チはオロチのチ(その1)
次の日の夕方。学校から帰ってきたあかねはカバンを部屋に放り出し、制服を脱いで椅子に引っかけ、さっさと巫女の装束に着替えていた。この小袖に袖を通すのも久しぶりだ。定期的にこれを着ていないと、自分が鬼灯神社の巫女であることを忘れそうになる。学生と巫女と守役、そして女の子という四つの役割に、自分を均等に配分しなくてはいけないのに。
母親に「ちょっと大社に行ってくるからね」と告げてから、あかねは返事を待たずに玄関を飛び出す。ハクメンのところに顔を出すとなると、あれこれと両親からお小言を頂戴することはほぼ確実だからだ。どうせ行っても帰ってもお小言ならば、行くときくらいは耳を塞いで出発したいものである。
草履を適当につっかけながら、あかねは鬼灯神社の鳥居の前に立つ。自宅に隣接する鬼灯神社は、現世ではただの神社だが、異界では大社の総本山である。ちなみに大社とは、ハクメンを頂点とするヘビの化外の組織であると同時に、この鬼灯山に建つハクメンの御座所そのものを指す語でもある。
ちらりと後ろを振り返るが、母親が追いかけてくる様子はない。信頼されているのか、それとも呆れられたか、はたまた手を離せない用事があったのか。ちょっとだけさみしく感じつつも、まあいいか、とあかねは気を取り直す。あそこで玄関に拘束され、延々とハクメンの元を訪れるのがどれほど恐ろしいかを説かれると、さすがに気が滅入る。
ただし、世間一般からすると、あかねの感覚が異常なだけであり、彼女の母はごく普通の感性の持ち主だと言えよう。あかねにとってハクメンは優しくて立派な自分の保護者だが、普通の人間からするならば恐ろしい大蛇の化外である。いや、大蛇ですらない。駆動する災害、生ける山崩れ、実体を伴った祟りとでも呼ぶべき存在である。
だが、今のあかねには、そのような破壊的な現象に対峙しなければならない恐れも嘆きもない。むしろ、夏休みに久しぶりに祖父母の家を訪れるかのような、わくわくした様子が遠目からでもうかがえるほどだ。何ともお気楽と言うべきか、ある意味で羨ましい守役見習いである。
気を取り直し、うきうきと笑顔を浮かべながら、あかねは二度拍手を打つ。
「――開き給え。――招き給え」
そう呟いてから、あかねは鳥居をくぐる。ここは抜ケ道の一つだ。此方と彼方はここで交わり、一本の見えざる道を通じて現世から異界へと通るものを導く。その先は、大社の正面だ。
しかし、あかねは感づいていた。いつもより、五感が混線する時間がわずかに長いことに。抜ケ道を通るとき、決まってあかねは目をつぶる。そうしないと、ぐにゃぐにゃに歪んだ光景を目にすることになるからだ。しかもその短期間、五感がおかしくなる。音が瞼の裏に見えたり、舐めている飴の味が聞こえたりという不気味な経験をしたこともある。
そんなサイケデリックな危ない体験などに一切興味のないあかねは、抜ケ道など早く通り抜けたいと常々思っていた。だからこそ今、抜ケ道の長さがわずかに異なることを、あかねは不快感という形で感じ取っていた。
「…………あれ?」
ややあって目を開けたあかねは、同時に首を傾げた。
いつもならば、あかねが立っているのは大社の正面のはずだ。目に写るのは、鬼灯神社の代わりにそびえ立つ大社と相場が決まっている。あの、日光東照宮や北野天満宮のような巨大な神社と、豪放な造りの温泉旅館が混じったような堂々たる建築は、あかねのお粗末な脳内にもしっかりと記憶されている。
しかし、今あかねが立っている場所は違う。やや離れたところに、今まで見たことのない角度で大社の建物が見える。足元に目をやると、自分の履いている足袋と草履、そして芝生が見える。左右に目をやると、自然の地形を生かした古色蒼然とした日本庭園と、湖かと一瞬思いそうになるほど大きな池。さらに風雅なあずまやもある。
「お庭……? なんで……?」
なぜ正面付近ではなく、いきなり大社の内部に入り込んでしまったのか。だが、それ以上あかねは理由について考えられなかった。
「――――そろそろ、お前が来る頃だと思っていたぞ。三枝あかね」
その声は、あかねの真後ろからした。完璧なまでに男女を併せ持った、怖気を振るうようなその声。間違いない――――
「ハクメン様!?」
