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化外のネコはルーズベルトゲームを楽しむか?





 歯の奥にまで染み渡るような小気味よい音と共に、白い野球ボールは遠く離れた緑色のネット目がけてアーチを描いて飛んでいった。


「ナイスニャ、親分さん」


 二本足で立つブチ猫が、今まさにバットを勢いよくスイングしたネコを持ち上げる。


「はっはっは。今日は調子がいいな。これで三連続ホームランだぜ」

「さすがニャ、見習いたいニャ」


 片手でバットを振り回して喉を鳴らしたのは、ペンキをぶちまけたようなアロハシャツ姿の鯖猫だった。体のサイズが、他のネコとは大違いだ。身長は百八十センチを優に超えている。体格もがっしりとしていて、首や肩の周りにしっかりと筋肉が付いている。サイズを小さくして四足歩行にすれば、町の野良猫たちを蹴散らすボス猫のできあがりだ。


 実際、彼はボス猫である。鬼灯町に暮らす数多くのネコの化外たちが所属している、街角組合の親分だ。そのフルネームは正式に書き表すと、八代目石上いしがみ五葉ごよう縁ノ下ノ守えんのしたのかみ五郎左衛門ごろうざえもん景房かげふさという非常に長ったらしいものだ。化外たちは役職や家柄などを組み合わせた長い名を好む傾向にあるが、その命名の法則は実のところ結構いい加減と言っていい。


 要は、ボス猫の見栄っ張りなところが余すところなくあらわれているのがこの名前である。簡単にカゲフサと言えば通じる。ちなみに、三滝川をまたいだ向こう側の駅前組合の親分は、カゲフサの兄弟分(どちらが兄なのかについては未だに結論が出ていない)である十代目服部はっとり六車むぐるま台所ノ守だいどころのかみ彦兵衛ひこべえ正綱まさつなである。こちらも普段はマサツナと呼ばれている。


 そのボス猫が、どういうわけがここ、鬼灯山に程近い場所にあるバッティングセンターにいた。休日故に周囲には家族サービスの父親や、運動不足を解消するサラリーマンたちで混雑しているが、カゲフサはその中に当然のような顔をして加わっている。外見は人間のように二足歩行をする巨大なネコなのだが、誰もその異様さに気づかない。


「じゃ、次はボクの番ニャ」


 お供のブチ猫が全身でバットにしがみつくようにして握ると、カゲフサをどんどん退かせてバッターボックスに立つ。口では親分と言っているが、所詮はネコである。彼らにとって、いつでも自分が一番大事なのだ。


「さあ、いつでも来いニャ。場外ホームラン確実ニャ! 観客総立ちニャ! 本日のMVPニャ!」


 前口上も勇ましく、ブチ猫はバットを振り回す。その言葉に呼応するかのように、ピッチングマシンから白球が飛んでくる。


「ニャッ!」


 気合いと共にバットを振るブチ猫だが、それはボールにかすりもしない。


「ぐぬぬニャ……も、もう一回ニャ!」


 へこたれずにもう一度、ブチ猫はバットを振る。


「ニャッ!」


 残念ながらツーストライク。


「まだニャ……まだチャンスはあるニャ……ここで挽回ニャ、逆転ニャーッ!」


 しかし、あくまでもブチ猫は諦めない。どう考えても当たりそうにないバッティングフォームなのだが、その闘志だけは一人前だ。


「もらったニャッ!」


 飛んでくる白球に対して、なんとブチ猫はジャンプすると全身でバットごとぶつかった。アグレッシブなバントである。


「ギニャッ!」


 そんな危ない真似をしてうまくいくはずもなく、ボールはバットでなくブチ猫に命中した。悲鳴と共にブチ猫は、ピッチングマシーンとは正反対の方向へゴロゴロと転がっていく。デッドボールではあるが、明らかに自分からぶつかっていった結果だ。


「おいおいハンゾー。何やってるんだ」


 さすがに、それまで腕組みをして見ていたカゲフサが、呆れかえった口調でそう言う。


「い、痛いニャァ…………」


 ヒゲと尻尾をぴくぴくと振るわせつつ、ハンゾーと呼ばれたブチ猫はひっくり返ったまま弱々しい声を上げる。ボールが直撃したにもかかわらず、痛いだけで済んでいるようだ。やはり彼らは、生物の常識が通用しない化外である。


「大丈夫? ハンゾー君」


 そんなネコの干物のような格好になったハンゾーに、声を掛ける人影があった。


「ニャ?」


 ハンゾーが見上げると、こちらを見下ろす女の子と目が合った。言うまでもなく、三枝あかねである。両膝に手を当てて腰を屈め、ハンゾーを心配そうな顔で見ている。


「ニャ! 大丈夫だニャ! このハンゾー、これくらいの逆境なんてなんのそのニャ!」


 それまで地べたに倒れていたくせに、ハンゾーはあかねに声を掛けられるや否や、ぴょんと跳ねて立ち上がった。それを見てあかねは一歩後ろに下がる。視線の低いネコを相手にしていると、とりあえずスカートの中が相手に見えないよう気を遣う。

