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蛇ノ目は蛇口ほどにものを言う(その1)





 濁流のような豪雨が降っている。本来濁流とは、地面を流れる水のことだ。けれども今、鉛色の空と分厚い雨雲から降ってくる水は、地面に付く前からその破壊的な存在感を主張している。稲光が閃き、周囲を照らし出す。真昼の境内。鬼灯町から県をいくつか隔てた、宇迦御魂うかのみたまを祭る由緒正しい神社の境内だ。正確に言えば、その神社の裏に位置する異界。


 異界とは、〈抜ケ道〉という経路を通じて行き来できる、現世の鏡に映った向こう側の世界だ。鏡の向こう側として例えられる通り、そこの地形や道路、家屋の配置など大まかなところは似通っている。けれどももちろん、異なる点もある。たとえば、建ち並ぶ家屋は大抵、純和風の古めかしいものばかりだ。


 この神社の境内においては、その基本的なところから異なっている。現世においても大きくて立派な社殿は、この異界においては荘厳ささえ感じる巨大な造りを見せていた。もはやここは、神器を安置し神を祭る場所ではない。祭られている神そのものが実体を持って鎮座ましまし、日々を送る宮殿である。


 玉砂利の敷き詰められた境内に二列になって並び、お互いに向かい合う形になっているのは、烏帽子に直垂姿の人間だった。列はそれぞれ八人。計十六人が、激しい雨にもかかわらず無手で立ち尽くしている。その顔は皆一様に、キツネの仮面で覆われている。人ではない。化外、それもキツネの化外だ。


 本殿へと続く石畳の入り口の部分に、あるものが置かれていた。人の背丈を優に超える、チガヤという草を紙で包み束ねた巨大な輪だ。夏越の祓で用いられる、茅の輪に相違ない。普段参詣する人々はこれをくぐって身を祓い清めるのだが、この凄まじい雨の最中、誰一人としてくぐろうとするものはない。


 しゃらん、と鈴の音が聞こえる。暴力的とさえ言える雨音をかいくぐって、それは境内の隅々にまで聞こえた。しゃらん、しゃらん、とそれはどこまでもあでやかに、どこまでもつややかに響き渡る。本殿から、一人の女性が供のキツネを連れて緩やかな足取りで階段を下りてくる。もっとも、ここには人間は誰もいない。皆キツネの化外だ。


 年齢はそろそろ老境を迎える頃だろうか。若さの盛りの頃に比べれば、確かにその容貌は衰えてはいる。しかし、足腰はしっかりとしているし、背筋はまっすぐに伸びている。それにしても、その服装。ハレの場である神社とは別の方向性で、ハレというものを体現している。その故に、ひどくその場にそぐわない衣装だ。


 明らかにそれは、花魁を思わせる出で立ちだ。分厚く何枚にも重ねられた色とりどりの着物。一番上には、赤い手鞠で遊ぶ白いキツネたちが描かれている。複雑な形に結われた髪には、螺鈿細工が施された幾本ものかんざし。そして足は木履を思わせる履き物だ。悠々と進む彼女の隣には、禿かむろの代わりにキツネが一人、大きな傘を広げて付き添っている。


 彼女の足が石畳に触れた瞬間、その場に佇立する十六人のキツネたちに緊張が走った。それまでも雨など意に介する様子もなく立っていたのだが、彼女が同じ目線に立ったのと同時に、彼らは居住まいを正す。それもそのはずだ。徹底的な女系社会であるキツネのコミュニティにおいて、女性であり上位者である彼女は彼らと住む次元が違う。


 ずらりと立つ仮面の化外たちを、並木道に立つ街路樹程度にも気に掛ける様子はなく、キツネの女性はまっすぐに茅の輪へと向かう。その前に立つと、やおら彼女は膝を折った。石畳の上に濁った雨水が流れているのにもかかわらず、当然のようにしてその上にひざまずく。まるで、上得意客を迎える太夫のような動作だ。


 その手が動くと、それまでずっと持っていたものを茅の輪に向けて差し出す。それは、主に神酒などを入れる瓶子と呼ばれる器だ。彼女はそれを傾けると、茅の輪に向けて注いでいく。かすかに供のキツネが身を傾け、彼女の動きに合わせた。強いアルコールの匂いが漂う。無色透明の清酒は、すぐに雨と混じり見分けが付かなくなっていく。


