おもちゃ箱(鬼灯町)の片づけ(その1)
一匹のネコが、尻尾で障子の桟を軽く撫でてから、その先端をしげしげと眺める。かすかに、本当にかすかに、ほこりが付いている。
「ニャアン、これはいったいどういう了見ニャア? 全然お掃除が行き届いていないニャ。やり直しニャン」
嫌みったらしい口調でねちねちと小言を言うと、奥からすっ飛んできた人影が二つある。
「これはこれはすみません、ご主人様」
「すぐに、きれいに致します、ご主人様」
「当然ニャ。オイラの大事なお店が、お前たちのせいで汚くなっちゃったニャ。弁償としてきちんとお掃除するのは当たり前ニャン。そうしないと、もうお前たちのファミリーにお酒は売ってあげないニャ。それは困るニャ? 勘弁ニャ?」
「もちろんですとも、ご主人様」
「慈悲深いご主人様に、オレたちはもう涙が止まりません」
「ニャニャン、ご主人様と言われるととっても気分がいいニャ。分かったらさっさときれいにするニャ」
ネコは胸を張って反っくり返ると、上機嫌で目をパチパチさせながら歩いていく。まだ、あちこちを重箱の隅をつつくようにしてチェックするつもりらしい。
「チッ。あの野郎、人をさんざんこき使いやがって」
「元から汚れているところまで掃除させるつもりだぜ。クソが」
その呟きを聞き逃さず、ネコはくるりと振り返る。
「なにか言ったかニャ?」
「いえいえ、何も言っていませんよ」
「ほら、見ての通り真面目に掃除してますって。真面目に」
「……ならいいニャ。オイラは勤勉なネコが大好きニャ。しっかりやるニャ」
再びこちらに背を向けるネコに、二人は思いっきり親指を真下に下げ、露骨なブーイングを送る。ここは、鬼灯町の異界にある一軒の酒屋だ。ブーイングを浴びているネコはここの店主、そして二人は、ご存じジェーニョ兄弟である。
開襟のスーツの上に、今日の二人はフリルのいっぱいついた真っ白いエプロンを身につけている。ついでに手には雑巾とはたきという、何ともちぐはぐだが、とりあえず掃除をするためのスタイルらしい。スーツではなくて作業着を着て、さらにサングラスをはずせばいいのだが、どうやらそこは双子のこだわりらしく、どちらの意見も採用されていない。
店主のネコがあちこちをチェックしている横で、忙しく双子は店の掃除を続けている。酒瓶を拭き、テーブルや棚を拭き、床を掃き、クモの巣を払い、ゴミを片づける。合間合間にぶつぶつと文句を言っているが、それでも一応手は休めていない。不真面目な双子だが、きれい好きではあるようだ。
ここで何をしているのか。双子はファミリーの資金繰りに窮し、ついに掃除の代行業を始めたのか。そうではない。先程店主のネコが言っていたように、これは弁償の一環である。この店を完全にきれいにし、塵一つ落ちていないピカピカの状態にするまで、ファミリーは断酒せねばならないのだ。
この酒屋は、先日ハグロとジェーニョ兄弟による鬼灯町を股にかけたカーチェイスの際、とりわけ被害をこうむった家屋の内の一軒である。派手にドリフトした際に、開け放たれた店内に土ぼこりやら砂利やら道ばたのゴミやらが全部流れ込んでしまったのだ。割れた酒瓶や壊れた家具こそないものの、店内はさんさんたる有様だった。
当然、店主のネコはおかんむりである。ぷんぷんになって怒り、金輪際ファミリーに酒は売らないと豪語したのだ。しかも鬼灯町の酒屋の組合に駆け込み、自分の店がいかに被害をこうむったかをとくとくと説明したのである。結果、組合はファミリーにこう通達した。酒屋を元通りきれいにするまで、そちらにはビール一缶たりとも販売しない、と。
そうなると困るのが、無類の酒好きであるジェーニョ兄弟である。禁酒は勘弁願いたいし、さらにファミリーの悪評が鬼灯町に知れ渡るのはさらに勘弁願いたい。かくして、マルコとアントニオはジェーニョファミリーのボスからメイドにクラスチェンジを果たし、こうして酒屋の清掃に従事しているのである。
ちなみに、酒屋が終われば次は金物屋を同じように掃除し、さらにそれが終われば米屋の手伝いをすることになっている。因果応報、何事にも原因があれば結果がある。好き放題鬼灯町を走り回ったツケを、双子は今こうして払っているのだ。一緒になって遊んでいたハグロは、どこかに行ってしまったのだが。
だが、ブーイングこそ止めないものの、今の双子の表情は明るい。二人は無事、ジェーニョファミリーのボスの座に返り咲くことができたからだ。誰一人犠牲にせず、堂々と二人はボスの椅子にふんぞり返ることができる。そして、子分のネコたちもまた、双子を手放しで讃えているのだ。
特にコタローの心酔っぷりは、もはやとどまるところを知らない。何しろ、二人が体を張ってハグロの手からコタローを救い出したのだ。その勇姿は、コタローの目と心にしっかりと焼き付けられている。
「ボスさん! ボクは一生お二人についていくニャ!」
