私のヒーロー
「それ以上近づいたら、お前の愛しい婚約者は2度と笑えなくなるぞ」
男爵が低い声で吐き捨てる。
ヒヤリと冷たい感触。私の首にはナイフが押しあてられていた。
男爵は私の髪を掴む手にさらに力を込める。無遠慮に引っ張られて痛い……!
というか男爵!焦って緊張しているのは分かるけどギリギリと力を込めた手がちょっと震えてるから!お願いだからせめて脅すなら脅すだけにしてよ!?今にもナイフ刺さっちゃいそうだから!
と、思わず内心で現実逃避してしまう程私は恐怖を感じ、男爵はうろたえていた。男爵自身もうっかり刺してしまってはまずいと感じたのか、ほんの少しだけナイフが私の首から距離をとった。刃先の冷たさが僅かに遠のく。
アルフ様は、そのわずかな隙を見逃さなかった。
「――うっ……!」
「えっ……?」
一瞬で髪を引っ張られていた痛みが消える。体が自由になったものの、足を縛られたままでバランスが取れずにその場に倒れ込みそうになる。
次の瞬間には温かい腕に支えられていた。
な、なに?なにがどうなったの……?
見ると、さっきまで私が寝かされていた土の上に男爵は伸びている。
側には手で握りこめるくらいのサイズの石が転がっていた。
――まさか、これで……?
目を凝らすと、男爵のおでこが赤く変色し、傷が出来ていた。思わず目を瞬く。
アルフ様……投擲まで完璧なのね……?
「ルーシー嬢……!遅くなってすみません……!痛かったでしょう!?」
アルフ様は手足を縛っていたロープをほどいてくれながら、慌てて私の様子を見る。
「良かった!怪我はなさそうですね……本当に良かった……!」
そしてまだ少し呆けたままの私を強く強く抱きしめた。
さっきまで現実逃避する気力さえあったのに、その腕に包まれた瞬間、なんだか一気に気が抜けてしまった。
「アルフ様……迷惑かけてごめんなさい」
「あなたを迎えに来ることが迷惑なわけがない!ルーシー嬢、よく頑張りましたね。もう大丈夫です」
そうしてまるで子供をあやすみたいに背中をずっとポンポンとしてくれるものだから。堪えきれなくて……そのまま泣いてしまった。
「もう大丈夫です……あなたを脅かすものから、いつでも俺が守ります」
アルフ様は、いつもそう。
何かある度にこうして「大丈夫」と繰り返してくれる。そして本当にいつだって守ってくれるものだから、その大丈夫はまるで魔法の言葉の様に私を安心させてくれる。アルフ様がいればもう大丈夫だって、そう思えるの……。
ほんの数分だっただろうか。アルフ様は落ち着くまでじっとそうしていてくれた。
「もう大丈夫です。アルフ様、ありがとう……」
「いえ、あなたが大丈夫ならそれで充分です!――それにしても、この匂い……」
アルフ様が私を抱きしめたまま部屋を見渡す。そのまま顔を顰めて呟いた。
「毒を持った、ミスリの薔薇の匂いのようです」
そうだ、ここでミスリの薔薇が栽培されていること、伝えないと……!
「これがミスリの薔薇……?ルーシー嬢が育てている物と全く違う……この匂い、覚えがあります。父が飲んでいた薬草茶と同じ匂いだ……」
ミスリの薔薇のこの匂いは本当に特徴的だ。多分お父様や私の手に渡ったお茶、バルフォア侯爵様が飲んでいた薬草茶、王妃様のポプリ……全て他のものと混ぜられていたから、全く同じではなかったんだろう。それでもこの匂いは間違えようがない。
「とにかく、早くここから出ましょう」
アルフ様に支えられたまま、私はミスリの薔薇が匂い立つその部屋を後にした。
*******
「ルーシーちゃん……!」
「ルーシー!!」
「姉さん!」
レイスター家の屋敷に帰ると、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたお母様と、一気に顔がげっそりとなったお父様、まるで子供の頃に戻ったみたいに縋りついてくるマーカスに迎えられた。
私も恥ずかしながらすっかり泣きつかれてしまっていて、さらに極度の緊張状態にさらされていたこともあり屋敷に戻ってすぐに熱を出した。そのままベッドに沈むことに……。
殿下はやはり、男爵に見張りをつけていて、私が攫われたのもすぐに気づいていたらしい。驚くことに、閉じ込められていたあの部屋は男爵家の屋敷の一室だったのだとか。
自分の屋敷内であれだけのミスリの薔薇を育てているなんて……確かに他の場所よりも偶然見つかってしまう可能性は低いかもしれないけれど、もしも見つかったときには言い逃れが出来ないのに。これも、男爵をそそのかして薔薇を育てさせた人物にいいように言われた結果なのではないか?と思う。
男爵家に私が連れていかれたこともすぐに分かったらしいけれど、やはりそこは王族。すぐには動けなかったみたい。まあそれは当然だと思う。それよりきっとアルフ様が1人で乗り込んでしまうことはさすがの殿下にも想定外だったんじゃないかな?アルフ様は大丈夫かな?怒られていないかな……。
そんなことを考えながら、疲れ果てた私は深い眠りに落ちていった……。
「にゃあ~ん……」
足元に丸まったミミリンが、すごく温かい。
――――――――――
「アルフレッド君……本当にありがとう」
「いえ、ルーシー嬢が無事で本当に良かった……」
ユリアがルーシーが無事眠りについたことを伝えるまで、アルフレッドはレイスター家に留まっていた。
ルーシーのことが何よりも優先なので、ブルーミス男爵やミリアのことは全てジャックに任せ、今は関与していない。
ただし、アルフレッドは怒っていた。
ルーシーが眠ったことを聞き、ひとまず屋敷を後にする。
自分にはどうしようもないが、それでも話くらいせねば収まらない。
ルーシーが起きる頃には戻ってこようと思いながら、アルフレッドは足早に進んだ。