聞きようによってはあまりの美しさに聞き惚れるとも、あまりのおぞましさに吐き気を覚えるとも、その両方があり得る声だ。到底、ただの人間が耳にするべき音声ではない。それなのに、あかねはそれまでのいぶかしげな表情を一瞬で消し去り、ぱっと顔を輝かせて振り返る。
白銀の山嶺が、そこにそびえている。あたかもそう形容したくなるほどの巨躯が、あかねの後ろでとぐろを巻いて伏していた。全長三十メートルはゆうに超える、巨木を切り倒して横に寝かせたような太い胴体。真珠を薄く削いで並べたかのような、白く輝く鱗がその背と脇腹を覆っている。
軽く口を開いただけで、あかねなど頭から丸呑みできるほどに大きな頭部。その口吻の隙間から、二叉に分かれた真っ赤な舌が伸びる。何よりも印象的なのは目だ。特大のルビーを思わせる真紅の眼球に、そこだけ完全に光を吸収する純黒の瞳孔が刻まれている。瞼のないその目は、静止した輝く火焔だ。古来人は、ヘビの目を鏡になぞらえたという。
完璧なまでの純白のヘビ。御山の主。大社の崇める頂点。恐るべきヘビの大公。祟リ大蛇。数多の呼称を持つが、人間と化外は彼にして彼女のことをただこう呼ぶ。
――――ハクメン、と。
その性は、まさに荒ぶる旧き神そのもの。およそ人に理解できる範疇を超えた、ただ伏して祟りの過ぎゆくのを待つばかりという混沌と暴威の具現。
……のはずだった。けれども三枝家が、日本に住まう守役が、長きにわたって築いてきたハクメンに対する印象は、この三枝あかねにはこれっぽっちも伝わっていなかった。そう、まさに耳かき一匙ほども、あかねの脳内にはハクメンに対する恐ろしい伝承が残っていない。そんな殊勝な言い伝えは、すべてあかねの脳内から忘却されている。
「大変です、ハクメン様。うちの神社とここを結ぶ抜ケ道が壊れちゃってました」
霊山が一つ圧縮されたかのようなハクメンの存在感など、頭から無視してあかねは話しかける。普通ならば、その重圧と異質さに圧倒されているはずなのだが、あかねはどこ吹く風である。正真正銘、まったく気にしていない。近所の知り合いと立ち話をするような感覚だ。
「ほう、壊れた、とな」
「そうなんですよ。普通だったらうちの鳥居から抜ケ道を使ったら、大社の真っ正面に出るはずなんです。でも今使ってみたら、急にここに来ちゃいました。絶対おかしいですよね。修理が必要ですよね? ね?」
もっともらしい顔をして、あかねはハクメンに進言する。
「そのことならば、お前のその粗末な頭を悩ませる必要はないぞ」
「え? どういう意味です?」
「先程私が言った言葉が、もうお前の耳孔から出て行ってしまったようだな。人間の耳というものは、左右で一直線に繋がっているのか?」
「やだなあ、そんなわけないじゃないですか。ちゃんと耳には鼓膜があるんですよ。知ってました?」
あかねは笑いながら、ハクメンの皮肉をあしらう。どうやら、皮肉だと分からず、本気でハクメンが無知だと思ったらしい。三枝家を守役に任じたパトロンに対し、このなれなれしさである。もはやあかねの言葉と態度は、ずけずけというレベルを超えている。不敬と言うより、命知らずだ。
この場にヘビの化外がいたらあ然として固まってしまうだろう。あかねの両親がいたら、顔色が真っ青になるのは確実である。ハクメンの気まぐれさを考えたら、この場であかねが尻尾ではたかれて頭から池に落下しても不思議ではない。しかし、あくまでもハクメンは鷹揚な態度を崩すことはなかった。
「お前をここに招いたのは私だ。抜ケ道が壊れているのではない」
「ってことは……ハクメン様が抜ケ道をねじ曲げて……私をここに連れてきた、ってことですか?」
「そうだ。いちいちお前が大社の門をくぐり、玄関を通り、家僕に案内されてここまで来るのを待つのが面倒に思えてな。少し、道を歪ませた。もう元に戻っていることだろう」
ようやく理解が及んできたあかねを見つつ、ハクメンは大きく口を開けて長々とあくびをする。下顎の左右が別々に動くところは、やはりヘビだ。黙っていると生物とは思えない硬質な輝きを放つハクメンだが、こうして血色の良い口内を見せると、やはり生物であると実感できる。間近でそんなことをされると、常人ならば寿命が十年は縮むのだが。
「もう、それならそうと最初に教えて下さいよ。急に知らないところに飛ばされて私びっくりしたんですからね!」