 瓶子を空になるまで茅の輪に注ぎ終えると、再び深々と女性はその前で頭を下げた。そして一言だけ呟く。


「――――真白き御霊に是を捧げ給う」


 その言葉こそが、鍵を開く文言だった。ただその一言。それだけで、世界が押し潰される。顔を上げた女性の目の前で、茅の輪の中の空間がぐにゃりと歪んだ。向こう側の景色が、雨のようにねじれていく。


 圧壊。その一語が境内を覆い尽くしていく。茅の輪の向こう側がどこか別の場所へ、何か別の者へとつながっていく。その現象そのものが問題なのではない。その別の場所が、別の者が問題なのだ。この神域と言っていい異界の社殿など、粗末な掘っ立て小屋にしか思えなくなるような、圧倒的な存在感が茅の輪の向こうから押し寄せてくる。


 例えるならば、小さな金魚鉢に外洋で泳ぐクジラを召喚したようなものだ。到底器が耐えられるはずがない。建物が軋み、玉砂利一個一個が微細に振動していく。それまで不動だった十六人のキツネたちが、恐れからか足元が不安定になったからか、次々と身じろぎして姿勢を崩す。ただ一人、女性だけがじっと茅の輪を見つめたままだ。


 突然、茅の輪の中に変化が起きた。それまでぐにゃぐにゃと超現実主義の画家が描くような光景を見せていたその茅の輪の中が、唐突に真っ暗になった。何一つ見えない、真の闇。だがそれはほんの一瞬で終わる。次いで茅の輪が映し出したその光景に、文字通り降りしきる豪雨そのものが吹き散らされた。雨粒が霧となって霧散していく。


 それは、巨大な深紅の瞳だった。どこまでも赤く、果てしない程に紅く、一点の曇りもない正真正銘の真紅。その眼球に、縦長の瞳孔が刻まれている。どこまでも黒く、徹底的に黒く、あらゆるものを飲み尽くす純黒。対照的な二つの色が織りなすその瞳は、巨大なヘビの眼球だった。茅の輪そのものが、大蛇の眼孔となって彼方と此方とをつなげる。


 一度は散らされた雨が、思い出したかのように再び降り始める。目の主は何かをしたわけではない。ただ、茅の輪を通してこちらを“見た”だけだ。それなのに、その眼力は物理的な影響さえ与える。目視しただけでこれだ。これが目だけではなく、その本体までも現れたのならば、一体どれほどのエネルギーが無造作にまき散らされることだろうか。


「――――久しいな。匂宮太夫におうのみやたゆうよ」


 どこからともなく、声が響く。目の持ち主の声が、空間を震わせて周囲に響き渡る。その声は、空恐ろしいことに完璧なまでに男女の声質が同居していた。男性の力強さと、女性のたおやかさ。女性の優しさと、男性の厳しさ。その二つが一つの声の中に両立されている。究極の両性と呼べる声音だった。


「お久しゅうございます。白面公主様――それとも白面皇子様とお呼びいたしましょうか?」


 匂宮太夫と呼ばれたキツネの女性は、再び深々とお辞儀をして、声の主の名を称号と共に呼ぶ。公主とは皇女のことだ。匂宮太夫もまた、この紅い瞳を持つ大蛇が両性であることを知っている。正確には、性別に意味を見出さなくなった存在だ。


「位を一つ上がり下がりすることに一喜一憂するお前たちキツネに、称号付きで呼ばれたくはないものだな。公主と皇子とでは、公主の方がお前たちにとっては上なのだろう?」


 蛇体が滑らかに這うような声だ。機嫌が良さそうに聞こえるのだが、何かの拍子に豹変しかねない恐ろしさを秘めている。その恐ろしさを、古来人は――祟リ、と呼んだのだろう。


「おっしゃる通りです」

「ならばハクメンとだけ呼ぶがいい。私は私だ。公主であろうと皇子であろうと、私の存在は上がり下がりはせぬ」

「ならば、真にご無礼ながら――ハクメン様、我らの求めに応じて下さり感謝いたします」

「よい。一から十までそちらのやり方で、というのもややつまらぬが、まあ構わん」

「不調法、恥じ入る次第であります」


 キツネたちの組織である〈廓〉では上位に位置する匂宮太夫だが、その彼女が徹底的に下手に出ている。それも無理はない。今彼女がその目のみを召喚して話しているのは、鬼灯山に住まうハクメンである。〈大社〉と呼ばれる日本のヘビの組織のトップに位置する、神として奉られる領域に踏み込みつつある化外だ。


 権力という点においても、実力という点においても、この匂宮太夫でさえハクメンにとっては赤子のようなものである。何しろその目が召喚されただけで、キツネたちにとっての神域であるこの場を揺るがすほどなのだ。特定の人物として考えるよりも、制御不能の荒ぶる自然として考えた方が余程理解しやすい相手である。


