巫女とイタリア人とネコの関連性
「見ない顔だね」
あかねは静香から少し離れた場所に立っていた。ちょうど道路標識の影の中にいる。彼女が向かい合っているのは、あの陽気なイタリア人の青年二人だ。しかし、あかねと青年たちの立っている場所は、どう見ても静香からさほど離れていない。そもそも、何かの陰に隠れてさえいないのだ。
それなのに、三人は静香から完全に見えなくなっていた。あかねが振り返れば、未だにきょろきょろと落ち着かない様子で周囲を探す静香の姿が見えたことだろう。明らかにあかねは目の前にいるはずなのに、静香には見えていない。まるで、あかねとイタリア人二人が、突如神隠しに遭ってしまったかのようだ。
けれども、それも不思議ではない。元より化外が住まうのは現世とはわずかに位相のずれた〈異界〉であり、化外と化外に関わるものは自由にそこを行き来できるのである。あかねは人間だ。しかし、二人のイタリア人は人間ではない。人間に化けているが、その本質は化外と呼ばれる人外の知的生命体だ。
彼らが何者なのか、とうの昔に人間はそれを解明するのを止めてしまった。古くは妖怪、妖精、妖魔。はたまた神仏や神霊の類として呼び習わされてきた彼らだが、今はただ引っくるめて化外とだけ呼ばれている。恐らく妖怪と呼ばないのは必要以上に彼らを恐れないため。そして逆に、神霊と呼ばないのは必要以上に彼らを敬わないためだろう。
いずれにせよ、彼らは本来普通の人間には見えない世界からやって来る。だからなのか、彼らと関わっている時、ただの人間であっても化外と同じく人々の目には見えない。あるいは見えたとしても、何かごく普通のことをしているどこかの誰か、のような極めて浅い関心しか払われない。
たとえ道ばたでオニと話していても無視されるし、巨大なムカデと往来を歩いていてもペットと散歩しているくらいにしか思われない。普通の人間は、化外を分厚いフィルターを通して知覚しているようなものなのだ。しかし三枝あかねは異なる。彼女は生まれながらに化外が見える体質の人間であり、さらには化外を監視する役職の家の生まれである。
「それで、本当に観光に来たの? イタリアのネコさん?」
あかねはさらに言葉を続ける。あかねはこの双子に出会ったその瞬間から、彼らが化外であることを見抜いていた。その種族はネコ。しかも、人間に過不足なく化けられることから、それなりに高位の化外らしい。大抵のネコの化外は、普通のネコのサイズでニャーニャー言って戯れているだけだ。
「いいや。悪いが、ここに定住させてもらうぜ」
さっきの英語とイタリア語がチャンポンになった片言はどこへやら。流暢な日本語で、双子の片方はあかねに答える。
「と言っても、別にあんたに許可なんか必要ないだろ? 人間さん?」
もう片方はスーツの胸元からシガレットチョコの箱を取り出すと、指で一本を弾き出してから口にくわえる。
「そうもいかないんだよね。一応、私はこの町の〈守役〉なんだ。よそから化外が、それも国外からやって来たなら、それなりに気にはなるよ」
あかねはその平坦な上半身を心なしか反らして、胸を張ってみせた。守役、というのが彼女と彼女の実家である三枝家の役職だ。
守役とは平たく言えば、町に住まう化外たちを監視する仕事に就く人々のことである。その昔、まだ多くの人々が化外を知覚していた時代には、人間と化外との間を取り持つ仕事として、それなりに忙しくしていたこともある。特にここ鬼灯町は、人間の目から見ればやや田舎にある観光が主な収入源の町だが、化外から見れば一種の霊地となっている。
