花瓶の首
なめらかな肌が好きだった。
そう言えば、女はうっとりとした顔をする。
何も知らない癖に、しなだれかかり、愛の言葉の一つも囁いて見せる。
真っ白な肌は白粉の毒でやがて朽ちる。
真っ赤な唇は紅の酸でやがて溶ける。
黒色と茶色で濁った瞳は狂った現実にやがて割れる。
なめらかな肌が好きだった。
俺は沈み込みそうになる指先を押しとどめる様にして、女の首を折る。
一瞬の痛みすらないように、と願いながら、その首を裂く。
―――――――
目を覚ます。
夢は現実よりもよっぽど明確だった。瞬きを幾度か繰り返す間に、その残滓も朝露のように消えてしまう。
身体が妙に固い。周囲を見回す。見慣れた景色。声が掛けられる。まだ年端もいかない少女の声である。
「因果な商売ですね」
丁稚――と呼ばれる娘が、つまらないことを言う。廓の中で買われた娘であるが、禿になれない醜い容貌だった。
皆、小間使いにする。たまには憤懣をぶつける相手にもなる。丁稚は丁稚らしく、ただ、しおらしく受け入れている。
ただ、時折、身震いする程、怖い笑みを浮かべることもある。こんな風につまらないことを言う時もそうだった。
「商売」
掃き溜めのような町と言うのは陳腐な表現だ。春をひさぐ女たちの町に相応しいとも思えない。ただ、それでも、この町を通り過ぎる男の中には、一定数、そんな分かったようなことを言うものもいる。
木の囲いの中から伸ばされた手を無造作に跳ねのけて、踏みつけて、それで眉一つ動かさない人間には、確かにここはそうなのかもしれない――俺は、そんな掃き溜めの中でも隅の隅に放置された空き家の窓枠に背中を預けている。いつ崩れるかもしれない家の壁が、みしりみしりと音を立てるのも構わずに。
商売、と口の中でまた転がすように繰り返す。丁稚を見ると、怖い笑みは消えていた。いつものような、事務的な無表情が、見つめ返している。
「血の匂いがします」
そうか。と、俺は応えた。廃屋の中で朽ちかけようとする小引き出しを引っ張る。封筒が何通か入っているそこに、丁稚が封筒を重ねるように置く。
「報酬が減っている」
丁稚の頭に吐きかける様に言葉を告げる。丁稚はしばし黙していたが、顔を上げて、また、怖い笑みを浮かべた。
「まさか」
「お前か?」
尋ねると、丁稚は頭を振った。そうか、と答えると、彼女は、また元の無表情に戻った。
「何で旦那さんは、夜鷹を殺しはるんです?」
「目障りなんだろう」
「目障り」
「商売の邪魔と言う事だ」
目障り。邪魔――丁稚は幾度か繰り返す。
「本当に邪魔なんですか」
「奴らを抱くような男は、お前の店には行けない」
「それなら、邪魔なんかには」
「お前の店に行けないような男は、あの男にとっては邪魔だ」
俺は、『奴ら』のことを思い出す。
夜の闇の中でしか抱かれることはない女のことを、思い出す。
「あんたは?」
丁稚はこちらを見つめた。
そこから、何かを言おうとする。
けれども、言葉が浮かんでこないのだろう。
ただ、『分かれ。応えろ』と言わんばかりに、見つめるばかりだった。
「生きる為には金が要る」
俺は応えた。
俺自身にもおぼつかないような、頼りない答えを、返した。
―――――――――――
夜鷹を殺してくれ、と笑顔以外の表情を忘れたような男に頼まれた。
頼まれた、と言うには、状況は異常だったかもしれない。
俺は、亡八と呼ばれている女衒たちになぶり殺しにされかかっているところだった。
何故だったか。
確か、女を救いに来たのだ。
なじみの女を救う為に女郎屋から連れ出した。
持ち出した金をくれてやった。
女は逃げ、俺は捕まった。
そして、なますのように体を斬り裂かれながら、怨嗟の声をあげていた。
助けてくれ、と言ったろうか。記憶にない。
殺してやる、と言った記憶があるが、誰に向けたものだか忘れた。
逃げた女の背中を思い出す。
振り向きもしなかった。俺が捕まっても、振り向きもしなかった。
―――――――――――
「良くやってくれてる。助かってるよ」
たまに、旦那の顔を見に行く。廓の中に招き入れる男はいつも笑顔だった。気分の良くなるような明るいものではない。日陰に生えた気持ちの悪い植物のように、どこから出でたものなのか所在不明の笑顔だった。男にだって分かる筈もない。そんな理由の無い笑顔だった。
本当にそう思っているのか、まるで分からない。目の前の男に果たして感情などと言うものがあるのかどうかも定かではない。男は、何か不満はないか? と、尋ねた。俺は頭を振った。
金のことを聞くべきか、と思ったが、やめた。ただ、金のことを聞くためにここまで足を運んだわけだから、他の理由を考えなければならなくなった。丁稚のつまらない顔が浮かぶ。くすねた金をどうしているのかは知らない。涙ぐましい理由があるのだろうが、そんなものは知ったことではない。
ただ、ふと、疑問が浮かんだ。
「何故、夜鷹を殺す」
「殺さない理由があるかね?」
つまりは、そういうことだった。
「ないな」
応えた俺は、酷くつまらないやりとりをしているように思えた。くだらないことを聞いた。
――――――――――――
鼻の欠けた女が夜の町に追い出された、と聞いた。
よくある話だった。誰に聞いたわけでもない。窓枠に靠れていると聞こえることがある。
日中の俺は寝ている。そんな俺のことなど、気に掛けるものはいない。
時々、金を持って丁稚がやって来る。
奴はたまに俺に言う。
「どうして、働かないんです?」
「伝手が無いのさ」
「そんなん言い訳です」
「では、そうなんだろう」
我儘です。丁稚は言う。
俺は、昔は腕の良い料理人だったんだ、と言い返そうか。
いや、何の意味があるだろう?
