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蛇ノ目は蛇口ほどにものを言う(その2)





 匂宮太夫の脳裏に、一人の少女の姿が思い浮かぶ。生まれた時から五臓六腑が弱く、医者たちから成人するまでは生きられないと揃って言われていた、一人の少女のことを。それは彼女の孫娘であるハグロだ。彼女は不憫な孫を思って嘆いた。八方手を尽くして孫の体を少しでも健康なものにしようとし、一日でも長く生きられるよう心を砕いた。


 わがままに育てたつもりはない。したい放題にさせ、甘やかしたわけではない。ただ、ハグロは廓というキツネのコミュニティの中において、ひどく特異な存在に育っていったのは事実だ。病弱な身を押して、ハグロは自身の好奇心を満たそうとし、そしてそれは「成人するまでは生きられない」という言葉を免罪符にして次々と叶えられていった。


 結果としてできあがったのは、葛葉という廓における上位の家に属しつつ、組織に囚われない自由奔放なキツネの化外だった。何しろ、人間の身分を手に入れて海外留学まで行い、アメリカの大学に在籍していたという異色の学歴の持ち主である。今の彼女は二十代半ば。無事成人を迎えるだけでなく、年齢相応の健康体を手に入れていた。


 かつて病弱だった五臓六腑はどこへやら。思想も行動もアグレッシブなおてんば娘が、いつの間にか完成されていたのである。日本の、それも廓という一つの組織しか知らない他のキツネたちが、グローバルな視点を手に入れたハグロに理論で勝てるはずがない。かくして彼女は、今も廓に囚われずに自由奔放に日本中を巡り歩いている。


「乞われるままに海の向こうの学舎にまで行かせたのですが、帰ってきたら手のつけようのないじゃじゃ馬になっておりまして。廓の掟など古臭いなどと罰当たりな妄言を口にすることさえはばからず、本当にもう、お恥ずかしいことですが廓の枠を外れて好き勝手に生きております」


 彼女の首に縄をつけて固定することは、たとえ実の祖母である匂宮太夫でさえも至難の業だ。年長者として廓の理を説いても、アメリカ仕込みのディベート術でいつの間にか双方共に納得できる着地点に誘導されてしまう。技能や法術で叩き伏せようとしても、やはり海外の化外から学んだ施術や拳法が飛んでくるのだ。文武共に隙がない。


「孫の送ってきた“めーる”とやらによりますと、近々そちらに向かう予定があるなどと書いておったそうで。あのじゃじゃ馬がもしハクメン様に不作法でも働かれましたら、と思いますと私たち一同生きた心地が致しません。なので、重ねて不作法とは思いますが、こうして連絡を取らせていただきました」


 匂宮太夫は言わなかったのだが、ハグロの送ってきたメールにはハクメンに会ってみたいなどと書いてあったのだ。ハグロのことだ。ハクメンを日本最強の大蛇ではなく、動物園で飼育されているアルビノのニシキヘビくらいにしか思っていないのだろう。そんな不敬をハクメンの前で行ったらと思うと、匂宮太夫は想像だけで心臓が止まりそうになる。


 よくてハグロが消滅するだけ。やや悪くてハグロとハグロの身内の首が飛ぶだけ。最悪の場合、大社と廓の全面戦争にも発展しかねない。大社のヘビだけならば、廓のキツネで充分応戦できる。負ける気はしない。しかし、このハクメンとだけは絶対に争ってはいけない。これと戦うと豪語することは、地殻変動に身一つで立ち向かうということだ。


 およそ、勝つイメージが湧かない。力を蓄えれば蓄えるほど、術を尽くせば尽くすほど、ハクメンは常にその上にとぐろを巻くのだ。


「伏して願い奉ります。ハグロが大社にお越しの際には、決してお目通りを許されませんように。どれほど邪険に扱われても当然です。どうか、粗忽者の気の迷いと寛大なお心で思っていただき、門前払いして下さいませ」


 匂宮太夫は、白い大蛇の目の前で再び伏せる。


「なにとぞお願い申し上げます」


 彼女がそう言うと、並ぶ十六人のキツネと、彼女の供のキツネが異口同音にそれを復唱して頭を下げる。


「なにとぞお願い申し上げます」


 それに対する返答はない。ただ、降りしきる雨音だけが境内の空間を埋めていく。


「そこまで言うならば――――」


 ややあって、ハクメンのその言葉に、匂宮太夫は頭を上げた。どうやらこちらの誠意は伝わったようだ。頭を何度も下げるのは好きではないが、これも孫のためだ。苦痛ではない。しかし、次いで発せられたハクメンの言葉に、彼女は耳を疑った。