何しろ、鬼灯町の北に位置する鬼灯山を縄張りにしているのは、日本で五本の指に入るほど強大なハクメンという名の大蛇である。全長三十メートルを超える純白の巨体を見れば、誰もが記紀神話の頃から語り継がれてきた蛇神だと思うことだろう。おかげで鬼灯山は、日々数多くの化外たちで溢れている。どうも参拝のような感覚で訪れているらしい。
あかねの実家である三枝家は、そのハクメンから直々に守役の務めを仰せつかった一家である。だからこそかつては鬼灯町を駆け回って、人と化外の仲立ちに大忙しだったのは事実だ。しかし、時代は変わる。今となっては化外を見られる人間は数少なく、守役が行うのはもっぱら化外同士の調停やその援助である。ほとんど人間が行う化外の便利屋だ。
「モリヤク? モリアク? なんだそりゃ。Mauriacなら知っているが」
しかし、どうやらイタリアでは守役という言葉はなかったようだ。眉を寄せて怪訝そうな顔をする背年に、もう一人が囁く。
「ガーディアンだよ兄貴、ガーディアン。向こうでもいただろ。教会の神父様がそうだったじゃないか」
「あ……あーあー! いたいたいた! いたよそんな奴が。へ~え、ってことはお嬢ちゃんがこの町のガーディアンか。シスターかい? 随分とチャーミングじゃないか」
海の向こうでは、守役のことをガーディアンと呼ぶようだ。しかも、教会の聖職者がその仕事を受け持っているとは、あかねは初耳だった。
しかし、ここで教会の関係者に間違えられても困る。あかねは確かに宗教関係者だが、種類が違う。
「シスターじゃなくて、巫女。巫女だから。勝手に決めつけたら駄目だからね」
もちろん正式ではないが、あかねは実家である鬼灯神社の巫女もしていた。初詣や七五三の時は、両親を手伝って小袖に緋袴という典型的な巫女の出で立ちもする。
「……ミコ? なんだそりゃ。Mycoか? キノコ栽培でもしてるのか?」
しかし、またしてもあかねの説明は二人には伝わらなかった。ちなみにMauriacとは作家の名前、Mycoとは菌に関係する接頭辞である。
「あ~、兄貴、多分その、ミーディアムとかじゃないのか? Medium?」
再び双子の弟が捕捉した。Mediumとは確かに一応巫女を指す語だ。
「お……おーおー! そうかそうか! 向こうでもニッポンの観光ガイドで見たよ。確かジンジャとかにいるんだよな。赤と白の着物を着て。……で、何で今着てないんだ?」
「あのね、私は中学生なの。学校の生徒と守役と巫女の掛け持ちをしてるの。あの格好は好きだけど、学校に行く時まで着たりしないよ」
「なんだそうか。ちょっと残念だ。いかにもニッポン! って感じで俺は好きなんだが。今度は、来ている時に会いたいね」
露骨にこちらの外見に興味を寄せる兄の方に、ややあかねはたじろぐ。まさかとは思うが、こちらを人間だと知った上でナンパしているんだろうか。あかねの不審が伝わったらしく、弟の方が苦笑して口を開いた。
「……お嬢ちゃん、兄貴の言うことをいちいち本気にしたら駄目だからな。兄貴は黒猫に惚れた時は部屋の壁紙まで黒にするくせに、今度は白猫に惚れたら内装を白一色にするくらい移り気なんだぜ。困るよなあ」
呆れを言葉の端々に滲ませながら弟が肩をすくめると、すかさず兄の方がシガレットチョコを口から飛ばして応戦する。
「うるせえ! お前こそあることないこと口走るくせに何言ってやがる。パン屋の小娘を口説く時に『アマルフィに素敵な別荘がある』なんて嘘八百並び立てたのは誰の弟だ?」
「あ、兄貴! それは言わない約束だっただろ!」
どうやら、兄弟揃って口と態度がヘリウムを詰め込んだ風船レベルに軽いようだ。
思わずあかねがそのノリのいい応酬に笑ってしまうと、つられて兄弟たちも大声で笑う。これだけ通学路で騒いでいても、誰も三人に気づく様子はない。見ようによっては不気味だが、あかねはもうとうの昔に慣れている。ひとしきり笑い終えてから、あかねは改めて右手を差し出す。