 祟リ神という名がこれほどふさわしい化外も、そうはいないことだろう。往古より鬼灯山の地脈に根ざしてきたその存在が、今やどれほど成長したのか匂宮太夫は考えたくもなかった。結束力と行動力の二つの点において、廓はあらゆる化外の中でトップクラスだと思っている。しかし大社という組織は、このハクメンがいる限り不動にして侵しがたい。


「それでどうした。多々ますます弁ずと公言して止まない匂宮太夫ともあろう者が、茶飲み話をするためだけに私の元を訪れたのか?」


 改めてハクメンは、彼女に目的を告げるよう促す。今回の召喚は、形としてはキツネたちがハクメンの御座所に来訪した形をとっている。要するにハクメンという社長の下に、秘書を介さずに直接連絡を取ったようなものだ。


「抹茶は、お口に合いますでしょうか?」


 しかし、そう問われても即座には匂宮太夫は応じない。質問にただ答えるだけでは子供の使いと変わらないし、何よりそれでは面白くない。ただ、ぶしつけに思われないように細心の注意はする。キツネに対する心証を悪くされては廓のためにはならないし、自分の身が危険にさらされる可能性もあるからだ。


「ふむ――。先程の甜酒たむさけ、なかなかの味だったな」


 質問に質問で返されても、さしてハクメンが気を悪くした様子はない。むしろ楽しそうに彼女との会話に興じようとする。声音だけで判断するならば、気のいい社交的な人格の持ち主にも思えてくる。けれども匂宮太夫は知っている。その本質が、幸いも災いも等しく与える荒御魂であることを。


「お気に召していただけたようで何よりです。私どもの息のかかった酒造の作った清酒ですので、お褒めいただくとそれはもう、我が子が誉められたかのようで」


 儀礼としての感謝のつもりだったが、実際に自分が嬉しく思っていることに匂宮太夫は気づいた。やはり「我が子」という表現を使ったことで、心が動いてしまったようだ。


「銘柄は何という?」

「『白玉楼』と申します。以後お見知りおきを」

「そうだな。夕餉の一献に、選択肢の一つとして加えておくとしよう」


 ハクメンがそう言うと、茅の輪から人間でいうところの含み笑いのような声が聞こえてきた。どうやら彼にして彼女が笑っているらしい。しかしその笑い声は、地震の前触れのような禍々しいものだ。


「恐れながら、私どもがこうした理由について、話したいと思います」


 そろそろ本題に移らねばと思い、改めて匂宮太夫はそう言う。


「申せ」

「私の孫娘が、近々そちらにお伺いするであろうと思いまして、こうして事前にあいさつをと考え、こちらから連絡を取らせていただいた次第です」

「ほう。確か、ハグロという名だったな」

「はい。戌亥葛葉いぬいくずのは綾鼓太夫あやのつづみたゆう黄玉宮おうぎょくのみや羽黒はぐろとして、先日正式に襲名がかないました」

「そうか。お前の孫は病弱だったと聞いているが、息災に襲名の日を迎えられるとは、真に重畳」

「ご温情、痛み入ります」


 ハクメンの声音に感情はない。しかし、たとえ社交辞令であっても、匂宮太夫にとっては嬉しいものだった。


「それにしても、なぜ私のところに来る? 廓の太夫が襲名を記念して、わざわざ大社に足を運ぶなどという前例はなきに等しいのだが」


 ハクメンの質問に、匂宮太夫は固まる。そう思われるのも無理はない。万事に対し柳に風とばかりに受け流す鷹揚な大社と、徹底的に管理され、ピラミッド型の構造を維持することに腐心する廓とは芸風が違いすぎる。

 正直に言うならば、大社と廓とは敵対とまではいかないものの仲が悪い。大社のヘビは打算的で女尊男卑な廓を嫌い、廓のキツネは排他的でハクメンにのみひざまずく大社を嫌っている。


「身内の恥をさらすようで心苦しいのですが――」


 言いかけて彼女は言葉を改める。


「いえ、実に身内の恥なのですが、孫は本当に、とんだ跳ねっ返りに育ちまして」

「それはそれは。病に伏せることの多かった子狐が、いかにしてお転婆に育ったことやら」

「孫自身も、自分が長くは生きられないと思っていたようでして。私どもも同様に思っていましたので、恥ずかしいことですが、なるべく孫には若いうちに見聞を広め、思い残すことのないようにさせていたのです」






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