女三人寄れば姦しい。ならば二人では?(その1)
六月も半ばを過ぎ、徐々に暑さが形を成しつつある。まだそれは夏の予感でしかない。しかし、空を見上げれば一目瞭然だ。ぎらぎらと特大の白熱灯のように輝く太陽を見れば、これから三ヶ月にわたって列島を覆い尽くす猛暑が容易に想像できてしまう。今年はどれだけ暑さが猛威を振るうのか。道を行く人々の顔は、早くもげんなりしたものだ。
「――――そんなことは分かってるってば! でも逃げられちゃうの!」
町立青嵐中学校から続く緩やかな下り坂を歩きながら、近田静香は力説する。その外見も一挙一動も声の大きさも、全てが彼女の名前の一文字である「静」とは正反対だ。思いっきり短くカットした髪型なので、ジャージでいると時折男子に間違えられることさえある。
もっとも、今静香はジャージ姿ではない。ジャージは教室だ。かといって体操着姿でもない。部活中に一汗かいたそれらは、肩から提げたバッグの中に収まっている。今静香が着ているのは、飾り気のない中学校の制服だ。ごく普通のブラウスにリボンタイ。それにチェックのスカートという、非常にありきたりのデザインである。
「だいたい、あかねはどうしてそんなことが分かるんだよ? ペット関係の本に載ってたのか?」
かなり短めのスカートの裾をひるがえして、なおも納得いかないといった顔で、静香は隣の同級生に詰め寄る。
「う~ん。そう言われるとちょっと難しいかも。敢えて言うなら……」
「言うなら?」
「ネコさんに聞いた、って言ったら信じる?」
静香の隣を歩く同級生は、小首を傾げながらそんな不思議なことを言い放った。長身の静香よりもやや低い身長。同じ陸上部の部員にふさわしい、無駄な贅肉のないほっそりとした手足。スレンダーな体形はやや中性的だが、どことなくネコを思わせる顔や髪型は、一人の女の子として充分可愛らしい。
ずいぶんとファンタジックな返答に、静香はとっさに何と答えればいいのか分からなくなる。三枝あかねとは小学校時代からの付き合いで、その性格もおおよそ熟知している。ネコに似ているだけあって、その性格もまたネコのように気ままでおおらかだ。ちゃっかりしていると言ってもいい。だが、空想にふけったり、夢見がちではなかったはずだ。
あかねの実家は神社だ。時折あかねは実家を手伝って、巫女の出で立ちで人前に出る時もある。初詣の際、緋袴に純白の小袖という典型的な巫女の出で立ちをしたあかねを見て、静香はちょっと羨ましくなったこともある。普段は一緒になって走ったり飛んだりしている同級生の、少女としての楚々とした姿を目にしてしまった気がしたのだ。
服装一つで女性はがらりとイメージを変えることを知っていたけれども、それをまさかあかねで思い知らされるとは予想外だった。「クラスの男子とかも、こういう格好したあかねを見たらやっぱりかわいいとか思うのかな」と思ってから、オシャレに一切関心がなかった自分が急に恥ずかしく感じてきた。
もっともそのもやもやとした感情は、差し入れとして持ってきたたい焼きを無我夢中でぱくぱくと食べているあかねを見て、たちまち雲散霧消してしまったのだが。やはりあかねは色気よりも食い気らしい。だが、いくら実家が神社といえども、ネコと話ができるなどと子供に教えるような非現実的な家庭環境ではあるまい。
「まあ、ネコと遊んでいれば気持ちも分かるようになるのかもしれないよな。アタシの場合、そもそも触らせてくれない現状が寂しいんだけど」
あかねはネコと話せるようなことを言っているが、要するに比喩だろう。ネコを可愛がっていれば、自然と気持ちが通じてくるような状況を、「話した」と表現しているだけに違いない。
ここまで何度もネコという単語が繰り返されているのは、ほかでもない静香が大のネコ好きであり、同時にネコからは徹底的に避けられているからだ。両親がネコアレルギーのため家で飼うことのできない静香だが、だからといって諦めたわけではない。中学校の行き帰りなどに、目ざとくネコを見つけてはアタックを繰り返してきた。
しかし、結果は惨敗である。どのネコも、彼女の顔を見るや「嫌ニャ」とばかりにきびすを返して一目散に逃げるか、手の届かない場所にまで逃げてからじっと不審そうな目つきで見つめるだけなのだ。いつかは足元にすり寄ってくる可愛いネコを抱き上げて、そのふかふかの毛に頬ずりしたい静香だが、その日が訪れることは当分なさそうである。