「むしろ、興味がわいてきたな。会ってみたくなる」

「お、おおお戯れを! いくら葛葉の身内といえど、不敬は不敬です! お止め下さいませ!」

「そうか、匂宮太夫。お前は、私の望みを叶えたくはないと見える。いつから、大社の決定権はキツネに譲渡されたのだ。私は認めてはおらぬぞ、そのようなことは」


 紅い瞳の焦点が匂宮太夫に合わせられた。その瞳と言葉に、彼女の全身の肌が粟立つ。


 知らぬ間に、逆鱗に触れていたのか。まだハクメンの声は優しい。けれどもそれは、一触即発に思えてならない。言葉と視線はとぐろとなって、彼女の周囲を囲い込む。蛇体に全身を締め上げられ、首筋に毒牙を突き立てられるような感覚だ。失儀にむしろ喜び、尊崇に逆に怒るハクメンの気まぐれは、もはや匂宮太夫の理解の範疇を超えていた。


「そもそも、私に対する不敬を恐れるのか、匂宮太夫。ならばそれは杞憂だ。私はとうに不敬に慣れている」


 ハクメンから、そのような言葉を聞くとは思わなかった。いったい、誰がこの大蛇が慣れると言うほどの不敬をはたらき続けることができたのだろうか。オニか、テングか。それとも海外の化外か。匂宮太夫にはまったく想像が付かなかった。


「し、しかし……ハグロは根無し草で、あちこちの町を渡り歩いて暮らしているそうです。もしハクメン様のお膝元にしばらく居を構えるようでしたら、ハクメン様が直々に任命なされたという守役の方々にもご迷惑が及ぶのではないでしょうか?」


 匂宮太夫は切り口を変えることにした。この辺り、孫娘の影響があらわれている。


 ハクメンが気にしなくても、ハクメンが任命した守役に迷惑が及ぶのならば、彼にして彼女も少しは考え直すのではないかと思ったからだ。ハクメンが座す鬼灯山の下に広がる鬼灯町。ネコたちが跋扈するのんきな町と聞いているが、そこの守役はハクメンの肝いりである。これでハクメンも少しは憂慮するのではないか、と思ったその時だった。


「ははははっ! 守役、そうだ守役がいたな。そうそう、そうだった」


 不意に笑い出すハクメンを前に、匂宮大夫は表情を取り繕うことを忘れ、唖然とした内心をそっくりそのまま顔に出してしまった。大笑している。あのハクメンが、心底面白そうに笑っているのだ。げらげらと響くその笑い声は、遠雷によく似ている。それも呪詛を帯びた猛毒の雷鳴だ。


「そうだ匂宮太夫。ひとつ面白い話をしてやろう」


 ひとしきり笑ってから、ハクメンは彼女に話題を振り向ける。


「な、何でしょうか?」

「次代の守役は、私を恐れてはいないようなのだよ」


 その一言に、彼女は驚きを通り越して心臓が止まりかけた。


「そ、それはっ、その、ど、どどどどういう……意味で?」

「そのままの意味だ。分からぬのか。あの若き守役見習いは、私をまったく恐れていないのだ。実に面白いものだな」


 どう相槌を打っていいのか、心底見当がつかない。うっかりこちらも一緒に面白いと言いでもしたら、「そうか。そんなに私が軽く扱われるのが、キツネにとっては愉快なのか」などと返されるのではないかと気が気ではない。


 相手は大蛇だ。竜ではない。だから逆鱗などという分かりやすい弱点の部位が存在しない。その分、澱んだ深淵の如き不可解な心の動きを読み取ることは至難の業だ。


「だから案ずるな、匂宮太夫。私はただ跳ねっ返りであるというだけで、お前の孫娘を頭から丸呑みにはしない。守役も同じだ。多少の不作法程度では、奴にはカエルの面に水でしかない」


 そう断言されてしまっては、これ以上匂宮太夫が交渉できる余地はない。


「それにしても、嬉しそうだったな」


 早々に話題を変え、ハクメンがこちらにそう言ってくる。


「何が、でしょうか?」

「ハグロについて語るお前の口ぶりが、だ。気づかなかったのか?」


 そう言われると、そうだったかもしれない。


 自由奔放な孫娘を自慢しているように見えると、ハクメンのこちらに対する心証が……と思いかけたが、すぐに匂宮太夫は考えを打ち切る。そもそもハクメンは、不敬を何とも思っていないのだ。同族のヘビ以外の化外が一挙一動に心を砕いても、ハクメンにとっては路傍の石同然のものだったらしい。


 ならば、認めるしかない。たしかにハグロはお転婆だ。理解できないところなど山ほどある。とんだトラブルメーカーであり、頭の痛い問題そのものである。しかし、そうであっても、彼女は匂宮太夫にとって最愛の孫娘であり、本来はとっくの昔に鬼籍に入っていたはずの、大事な宝物であるのだ。


「はい。口はばったいことを言うようですが、どんなことがあろうとも、あの子は私のかわいい孫娘です。死んでいたはずなのに、生きている子です。これを愛しく思わないはずがあるでしょうか」


