。
「……あ、僕、廊下に出ときますね」
「……何で敬語なの?」
「敬語……?」
「……やっぱり私が願望会の」
「いや、初対面……ですよね?」
「…………え?」
彼女の手から力が抜け、その手を離れた雑巾はそのまま、運悪く真下にあったバケツの中に吸い込まれた。新品の雑巾が、ゆっくりとバケツの中に沈んでいく。
「いや………え?」
まさか、初対面じゃなかった? いや、だとしたら僕が覚えていないわけがない。彼女は転校生で、僕は存在感の無い一クラスメイト。転校生だけが覚えていて一クラスメイトの方が忘れているなんてこと、あるのか?
「…………」
「……あ、もう一枚ありますよ、新品のやつ」
「あ、ありがとう。でも、それより私達、クラスメイトじゃないの?」
「え、はい、そうですけど……?」
彼女の言いたいことがよくわからないまま、僕は最後の一枚を手渡す。ゆっくり近づいてきた彼女は腑に落ちない様子で、僕を見つめている。
「………よく話していたから、話したことくらいあると思った」
「はあ、そう、なんですか……?」
「……」
やっぱり言っていることがよくわからない。僕が彼女と話したことは、多分一度も無いはずだ。
「いやでも僕からしたら、ミウさんなんて高嶺の花みたいな感じ、でしたし」
「…………それは、私が願望会の」
「……でも、僕も生徒会長に立候補するし、別に良いのか?」
僕は咄嗟に、彼女の言葉を遮った。
「…………」
「…………」
目を丸くしたまま僕の方を見ていた彼女は、何かに納得したのか軽くため息をついた。
「……うん。良いんじゃないかな」
「…………」
「…………」
彼女は黙ったまま、制服のボタンを外しながら僕に背を向けた。
「……流石に、廊下に出とくんで」
「宮浦先生が戻ってきたら教えて」
「ああ、うん……」
「……宮浦先生とは、仲が良いの?」
「え、まあ……?」
「宮浦先生の家とか知ってる?」
「家……? いや、流石に家までは、知らないけど……」
僕は廊下に出ようとしているのだが、会話も彼女の手も止まらない。しかし宮浦先生なんかの家の場所を知って、一体どうするつもりなのだろうか。
「じゃあ宮浦先生が、食事してるところ見たことある?」
「しょ、食事?」
「お昼とか、一緒に食べたりしない?」
「いや、それは無いな……」
僕はお昼もこの空き教室で食べているのだが、お昼時に宮浦先生に会うことはほぼ無い。会ったとしてももう食べ終わっていたり持ってくるのを忘れていたりで、確かに宮浦先生が食事をしているところを見たことは無い。でも、だから何なんだ?
「じゃあ……」
「あ、でもそういえば休みの日に一回、家の近所でなら会ったことあるかも」
「それ、どこで……!」
「え」
「あ」
振り向いた拍子に、彼女は残されていたもう一つのバケツに躓いた。そしてそのステンレス製のバケツの倒れる耳障りな音と共に、彼女は盛大にすっ転んだ。
「…………」
「…………」
「……あー、ごめん、言いづらいんだけど、もう新品の雑巾、無い」
すると彼女は諦めたように両手を挙げて、びしょびしょの床にそのまま寝転がった。
「最悪…………」
「…………」
「……それで、宮浦先生をどこで見たの?」
彼女は寝転がったまま、気怠そうに僕を見上げる。
「え、ああ。近所のコンビニだよ。バイト中に見かけて」
「コンビニ……え、うちの学校バイト禁止じゃなかった?」
やべ。
「……宮浦先生は、見逃してくれたよ?」
「…………」
「自分も昔、よくやったからって」
「……昔?」
「うん」
「………………ふーん、昔、ねえ」
流石に今はやってないだろう。教員にそんな暇無いだろうし。
「みーぽーん、新しい服持ってきたよー」
丁度良いところで戻ってきたのは、宮浦先生ではなく生徒二人だった。みーぽんというのは、星木ミウのミとほを取った彼女のあだ名みたいなものだろう。すると片方の生徒が、僕の方を見ながらわざとらしく口を押えた。
「……ショコちゃんショコちゃん、もしかして私達、お邪魔しちゃった感じでは?」