あかねの言葉は責めるようだが、口調からはまったく怒りを感じ取られない。それどころか、あかねはハクメンに近寄ると、その胴体をぺちぺちと平手で叩く。少し乱暴にネコを可愛がっているような手つきだ。
「そう怒るな。体に害があるわけではないだろう?」
「でも気持ち悪くなるから嫌なんです! これからは急ぎの用事でもこんなことしないで下さいね」
なおもあかねはハクメンに訴えかける。単に、ハクメンにわがままを言って構ってもらえること自体を楽しんでいるだけだ。実に、あかねの神経は図太い。想像を絶する図太さである。
「分かった分かった。小さな者はこれだから扱いに困る。触れるのにも一苦労だ」
そんな無礼を一身に浴びているにもかかわらず、ハクメンは怒る気配さえ見せない。かすかに開いた口から、苦笑するような気配がもれる。以前匂宮太夫の前で見せた、あの禍々しい笑いではない。むしろ雑木林の間を吹き抜ける風のような、穏やかで優しいものだ。
「でも、そんな小さな者にちゃんと合わせて下さるのがハクメン様なんですけどね。だから私は大好きですよ、ハクメン様のこと」
ぺちぺちと叩いていた手の動きを撫でる動きに変え、あかねはじっとハクメンの顔を見つめる。巨大なヘビの顔には、何の表情も浮かんでいない。ましてや、瞼のない宝石のような目はなおさら一切の感情を見せない。
そうであっても、執拗ささえ感じる視線であかねはハクメンを見つめる。その先に、必ず何かしら心の動きが見て取れると信じて疑わない目つきだ。
「その言葉だけ受け取っておくとしよう。私を言祝ぐお前の言ノ葉をな」
ハクメンはそう言うと、静かに首を持ち上げる。何を感じたのか、何を思ったのか、結局あかねは見抜けなかった。
「それはそうと、お前は私に会いに来たのだろう?」
「あ、はい。そうなんですよ」
ハクメンに促され、あかねは先日までの出来事を話そうとした。だがその時だった。
「――へえ、すごいわね。化外の王蛇とここまで対等に話せる守役がいるなんて、想像もしていなかったわ。やっぱり、生きてて良かった」
突然、第三者の声がその場に響いた。
「えっ!? だ、誰!? 誰かいるの!?」
この場にハクメンと二人だけだと思っていたあかねは、露骨にうろたえて周囲を見回す。一方、ハクメンはさして驚く様子もなかった。
「なにを隠れている。最初からお前が姿を現していればよかったものを」
「これは失礼いたしました。せっかく守役をハクメン様がお招きになったのですから、一度席を外そうと思いましたので。申し訳ありません」
「そう思っているのならば、さっさと姿を現すことだな」
「はい、ただいま」
そう姿の見えない誰かが言ったのと同時に、ハクメンの尾付近の空間がぐにゃりと歪んだ。そこだけ抜ケ道が開いたかのようだ。
だが、すぐにその歪曲は収まる。それと同時に、そこに一人の女性が立っていた。長身ですらりとした手足に、出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ、ため息の出るようなスタイル。長い髪にやや吊り目で気の強そうな美貌。そう、ジェーニョ兄弟のところに入り浸っているキツネの化外、ハグロである。
「ごめんなさいね、守役さん。急に声をかけてびっくりさせちゃったみたいね」
ハグロはにこにこと屈託なく笑いながら、あかねの方に近づく。
「あ、はい。大丈夫です……」
人なつっこいあかねにしては珍しく、言葉少なにハグロの方を見つめる。正確にはそのバスト、ウエスト、ヒップの順に上から下まで。
何を食べてどうシェイプアップしたら、こんなボディが手に入るのだろう。そんな思考が脳内を駆けめぐっている。
「私、先程までこの御方とお話ししていたのよ。でも、あなたが招かれたのだから、ちょっと席を外していたの」
「正確には、姿を消して様子をうかがっていたのだがな。キツネらしいやり方だ」
ハグロの言葉を、ハクメンが補足する。
「お姉さん、ネコじゃないんですか?」
ハクメンの言葉に、あかねの驚きは倍加する。てっきり、ネコの化外だと思っていたからだ。
「ええ、予想通りじゃなくてごめんなさい」
そして彼女は、そっと細く長い腕をあかねに向けて差し出す。
「せっかくだから自己紹介するわ。私の名前は戌亥葛葉綾鼓太夫黄玉宮羽黒。ハグロでいいわ。以後よろしくね」