 といっても、相手はネコだ。そんなに気にする必要はないようにも思える。実際、あかねがなぜ後退したのかまったくハンゾーは分かっていないようだ。


「でも心は折れちゃったニャ。ホームランが打てなくてとっても悲しいニャ。今すぐ慰めるニャ」


 そんな都合のいいことを言いつつ、四つ足になるとハンゾーはあかねの足首に体を擦りつける。


「はいはい、かわいそうかわいそう。ハンゾー君はがんばったのにね~。偉いぞ~」


 あかねはハンゾーの脇に手を入れて抱き上げると、だらーんと垂れた下半身をぶらぶらと揺らす。


「ニャニャニャ、嬉しいニャ。あかねさんはいい人ニャン」


 あっという間にハンゾーはゴロゴロと喉を鳴らして、あかねの手指に頬を擦りつける。上機嫌そのものだ。


「あかね、いつまで下らない漫才やってるんだ。ここは寄席じゃないぞ」


 ぬっと姿を現したノリトが文句を言う。


「下らなくなんかないニャ。あかねさんはかわいそうなボクを慰めてくれたんだニャ。PTSDにならないように優しくしてくれたんだニャ。とっても大事なことだニャン」

「知るか。一生言ってろ」


 ノリトが不機嫌そうに息を吐いた。


 ヘビが威嚇する時に立てる唸り声に、そっくりの音だ。


「ニャッ……!」


 ハンゾーが尾の毛を全部逆立てたその時。


「おいおい、御山の若いの。あんまりうちのモンをびびらせないでくれよ」


 ようやく、カゲフサが助け船を出してきた。


「べ、別に怖くなんかないニャ。ただちょっと尻尾の毛をフッサフサにしたかっただけニャ。それだけニャン」


 あかねの腕からぴょんとハンゾーは飛び降りると、二本足で立ってノリトをにらむ。張り合う気満々である。


「びびらせてなんかいませんよ。誤解です」


 それをわざと無視して、ノリトはカゲフサの言葉を否定する。そのくせ、目の端でしっかりとハンゾーに圧力を掛けている。


「本当にもう、ノリト君も子供なんだから。ごめんなさいね、カゲフサさん」


 一人と一匹の意地の張り合いを見ていたあかねが、最後をそうやって締めくくる。謝られたカゲフサは満足そうな、顔を立ててもらったハンゾーは勝ったような顔をそれぞれしているが、ノリトだけは不満そうだ。「あかねはそいつらの肩を持つのかよ」とでも言いたげだ。


「改めてこんにちは、カゲフサさん。鬼灯町の守役見習い、皆さんとネコさんの心強い味方、そしてハクメン様の『御手付き』三枝あかね、ただいま参上です!」


 ネコたちがよくやる見栄を張ったあいさつに影響を受けたらしく、あかねの自己紹介はやや外連味がブレンドされている。


 しかし、何よりもその「御手付き」発言を受けて、ノリトとカゲフサは同時にのけぞった。


「はあ!? 何言ってるんだあかね!?」

「お、お、お嬢ちゃん!? い、いつの間に……その……玉の輿に?」

「へ? 何? 何のこと? 私何かおかしなこと言った?」


 当のあかねはけろっとしている。


「いや、その、あかね…………」


 いつも仏頂面のノリトの顔が、赤くなったり青くなったりと忙しい。


「つ、つまりその……お、お嬢ちゃんは……ハクメン様のお妾さんってことになるのかい?」

「ちょっと! カゲフサさん!」


 ノリトが食ってかかる勢いでカゲフサの言葉に反論する。


「だってそうだろ? その……何はともあれ、めでたいことじゃねえか」


 やや恐ろしいものを見る目であかねを見るカゲフサだが、あかねにはまったく通じていない。


「お妾さん? なぁにそれ?」


 無邪気な顔で、あかねはノリトに近づく。


「ね? ノリト君?」


 だが、即座にノリトは目を逸らす。


「あ~、その、だ」


 事情がだんだん飲み込めてきたらしく、カゲフサが耳の後ろをボリボリかじりながら口を開く。ネコが後ろ足で耳の後ろをかきむしる動作にそっくりだ。


「お嬢ちゃん、御手付きっていうのは、だ。簡単に言うと、お嬢ちゃんがハクメン様の女房になるって事だぜ」


 もっとも、御手付きとは正確には、主人に手をつけられた召使いなどの女性であり、女房になることとはやや意味合いが異なる。カゲフサは、ソフトな物言いを選んだのだろう。


「ええーっ!?」


 しかし、あかねは文字通り跳び上がって驚く。


「どうして? そんなこと言ってないよ! っていうか、ハクメン様って男の人なの? それとも女の人?」

「いや、だから御手付きってってことはそうなるんだよ、お嬢ちゃん」

「違うんだろ、あかね?」

「違う違う! 当たり前だってば。ハクメン様と結婚なんて無理に決まってるじゃない。サイズが違いすぎて式場なんか予約できないよ」


 あかねの目が泳ぐ。恐らくそのお粗末な脳内には、自分とハクメンの結婚式が強制的に映像化されているのだろう。


 白亜のチャペル。真っ青な空と輝く太陽。飛び立つハトと咲き誇るバラ園。純白のウェディングドレスを着て、手にはピンクのブーケを持ったあかね。列席者として周囲を埋め尽くすネコたち。静香がバージンロードに花をまく。両親は、美しく着飾ったあかねに涙を抑えきれない。バージンロードをしずしずと歩くあかね。