「え、いや、お邪魔って……」
「だって、ハックがみーぽんのこと押し倒したんでしょ?」
「違うよ!」
ハックというのは、コハクのハクを取った僕のあだ名みたいなものだろう。
「じゃあ、ハックがみーぽんのこと脱がせたんでしょ?」
「違うよ!」
するとショコちゃんと呼ばれた方の生徒が、持ってきたタオルでみーぽんさんの髪を拭きながらこっちを睨んだ。
「ちょっと二人ともー、遊んでないでみーぽんの着替え手伝ってよ」
「もー、これくらい一人でできるってば……」
口ではそう言いながらも、みーぽんさんは椅子に座ったまま、なすがままにしているように見える。ショコちゃんさんはそのまま、みーぽんさんの髪を慣れた手つきで結んでいく。
「みーぽん、何でも一人でやるのは良くないんだよ?」
「うーん……」
「ナコちゃん、そこのカーテン閉めてー」
「いえっさー」
ナコちゃんと呼ばれた生徒が、空き教室のカーテンを閉めて回り始めた。
「えっと、あの、僕は何をすれば…………?」
「え、あ、えっと、ハックは……」
「…………」
「…………」
「……早く、廊下に出る!」
我に返ったショコちゃんさんとみーぽんさんが、冷ややかな視線を僕に向けた。
「あ、はい!」
「それから、他の男子が来ないように見張っててよ!」
「あ、はい!」
僕はそそくさと廊下に出た。その後ミウさんが着替えを終えてから、僕は三人に先に帰ってもらうことにして掃除を再開した。後片付けを手伝ってもらわなかったのは、一人でやる方が気を遣わずに済むので楽な気がしたからだ。
「じゃあまあ、お互い頑張ろうね」
「……そうだね」
最後に社交辞令を交わしてから、ミウさんと生徒二人は帰っていった。宮浦先生も結局その日は、教頭先生に呼ばれたとかで戻ってくることは無かった。職員室へ行く前に、偶然教室に残っていた生徒二人にミウさんの着替えとタオルを託したらしい。しかしこうなってしまうと、もう正直引き下がれないところまで来てしまった気がする。とは言えいずれにせよ、僕が勝てるわけがないことに変わりはない。僕が選挙で負けてしまえば宮浦先生にはどうしようもないし、ミウさんに恨まれるようなことも無いだろう。そう思って軽い気持ちで引き受けた次の日、まさかの三人目の立候補者が現れていた。
「……また、先生がそそのかしたんですか?」
「うん。半分諦めかけてたんだけど、何か急に立候補してくれることになったんだよ」
七月二日、放課後。新生徒会室予定地、現よくわからない物置部屋にて。昨日に引き続き教室の掃除をしていたところ、宮浦先生から予想外の名前が告げられた。壊れて首の回らない扇風機が、また耳障りな音を立て始めた。今日も窓の外には、いつも通り雄大な入道雲がそびえ立っている。
「でも、あの人こそ先生の手に負えるんですか?」
久野フミカ。一年生の時からその圧倒的なカリスマ性でこの学校を牛耳ってきたマドンナ的存在。男女共に人気があり、文武両道なため先生達にも人気がある、僕の幼馴染である。改めて考えてみると、生徒会長に立候補していなかったのが不思議なくらいの凄い人だ。
「無理。あの迫力、話しかけるのすら緊張したもん」
久野はこの学校の近くにある、久野神社の長女でもある。そのため年末年始には、神社で彼女の巫女服姿を一目見ようと長い行列ができるとか。勿論わざわざ年末年始に出かける程の行動力は、僕には無い。
「じゃあ何で誘ったんですか」
「立候補者が増えれば増える程、票が分散すると思って。俺の本命は勿論、虎丸一人だよ。頼んだよ、虎丸!」
「えぇ…………?」
「それに星木さんと久野さんに共通するあの噂、虎丸も知ってるでしょ?」
「…………まあ、はい」
「そう。あの二人、悪魔が憑いてるらしいんだよ」
「……」
「……」
僕も都市伝説は好きだが、ここまで特定された個人的なものには、正直ちょっと興味が薄れてしまう。
「……まああの二人は、敵も味方も多いでしょうから」
