酒場の看板ゴリラ娘は革靴で魔の山に挑む
看板娘という言葉がある。看板のようにその店のことだとひと目で分かる女性というなら、なるほど彼女にそれはふさわしい。まるでひまわり畑と麦わら帽子のように、彼女に看板娘の称号は似合っていた。
「ウホ、ウホホホ」
なにせゴリラである。獣人エルフにドワーフから魔族もござれの冒険者ギルド専属の酒場で、ゴリラが働いている。もうゴリラ風美少女とかゴリラ族だとか生易しいものではない、純度99%混じりっ気のないゴリラである。おおよそ誤差とも言えるだろう1%はどこにあるのかという当然の疑問の答えは、冒険者たちの吐瀉物やこぼしたラム酒の跡が残る床へ視線を移せば答えが出る。
「ようゴリラちゃん、今日もその革靴似合ってるね」
「ウ、ウホホ!」
冒険者の一団がそう茶化せば、彼女は顔を真っ赤にする。唯一給料を頂戴して自活しているという特異点を無視した上で、彼女の1%はその足元にある。彼女に誰とも変わらぬ笑みを向ける、エルフのミザリーからもらった大切なプレゼントなのだ。
「でも何で服じゃなかったんだろう……」
冒険者の誰かがぽつりとこぼすが、彼女は足元を見て微笑んでから、日々の業務に勤しんでいる。たまには時計を眺めて、今日はミザリーいつ来るのだろうと微笑みながら。
「た、大変だ! ミザ、ミザリーが魔の山のブラックドラゴンに捕まったぞ!」
だがその時は来なかった血相を変えてやってきたベテラン冒険者が、酒場の扉を開けるなり叫んだ。ざわつく店内、思わずグラスを握りつぶすゴリラ、ブラックドラゴンだってあんなの俺たちが叶うわけ無いとため息をつく冒険者、胸をたたき続けるゴリラ。
「ウホーーーーーーーーーーーーッ!」
彼女はもう飛び出していた。ミザリーは、彼女の世界のバナナ以外の部分の全てだったから、そうするのは自然の摂理だったのだろう。
「ゴ、ゴリラちゃん!?」
冒険者の声は遠く、風に乗って消えていく。もはや彼女の耳に響くのは、魔の山に落ちる雷鳴の唸り声だけだった。
彼女は駆けた。丸太のような両手で岩を掴み、革で施された足元で土を蹴り、魔の山を進んでいった。つま先に施されたウィングチップの示すが如く、ブラックドラゴンの鎮座する頂上へと駆け上る。キマイラを絞め殺し、大鷲には糞を投げ、目を丸くする普通の冒険者は怒りの咆哮で退け進む。
ただ、前へ前へと。彼女は思い出す、ミザリーが革靴をくれた時の言葉を。
「ねぇゴリラちゃん……この靴を履いてほしかった人はもういないの。もっとあの人と歩きたかったけど、だめね、もう私は生きていくだけで精一杯」
涙は流れない。余計な塩分を垂れ流す余力など彼女には残っていない。それでも進む、彼女のために。
「これ、もらってくれるかしら? ちょっと、いやかなり……小さいけど」
その時、ミザリーは酔っていた。普段は飲まないような強い酒を煽り、日が昇るまで飲んでいた。だが、それは本心だった。
「あの人の代わりに、歩いて」
そう言って酔い潰れた。その言葉を彼女は覚えている。深く胸に刻まれて、今その足を動かした。
両手を使った四足歩行が歩いたかどうかという議論はさておき、ゴリラはブラックドラゴンの待つ頂上へと到着した。
「フハハハ、よく来たな冒険しゃ」
待ち構えていたブラックドラゴンは、低い声で金銭やら財宝やらを要求しようかと思ったけど途中で言葉が詰まった。当然だ、こんなに美しい娘を助けに来るのは金持ちの王子か他人のタンス預金で生計を立てている勇者だとタカをくくっていたからだ。
「ウホ……」
だがゴリラである。純度99.5%のゴリラだ。革靴はもう破け草履のような姿へと変貌していたから、0.5%純度が上がったゴリラだ。言葉が通じているのか、そもそも金を持っているのか、どうしてゴリラがここにいるのか。ありとあらゆる疑問がブラックドラゴンの脳内を駆け巡る。
「だめ、ゴリラちゃん! あなたが叶う相手じゃ……!」
「えっ、知り合いなの!?」
磔にされていたミザリーの言葉に、思わず反応してしまうブラックドラゴン。
「ウホオオオオオオオオオオオオッ! ウオッ、ア”ッ、ア”ーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
叫んだ。声の限り彼女は叫んだ。地鳴りを、雷鳴を、この星が回る音さえかき消し、彼女はただ叫んだ。
そして、破ける。靴がその膨れ上がった中身に耐えきれず、風船のように破裂する。つまり、この魔の山の頂上に。
――純度100%のゴリラが生まれた。
「ゴリラパアアアアアンチ!」
そして殴った。ブラックドラゴンの横っ面を、強靭すぎる筋肉で殴りつけた。タンパク質で作られた発射台を通し、砲丸のような拳が突き抜ける。
「しゃべっ!?」
その先を言えなかった。ゴリラの拳に耐えきれず、顎は砕け脳が揺れ意識は星の彼方へ消えて。
ただ、横たわる。そこにあったオブジェかのように、ただ地面に倒れていた。
「ゴリラちゃん、あなた……」
彼女はゆっくりと枷を外し、ミザリーは今自由になった。流れる涙の理由を、問いただすほど彼女は無粋なゴリラではなかった。
「……新しい靴、作ろうか。今度はもっと、あなたの足によく似合うものを」
ミザリーは一度首を横に振り、彼女に向かって微笑んだ。彼女も微笑みを返し、魔の山をゆっくりと下り始めた。
朝日が登る。言葉は出ない。足りないものはどこにもない。
――これまでも、これからも。
互いを理解するために、笑顔だけで十分だった。