「そうだ、自己紹介が遅れてごめんね。私は三枝あかね。中学二年生。この鬼灯町の守役を、お父さんとお母さんと三人でやっています。よろしくね」
「おう。俺はジェーニョ兄弟の兄の方。一応、マルコって名前もあるぜ」
「んで、オレがジェーニョ兄弟の弟の方。一応、アントニオって名前もあるぜ」
軽く握手して、二人の化外もまた自己紹介する。
「まあ、あまり名で呼ばれることはないな」
「だよな。大抵ジェーニョ兄弟って名乗っているし」
「ふうん。じゃあ、ようこそジェーニョ兄弟さん。鬼灯町によく来たね」
これで、とりあえずあかねの仕事は終わりだ。彼らがネコの化外であるならば、ネコたちのコミュニティの内部で仲良くやってくれればそれで文句はない。
「それで、どこに住んでるの? 飼い主さんと一緒?」
「当たり前だろ。いくら俺たちが人間に化けられるからって、さすがに飛行機を乗り継いでニッポンにまでは来ないぜ」
「三滝川のすぐ側に先日イタリア料理店がオープンしただろ? 『デルフィーノ』って名前の。知ってるか?」
「うん。知ってる知ってる。何だかお菓子の家みたいな、小さくて素敵な作りのレストランでしょ? この前見たよ」
食べものの話となると、あかねはすぐさま食いつく。実際、あかねの脳裏には即座にその場所が思い描かれている。確か前はただの貸店舗だったのが、改築されて見間違える程に素敵な外見に生まれ変わったお店だ。
それまでは味も素っ気もない倉庫のような外見だったのが、しばらくの間足場とシートに覆われた後、毛虫が蛹を経て蝶になったかのような変貌を見せた。ひなびた煉瓦の外壁に、ここが日本だからかオレンジ色の瓦。洋風のバルコニーに、一階にはオープンカフェのような木製のテーブルと椅子。鉢植えに入った小さなヤシの木まで置かれている。
そしてしゃれた筆記体で「Delfino」と書かれた看板。実のところあかねはあの文字が読めなかったのだが、何となくイメージで覚えていたのだ。
「そこが俺たちの飼い主さんが住んでるところさ。また、何かあったら来てくれよ」
「そうそう。ちゃんと料金はいただくけど、本場イタリアのおいしい手料理をごちそうしてやるぜ」
「さっぱりとしたモッツァレラチーズに熟れたトマト。新鮮なバジルに舌触りも柔らかな生ハム。きらめくように輝くオリーブオイルに香り高いトリュフ。珍しいエスカルゴだってあるぜ」
「海の向こうの素敵な食材をふんだんに使った、な」
「えっ? それって、飼い主さんが作ってくれるの。それとも……まさかジェーニョさんたちが?」
聞いているだけでお腹の空いてきそうなジェーニョ兄弟の説明に、思わず生唾を飲んでいたあかねが不意に我に返る。この二人が厨房に立っている様子はまだ想像できるのだが、ネコの姿でピザの生地を全身でこねていたり、パスタサーバーにしがみつくようにしてパスタを茹でている様子はさすがに想像の埒外だ。なんだか抜け毛が混じりそうで怖い。
「さあ、どっちだろうなあ」
「どっちだろうなあ、兄弟」
白い歯を見せて、二人はお互いに目配せし合ったのもつかの間。二人はその場で、まるでウエイターのように片手を胸に当てて一礼する。
「真相が知りたければ、是非ともイタリアンレストラン『デルフィーノ』に、ご来店下さいませ」
「おいしいパスタと素敵なピッツァ、それに豊潤な香りのワインがあなた様をお待ちしております」
恐らく、ジェーニョ兄弟二人は自分たちのそのパフォーマンスに、内心で満点をつけていたことだろう。顔を上げた二人は、満足そのものの表情をしている。しかし、対するあかねは冷めた顔でこう言った。
「――私未成年だからワイン飲めないんだけど」