根も葉もない、ただの嫉妬から生まれたであろう噂話。僕が好きなのはそういうのじゃなくて、神とか宇宙人とか人類滅亡とか、人智を超えた壮大な都市伝説だ。人を陥れようとするような黒い噂は、人間味があり過ぎて僕の好みじゃない。当の本人は、気にすらしていないのかもしれないが。
「ねえコハク、何で生徒会長なんか立候補したの」
七月二日、夜の十時前、校則違反のバイト中。僕はバイト先のコンビニで、同じく校則違反を現在進行中の生徒会長立候補者、久野本人にこう質問された。
「……そっちこそ」
「私? コハクが立候補したって聞いたから、何となく」
こういうことをさらっと言うのが、久野である。こっちの気も、知らないで。
「……それ、答えになってないよ」
「だってコハク、私の質問にも答えてくれてないじゃん」
客がいないため、久野はいつも通りスマホをいじりながら会話を続ける。
「…………」
「ユキが、生徒会長になったから?」
久野がスマホを見つめたまま尋ねる。
「……あっちの学校はもう、選挙終わった頃か」
柏櫓ユキ。中学の時までは同じ学校に通っていた、もう一人の幼馴染。弟のジンと、久野と僕の四人でかつてはよくつるんでいた。もう随分長い間、連絡は取っていない。だからユキさんは関係ない。そもそもユキさんは、小学生の頃から児童会活動に精を出していた。今更、僕が真似する理由は無い。
「ホントに、連絡取ってないの?」
僕もユキさんも、自分から進んで連絡を取ろうとするようなキャラじゃない。ユキさんの方は、ただ単に忙しいだけなのかもしれないが。
「……ユキさんは関係ない。どうせ、僕が勝つことは無いし。だからよく言うあの、何事も経験ってやつだよ」
「んー…………、それも、答えになってない気がするけど」
「…………あ、いらっしゃいませー!」
丁度良いところで客が来たようで、背後の自動ドアが開いた。その後そこそこ忙しくなってしまったため、これ以上久野と話すことは無かった。そして僕はこの時点で、何となく察してもいた。この選挙、多分久野が勝つのだろう。久野には一年分のアドバンテージと他学年への影響力がある。一方ミウさんの支持層は、そうは言ってもまだ二年生がメインだ。全学年の生徒に選挙権が与えられる以上、久野の勝利は確実のはず。そして結果は僕の読み通り、久野が生徒会長に当選した。ただ、僕が想定していなかったことが一つ、選挙の当日に宮浦先生から告げられた。
「僕とミウさんが、副会長?」
「うん。実は今年からそうなったらしいんだよ。だから会長は久野さんになっちゃったけど、これからは同じ生徒会関係者として、一緒にがんばっていこうな! 虎丸!」
ここで僕が副会長を辞退したら、生徒会顧問の宮浦先生がかわいそう、という一時の気の迷い、悪魔の囁きに耳を傾けてしまった僕は、副会長になることを承諾してしまった。
「はい、がんばります…………」
そして無事掃除も終わった新生徒会室の前、後悔に苛まれている今に至る。この扉の先には生徒会総選挙の勝者久野と、生徒会総選挙の敗者ミウさんがいる。どう考えたって、気まずいに決まっている。
「はぁ…………」
意を決して生徒会室の扉を開けると、久野が机に座ってスマホをいじっていた。
「あ、コハクじゃん。今日はおつかれー。これからよろしく」
演説の時に着ていた巫女服はもう着替え終えていたようで、だるそうに手で顔を仰いでいる。
「あ、よろしく……」
「コハク君、さっきの良い演説だったよ」
ミウさんの方は、パイプ椅子に座って読んでいた文庫本に押し花のしおりを挟むと、一瞬だけこちらを見て目を細めた。
「ど、どうも……」
「これから副会長同士、仲良くしてね」
そしてすぐに視線を落とし、また本の続きを読み始めた。
「うん、よろしく…………」
「…………」
「…………」
「…………」
その後宮浦先生が大分遅れて生徒会室にやってくるまで、僕達三人は言葉を交わすことは無かった。この先が大変思いやられる。僕は精神的に疲労困憊のまま、ようやく帰路に就いた。七月七日、七時前。今年も夜空は雲に覆われていて、天の川は見えなかった。