 その先で花嫁を待っているのは、全長三十メートルを超える大蛇である。でかい。でかすぎて祭壇と牧師が端っこに追いやられている。おまけにハクメンの鱗の色は白。あかねのドレスも白。白と白で色がかぶってしまった。隅にいた牧師が改めて二人の間に立つ。あかねが頬を赤く染めつつも、手袋を取って左手を差し出す。しかし……。


「……それにどうしよう。結婚指輪、はめてもらえないよ。ハクメン様にも指がないからはめられないし。首に大きいのをはめたら首輪みたいで怒るよね?」


 あかねの妄想の中でも、手足のないハクメンとの指輪交換は映像化不可能だったようだ。


「知るかよ。未来永劫言ってろ」


 わけの分からない妄想をダイレクトに伝えられ、ノリトが歯がみして唸る。


 しかしその怒ったマムシのような顔が、不意に何かを思いついたのか明るくなる。


「もしかしてお前、『お墨付き』って言おうとしたんじゃないのか?」


 音が似ている言葉を何となく口にしたノリトだったが、どうやら大正解だったらしい。


「あっ! そう! それ! お墨付きって言うつもりだったんだ。ごめんね、間違えちゃった」

「まったく、紛らわしいんだよ」


 御手付きとお墨付きとでは大違いである。しかもよりによって御手付きとは、危険極まりない間違いだ。ノリトがいたからよかったものの、これであかね一人だったらとんでもない誤解を招いていただろう。「ハクメンは人間の小娘を側室に迎えたらしい」などという噂が広がりでもしたら、風評被害以外の何ものでもない。


 とりあえずは、これで誤解は解けた。ほっとしたような顔で、あかねはカゲフサの方を見る。


「それでどうしたんですか、カゲフサさん。またマサツナさんと喧嘩してるとか?」

「まさか。奴とはすっかり仲直りよ。マサムネさんの遺した約定をきちんと守って、二人で鬼灯町をしっかり守るつもりだぜ。それもこれも、全部守役さんのおかげだ」


 カゲフサはマサツナのことを「奴」と親しげに呼ぶ。ほんの少し前まで、正真正銘骨肉の争いを繰り広げていたとはとても思えない。元々この二人は鬼灯町の前ボスである、故三代目小田桐おだぎり一角いっかく屋根裏ノ守やねうらのかみ権之丞ごんのじょう正宗まさむねの子分だったのだが、いつの頃からか仲違いしていた。しかしあかねによる強制的な仲直りを経て、二人の絆は元に戻ったらしい。


「えへへ、そんなことないですよー。でもでも、ありがとうございます」


 カゲフサのお世辞を真に受けて、あかねはヘビの化外にでもなったつもりか、照れて身をくねらせている。


「なら、なぜ俺たちを呼んだんです? 急用だと聞いたんですが」


 あかねの代わりに、ノリトがそう尋ねる。


「まあ待て。待て待て。ま~あ待て」


 急かすノリトを、妙に鷹揚な調子でカゲフサはあしらう。


「おい、ハンゾー」

「ニャ?」


 くるりとカゲフサは二人に背を向けると、ハンゾーに命令する。


「ラスト、ぶちかますぞ。用意しろ」

「ニャッ! 了解ですニャ」


 ハンゾーはカゲフサの命令一下、大急ぎでピッチングマシンの操作パネルのところに走っていく。


「OKニャ!」


 ハンゾーの声を聞いてから、カゲフサはバッターボックスに立つ。なぜかただならぬ雰囲気を感じて、あかねとノリトは無言でその背中を見守っている。


「よぉ~し!」


 悪趣味なアロハシャツの袖を大きくまくり上げ、カゲフサはバットを振り回す。


「あの…………」


 野球選手のように理想的なフォームで振りかぶった瞬間、白球が飛んでくる。


「あのバッカヤロォォォどもがあぁぁぁぁぁっっ!!」


 カゲフサは、凄まじい怒声と共にバットを振った。ボールは見事バットの芯に当たり、弧を描いて飛んでいく。完璧なホームランを打ち終え、カゲフサは二人に向き直る。顔は怒ってはいない。だが内心はどうだろうか。


「んじゃ、話すとするか」


 少なくとも、その言葉の端々からは火花が散っていた。






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