幸せの一幕 前編
言ノ葉の体温と布団の温もりに包まれていたはずの雪は突然の寒さに耐えきれず目を開いた。
「ここ、どこ」
目の前に広がる景色は見慣れた我が家ではなく、照り輝く太陽以外はこの世のものとは思えない異質な世界だった。
土ではなく石のようなものでできた硬い道、なんの素材でできているのかすらわからない城よりはるかに高い建物。
道行く人は皆、驚くほど背が高いうえ妙な髪形をしているし、馬より速いおかしな形をしたものたちが走っている。
知らぬ間に巷で噂の外つ国にでも来てしまったのだろうか。
そう思った雪だったが、直前までの状況を思いだし「ああ、これは夢か」と納得した。
夜がいきなり昼になったことも、初めから立っていたことも、見たことのない景色も、誰も彼もが洋装をしていることも、他人に興味がないと言わんばかりの冷たい空気も、全部夢ならうなずけるのだ。
夢と気づける夢があるのか雪にはわからなかったが、きっとこれは神様からの贈り物なのだと気にしないことにした。
しかし、一体何をすれば良いのだろうか。
夢の中といってもやりたい事があるわけでもないし、見知らぬ土地で一人というのはなんとも心細い。
せめて言ノ葉が居てくれたら……
そう思ったところで解決するはずもなく、雪はとりあえず人波に合わせて歩き出した。
しばらく歩いていると草木が計算されたように広がる開けた場所にたどり着いた。
見上げてもてっぺんが見えないくらい高い赤色の塔に戦慄しながらも縁台のようなものに腰かける。
背中を預けられる壁があることに感心しつつもピンと背筋を伸ばして座る。
普段からもたれるということをしないため必要が無いのだ。
にしても、この夢に入ってからどれほどの時間が経ったのだろうか。
雪が空を見上げればいつの間にか日は西に落ちかけていた。
赤い夕日が雪の影を伸ばす。
いつまでこうしていればいいのだろうか。
ただボーっと縁台に座っている雪はだんだんと他人の視線が痛くなってきた。
雪からしたら当たり前の着物も、洋装が主流らしいこの世界では浮いているし、長い時間同じ場所に滞在していれば嫌でも目に止まる。
それにしても人が多いなと雪はあたりを見回した。
男女二人組が多いのは決して気の所為ではないだろう。
あまり人目がつかない場所に移動した方が良いのだろうか、と思った時、雪の足に何かが触れた。
「んにゃ?」
どこだここ?と、周囲を見回した黒猫、言ノ葉はこの世界が異様に冷たいことに気づいた。
理由はきっと日陰の中の石の上にいるからだろう。
高すぎる壁に挟まれた冷たい世界は言ノ葉の不安を煽る。
この世界でお前はひとりぼっちだと言われてるように感じるのだ。
明るい場所に出よう。
こんな暗い場所にいるから気が滅入るのだ。
そう思った言ノ葉はトボトボと日なたに向かい歩き出した。
太陽が照り輝く場所で言ノ葉を待っていたのは、多すぎる人間ととんでもない速さで走る妙な形をした箱、そして固く冷たい石のようなものでできた世界だった。
言ノ葉は神の力でも働いてるんではないだろうかと思う不思議な光景に、これは夢だと結論付けた。
深く考えるほど混乱するのだから仕方ない。
そういうものなのだと割り切った方が楽なのだ。
忙しなく歩く人間や、すごい速さで動く物体に踏まれないように気をつけながら道を歩く。
目指すは暖かくて落ち着ける場所。
言ノ葉は猫の本能にしたがって、ただひたすらに歩いた。
どこをどう歩いてきたのか分からないが、言ノ葉はついに土を見つけた。
わざとらしく広がる緑は元いた場所とも、石だらけの場所ともまた別世界のようだった。
だいぶ日が傾いていてきたため長く伸びた影が地面を埋め尽くしている。
言ノ葉はその中でも最も短い影に向かって歩いていった。
不思議なことに、その影からすごく嗅ぎ慣れた匂いを感じたのだ。
縁台のようなものに繋がるその影はこの世界では珍しい和装をしていた。
雪だ。
そう確信した言ノ葉はその少女の足に頭を擦り付け「雪」と鳴いた。
「言ノ葉?!」
雪は自分の足の違和感に目をやって驚く。
なぜならそこには自分の名前を呼ぶ黒猫、言ノ葉がいたからだ。
同じ夢を見ているのか、はたまた自分の願望が生み出した幻かは雪にも言ノ葉にも分からなかったが、それでも互に出会えたことを喜んだ。
自分の知っている者がいる、自分を知っている者がいる。
この世界で一人じゃないということがわかり、とても嬉しいのだ。
雪は縁台から立ち上がり、そっと言ノ葉を抱き上げる。
冷え切った雪の体と言ノ葉の温もりが混ざり合って、より一層互いの存在を感じさせた。
「どうしよっか」
「せっかくだし色々見て回ろうよ!」
よくわかんないものがたくさんあるし!
言ノ葉が楽しそうにそう言うと、雪は言ノ葉を抱えたまま人並みに逆らって歩き出す。
すでに太陽は西の空にその一部を隠し、東の空には月が顔を出していた。
雪たちが固い地面を歩いていると、赤い布地に白い綿のついた上着と帽子、黒色の袴のようなものを身につけた男が紙を配っているのが目に止まった。
道行く人たちの大半は見向きもせずに通り過ぎていくのに「よろしくお願いします」と紙を差し出す姿はどこか寂しげで、振りまいている笑顔がより一層雪の同情を誘った。
「あの紙もらってこようよ!」
「ちょっ!言ノ葉?!」
そんな雪な思いを知ってか知らずが、言ノ葉はそう言うと器用に雪の腕を抜け、飛び降りた。
固い地面の上にフニフニの肉球を使い華麗にに着地し、そのまま男の方へと駆けていく。
雪も慌てて言ノ葉の後を追うが、可動範囲の狭い着物で飛脚のように走れるはずもなく、追いつく頃には言ノ葉は男の足に頭を擦り付け「にゃあお」と鳴いていた。
「言ノ葉!あっ、うちの猫がすみません!」
「……いえ、大丈夫です!」
ようやく言ノ葉に追いついた雪が男に頭を下げると、男は雪の服装からか、はたまたその愛らしい容姿からかは分からないが、一拍遅れて言葉を返した。
その間も言ノ葉は男の服に毛がつくのを気にせず、足に擦り寄ったり、なんなら前足の爪を男の服に突き刺してもたれかかり、二本足でたって甘えている。
猫好きにはたまらないその仕草に男の顔も心なしかほころんでいるようだった。
「ほんとにすみません!こんなにも汚してしまって……なにかお詫びを、」
「いや、ほんとに大丈夫ですから!」
「いえ、そういうわけにはいきません」
決着がつかなさそうな問答を寒空の下で繰り広げる二人。
何ごとかとちらりと目をやるも足は止めない通行人たちの中で、言ノ葉は大きな欠伸を零した。
結局、金はないが詫びをしたいと一歩も引かなかった雪が押し勝ち、ビラ配りという仕事を手伝うことで決着がついた。