一方、彼女の隣を歩くあかねはと言うと、こちらは逆に徹底的にネコに好かれている。あかねがちょっと呼ぶだけで、道を行くネコはそちらに近寄り、屋根を伝って歩くネコは近くに飛び降り、植え込みの中に隠れているネコはひょっこりと姿を現すのだ。そして、大抵の場合あかねはネコと一緒に、自分もネコになったかのような感じで戯れている。
その様子を、幾度となく静香は指をくわえて眺めていた。いったい何が悪いのか。自分とあかねと、何が違うのか。どれだけ考えても分からない。さらに決まって自分が近づくと、それまでお腹を出してゴロゴロと地面を転がっていたネコは、やにわに跳ね起きるとそそくさと逃げ出すのだ。あの手の平の返し具合には、さすがの静香も傷ついた。
そして今日。部活を終えて下校がてら、静香はあかねからネコに好かれるレクチャーを受けていたのだ。もっとも、言われたことは既に知っていることばかりだ。急に動いたりしない。しゃがんで呼ぶ。お腹をいきなり触ったり、尻尾を引っ張ったりはしない。それくらい、全部静香は知っていた。きちんと、ネコ関連の本には目を通している。
「そもそも、静香はちょっとがっつきすぎだと思うよ。あんまり『捕まえて撫で回してやる』ってオーラが出すぎだと、ネコさんたちはちゃんと分かるもの」
挙げ句の果てに、あかねからこう言われてしまったのだ。自分の心の奥底に渦巻く欲求など、ネコたちはきちんとお見通しとのことだ。
だからといって、あっさりと諦められる静香ではない。だったら、あかねはいったい何だというのだ。あかねだって、ネコを触ったり抱っこしたり、そのうち手足や耳を軽く引っ張ったりと、充分ネコを撫で回しているじゃないか。それなのに、あかねだけがネコに好かれて、自分が避けられるなんて不公平だ。
「ネコも人間も同じだって言いたいのかよ?」
「そんな感じ。ネコさんだって、嫌なことをされる人間にはあんまり近寄りたくないよ。焦らないで、まずは挨拶するくらいから始めた方がきっといいと思うなあ」
こちらのことを思ってあかねが言っているのは分かるが、一度理不尽だと感じた感情の回路は暴走を止めない。
「はいはい、あかねさんの人間関係は円滑ですからねー。だって、もう彼氏だっているからねー。お見それしました」
余裕綽々と言ったあかねの態度に、ついに静香は問題発言という名の爆弾を起爆させる。
「か、かかか彼氏!? 誰! 誰が私の彼氏だって言うの!?」
さすがに聞き捨てならなかったらしく、あかねが頬を赤くして大声を上げる。
「決まってるじゃないですかー。隣のクラスの八木沼ですよー。よく一緒に仲良く下校しちゃってさー。あれが彼氏じゃなかったらなんなんですかー」
ところが、静香がそう言うと、途端にあかねはきょとんとした顔をした。昼寝中の子ネコが、突然大きな音がしたせいで飛び起きた顔にそっくりだ。
「八木沼君? それって誰だっけ?」
八木沼典人。隣のクラスの帰宅部所属の男子だ。痩身で色白、それにかなりの端整なルックスの持ち主なのだが、いつも世の中全てが気に食わないと言わんばかりの不機嫌な表情をしているのが玉に瑕だ。その黒いオーラのせいで、あまり近づくクラスメートも少ないらしい。しかし、そんな万年仏頂面の彼は、なぜかあかねと一緒にいることが多い。
部活が終わるまでどこかで待っていて、校門でわざわざあかねを待っていることも何度かあった。そういう時は必ず、静香は気を利かせてあかねを典人と二人きりにして帰らせている。遠目からは、相変わらずとぼけたことを口にしているらしきあかねと一緒に、あの典人が笑っているという信じられない光景が見えたことだってあった。
「……あかね。もしかして、今日の部活で転んで頭でも打った?」
素っ頓狂なあかねの返答に、ちょっと静香は心配になってきた。この学友は、頭を地面にぶつけて記憶喪失になっているんじゃないだろうか。
「八木沼って、思い出せないのか? 八木沼典人だぞ。大丈夫か?」
けれども、八木沼典人、というフルネームを聞いてようやく、あかねは合点がいったようだ。
「へっ? あ……ああ! ああ分かった! 分かったよノリト君だね。うんうん。いつも下の名前で呼んでたから一瞬分からなかったよ」
さらりと、いつも下の名前で呼んで懇意にしていることをアピールしているのだろうか。