こう息巻くコタローの熱烈なアプローチは、双子の自尊心を大いに満足させているのだ。
しかし、問題がないわけではない。ファミリーの資金繰りはこの所非常に苦しい。真綿で首を絞めるように、今までの散財のツケが徐々にファミリーの財布を締め付け始めたのだ。もっとも、二人は心配などしていない。なにしろ、自分たちは天下のジェーニョファミリー。金は天下の回りもの。どうにかなる、と気楽に考えていた。
二人が先日爆走した大通りに背を向け、せっせと酒樽を磨いていたときだ。出入り口にふと、人の気配がした。
「いらっしゃいませ……」
「ようこそ……」
言いかけた双子の鼻に、かすかに嗅ぎ慣れた香りが漂う。甘く、上品な香水の香りが。忘れもしない。その芳香を振りまいていたのは、双子の記憶の中にただ一人しかいない。
「こんなところにいたのね。どうしたの? バイト中?」
逆光を背にして立つ、そのほっそりとしていながらも出るところがきっちり出た、完璧なプロポーション。肩にかかる長い黒髪。間違いない。
「ハ、ハグロ…………」
「どうして、ここに…………」
その名前を呼ばれたキツネの化外は、当然のように店内に入ってくる。
その自信に満ちた足取り。何者も阻む者はいないと自負する、葛葉に名を連ねる化外の優雅さ。何もかも、あの日走り去ったときのハグロと変わりはない。
「私がどこへ行こうと、勝手でしょ?」
「だ、だってあの時……」
「その、もう、お別れだって……」
「ええ。でも、今生の別れだなんて一言も言ってないわ。見ての通り、私は根無し草だし」
突然現れたハグロにどう対応していいのか分からず、二人はあたふたとする。あの日の別れが、一挙に二人の脳にフィードバックする。滅茶苦茶なカーチェイス。その果てに見た、ハグロのどうしようもない孤独。去り際にうたった短い詩。すべてが鮮明に思い出され、だからこそ今何を言うべきなのか分からない。
「ニャーン。いらっしゃいませニャ、美人さん」
奥から営業用の笑顔と共に、店主のネコがやって来た。
「こんにちは、ネコさん。一つ聞きたいんだけど、どうしてこの二人はここにいるのかしら?」
ハグロが問いかけると、店主のネコは耳をピンと立てる。
「よくぞ聞いてくれたニャ! この二人はオイラのお店にとってもひどいことをしたニャン!」
「あら、それは大変ね」
「まったくだニャ! いきなり通り道をリヤカーで走り回って、オイラのお店を土ぼこりとか砂利とかゴミとかでいっぱい汚しちゃったニャ! これはもう許せないニャ! 弁償するまで二人にはいっぱい働いてもらうニャン!」
息巻く店主に対し、ハグロは平然としている。
「ふ~ん。でもそれ、実は私も共犯者って言ったらどうするの?」
「ニャ?」
「この二人が走り回ってお宅のお店を汚しちゃったのは、私を追いかけていたからなのよ」
「ニャ……ってことは、実はお姉さんも……悪い人ニャ?」
「ええ。本当にごめんなさい。私も一緒になってお掃除してもいいかしら」
しおらしくきちんと謝るハグロ。
立つ鳥跡を濁さずとは、このことだ。その姿をじっと見ていた店主は、不意ににっこりと笑う。
「別にいいニャン。許してあげるニャン」
「ええっ? 本当に?」
「もちろんニャン。お姉さんは見た感じとってもいい人みたいニャ。そんな人をこき使うなんてネコ大明神様に叱られちゃうニャ。ちゃんと謝ったから、もう許してあげるニャン♪」
とてつもない変わり身の早さである。
「そ、そんな! じゃあ俺たちも許してくれよ!」
「そうだよ! 不公平じゃねえか!」
同じことをしておきながら、ハグロは謝っただけで許され、二人は弁償するまで許されない。このあまりにも理不尽な仕打ちに、たちまちジェーニョ兄弟は抗議する。
「ニャアン? お前らなに言ってるニャ。こんなきれいなお姉さんと、お前たちみたいなうさん臭い二人組が一緒に扱われるわけないニャン。無駄口叩かずにさっさと仕事に戻るニャ。ほら、早くするニャ。そうしないとお酒は売ってあげないニャ。それでもいいニャ?」
にべもない店主のネコの言葉だが、二人はすぐさま態度を変える。
「滅相もございません、ご主人様」
「そうですとも。禁酒の件、ぜひお考え直しくださいませ、ご主人様」
「そうニャ、それでいいニャ。分かればいいニャン」
双子を睨みつけてから、店主は打って変わった笑顔でハグロに向き直る。
「お姉さんは気にしなくていいニャ。これは二人が好きでやってることだからニャ。それじゃ、ごゆっくりニャ」
営業スマイルのまま奥に戻っていく店主に、再びジェーニョ兄弟は無音のブーイングを浴びせる。
「楽しそうね?」
「とんでもない。汗と涙が出っぱなしだぜ」
「そうそう。まったく、とんだ赤っ恥さ」
「そうは思えないけど。何もしないでファミリーの椅子に座っているより、よっぽど男前になったと思うわ」