 彼女は顔を上げて、まともにハクメンの紅い目を見つめる。その目が、面白いものを見る時のように歪んだ。


「そうかそうか。ようやくだな。ようやく本音が出たな。はははははっ!」


 再び、愉快そのものといった調子でハクメンは笑う。その響きは、雲一つない快晴の下、緑豊かな山頂に吹く涼風のような爽やかさがあった。まことにこの化外は、息を吐くようにして幸いと災いを周囲にまき散らしていく。それが、この大蛇の生命活動そのものなのだろう。


「そうだ。そうでなければ、わざわざお前と話す時間を設けた意味がないというもの。構わぬ構わぬ。元より鬼灯町は、ネコどもが好き勝手にしている遊び場だ。そこにキツネが一匹加わったところで、余興がわずかに増すだけだ」

「ご温情、心より感謝いたします」


 改めて匂宮太夫は小さく息をつく。肩の荷が下りた気分だ。


「だが、一つだけ言っておく」


 不意に、ハクメンの口調が変わった。爽やかな風に、腐蝕した毒気が突如混じり鼻をつく。


「私を縛ろうとするな。それだけは――――」


 その時匂宮太夫は、確かに感じた。茅の輪の向こう側。鬼灯山にある大社の最奥で、神木の如き巨体が軽く身じろぎしたのを。


「――少々不快だ」


 その一言が、彼女とハクメンの会話の終わりだった。唐突に二人の会話は打ち切られる。ハクメンの言葉と同時に、耳をつんざくような激しい音が境内に響き渡った。それまでヘビの眼孔の役割を果たしていた茅の輪が、凄まじい力で弾け飛ぶと周囲に四散したのだ。


 無惨にも引きちぎられた、ほんの数秒前まで茅の輪だった残骸が、境内にまき散らされて瞬く間に濡れていく。熱も一緒に発生したのか、焦げた匂いがその場にいるキツネたちの鼻に漂ってきた。ただの茅の輪ではない。此方と彼方を結ぶ媒体だ。物理的にも頑丈になるよう、術で強化されている。ほとんど鉄索に近い強度になったというのに、この様だ。


 まるで古びたボロ雑巾のようにして、茅の輪は原形を留めなかった。ハクメンにとってはその長大な胴体を少しよじった程度だろうが、及ぼす影響は破壊的という語では到底収まりきらない。茅の輪を通すという遠隔でありながら、ただ見るだけでこちらの空間をひしゃげさせ、向こうで身じろぎするだけで媒体が断裂してしまう。


 凄まじい破壊力を目の前で見せつけられておたおたする男性のキツネたちを尻目に、匂宮太夫はゆっくりと身を起こした。慌てて供のキツネが傘の位置を直す。彼女のその指は、千切れた茅の輪の破片を弄んでいた。


「……なかなか、力比べというわけにはいかないようだねえ」


 小さく彼女の口が動くと、そんなことを呟く。


 縛る、とハクメンは言った。この暴挙も言える行いは、ハクメンの気まぐれだけではない。もちろんこの惨状は、ハクメンの荒ぶる側面が隠すことなくさらけ出された結果でもある。けれども、そうなったのはこの匂宮太夫の小細工も一因だった。茅の輪にかけられた施術は、此方と彼方との接続が主なもの。


 そしてもう一つ。茅の輪を通るものを束縛するという目的もあった。まさに呪縛と呼ぶのにふさわしい施術だ。ハクメンを完璧に制御できるなどとは考えていない。ただ、やはりある程度のプレッシャーを与えることにより、それとなくキツネたちの力を見せつけたくはあった。交渉の一環として、強気に出るようなものだ。


 やはり、どんなに下手に出ようとも、匂宮太夫はキツネたちを束ねる葛葉という家の者だった。ただでハクメンに頭を下げようとは思わない。同時に、自分たちの力がどれほどかを知らしめたいという望みがあった。そのために彼女が直々に茅の輪に施術したのだが、結果はこれだ。茅の輪は爆薬が仕掛けられたかのように四散している。


 だが、結果としては悪くない。これでもしハクメンの怒りに触れたら、こうなっていたのは匂宮太夫とキツネたちだったかもしれない。もっとも、いくらハクメンが最強の化外の一人であろうとも、キツネの上位者を殺したら廓が黙っていないのだが。それくらいはハクメンも分かっている。ならばこの結果は起こりうるべくして起こったのだ。


「まったく、孫娘があの大蛇を怒らせないかと心配しておきながら、結局いちばん怒らせているのは私じゃないか」


 半ば自嘲気味に彼女は言う。権力闘争のいちばん深いるつぼに、彼女は長くいすぎた。表面上ではハグロがハクメンに無礼を働くのではないかと怯えていながらも、実のところいちばん無礼なのは自分だ。


 けれども、それが分かっていてもなお、彼女はハクメンに術で競おうとしてしまう。それがキツネの誇りでもある。あるいは、自分の力がどこまでハクメンに及ぶかという好奇心か。ならばその心は、確かに孫に受け継がれてしまったのだろう。


「……本当に、血は争えないね」


 匂宮太夫のその言葉は、雨にかき消されて誰にも聞こえなかった。






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