俺は小引き出しを眺める。丁稚が身を固める。視線を逸らす。また、俺は目を閉じる。
「死なない為に言い訳をしている。そういう生き方しか出来ない人間もいる」
そんな言葉が浮かんだ。唇を通り過ぎた。丁稚の足音が、遠ざかって行った。
―――――――――
俺が逃がした女が死んだ。
誰に聞いたか。
女に聞いた。
夜鷹に聞いた。
金を使い果たした女は、戻って来た。
戻って来て、また働かせてほしいと哀願した。
そうかい。と、旦那は笑顔で応えた。
丁稚は顔を腫らしていた。
酷く強く殴られたらしいのだが、そのことにはまるで触れなかった。
「私をいじめぬいた人が死にました」
「そうか」
「私が殺しました」
「そうか」
「何故、殺すんです?」
丁稚は、あの怖い笑いを忘れたようだった。
酷く怯えていて、泣きだしそうな程に顔を歪めて、それでいて、涙の一粒もこぼさない。
「何故、人を殺せるんです?」
「人か」
「私は、絶対にいつか、酷い目にあわせてやる、って思ってたんです。強く、心に決めていたんです。いなくなっても、絶対に忘れんでおこうって、決めていたのに…」
「…」
丁稚が顔を抑えて、蹲った。
「殺してやる、って思っていたのに。でも、本当に殺してしまうと…」
「旦那に言われたのか」
「殺しても良いよ、と言われました」
「殺さなくては殺す、と言われたのと同じだな、それは」
丁稚は体を震わせている。体を震わせながら、逃げ出せない感情を抱きかかえるように、そうしている。
―――――――――――――
丁稚が去った後、旦那が訪れた。
何の気まぐれかは知らない。彼はわざわざ、ここまで出張ってくることは無い。
彼は家の外から、やぁ、と声を掛けて来た。
俺は微睡みから今醒めた、と言う顔をして、彼に頷いた。
「女を殺した」
あっさりと、男が言った。
「聞いた」
「誰から?」
「夜鷹から」
へえ。そこまで噂が広がっているのかい。
旦那は、へぇへぇ、とそればかりを繰り返す。
「広めているんだろう?」
「まさか。それで私に何の得が?」
「見せしめ」
「見せしめ、ね。なるほどね」
旦那の笑みが一瞬翳った。ただ、それも、瞬きする間に消えるような、些細な変化に過ぎなかった。
これからもこの男はこの顔で生きていくのだろう。
「どうでも良かった、と言ったら君は怒り狂うだろうか」
旦那の声が冷たく響いた。
ただ、不思議なほど心には届かない声だった。この場にいる人間が俺だけだから、と言うわけではない。
誰が聞いても、何の価値もない言葉だった、と思うことだろう。俺もただ、例外ではなかっただけだ。
「どうでも良い」
ただ、俺はその言葉を返す。
俺にとっても、どうでも良かった。
逃げた女のことを思い出そうとする。顔が浮かんだ。すぐに、夜鷹の顔に変わる。
夜闇の中で、ただ、真っ白く、赤く、濁っている。
「そうだな。どうでも、良いことだ」
俺が頷くと、彼は何故か頭を振った。
「丁稚は、君の報酬をくすねていたらしい」
「知らないな」
「知らないことは無いだろうに」
くすくすと、彼は笑った。
「親に渡していたらしい。親は店の金を盗んだのではないか、と私に尋ねて来た。子の心親知らず。いや、親の心子知らずでいいのかな。この場合も」
「…」
「店の金は盗まれていない。そもそも、あの子にそんなことは任せない。となると、君の金だな」
「名推理だな。だが、どうでも良い」
「罰は君に任せよう。指か、手か」
「人を殺させた罪は、誰が払う?」
俺は旦那、と呼ばれる男に視線を向けた。
無自覚に、俺は、この男から目を背けていたのだ。
男は笑っている。ただ、笑っているだけだった。
「今更。今更」
「指も手も要らん。女を殺させた。十分だろう」
「あれは、あれが、好きでやったことだ」
「…」
そうかもしれない、とふと、思った。
泣くこともなく震えていたあの少女の目を、俺は見なかった。
見ることが出来なかった。
「まぁ、分かったよ。これからも、金は彼女に送らせる」
「まだ、殺させるのか」
「女はまだまだ入って来る。これからも、出て行くことになる」
俺はもう、男の顔を見るのがつまらなくなった。
「そうか」
俺はそれだけ応えて、目を閉じた。
しばらくは声が続いていたようだが、目覚めた頃には、もう、誰も居なくなっていた。