中学生には荷の重いお話と、早すぎる仇討ち(その1)
暗く静かな和室だった。天井の照明もスイッチが入っていない。けれどもここは、日当たりの悪い場所に位置するわけではない。この部屋のすぐ隣には、ニシキゴイの泳ぐ池と豪快な枝振りの松の木が印象的な、広い庭園が広がっている。ただ、庭と部屋との間にはぴったりと閉じられた障子があり、それが外からの光を遮り、部屋の中を暗くしている。
あかねが正座して座るすぐ横に、一枚の布団が敷かれていた。そこで仰向けに横たわったまま高いびきをかいているのは、寝間着を着たカゲフサである。ずいぶんといい気持ちで熟睡中らしく、その寝顔と寝相は穏やかだ。彼のいびきは、あかねが部屋に入ったときから止む気配がない。
あかねの座る位置は、ちょうど枕元だ。隣にノリトも座っている。神妙な顔であかねはカゲフサの顔を見つめているが、対するカゲフサの顔はむしろにやけているように見えないこともない。夢でも見ているのだろうか。そうなると、夢の中でカゲフサは美女ならぬ美ネコに囲まれているか、山盛りのニボシを頬張っているのかもしれない。
「――まったく、幸せそうな顔をしてるじゃないか。まるで大きな子供だねェ」
襖が開くと、一匹の、いや一人のネコがお盆を手に部屋に入ってくる。きちんと和服を着こなした、背の高い三毛猫だ。他のネコの化外と違い、身長は人間と同じくらいある。何よりきれいな直立二足歩行だ。
化外の三毛猫は襖を閉めるとカゲフサの足元に座り、お盆に乗っていた湯飲みと皿をそれぞれあかねとノリトに差し出す。皿に載っているのは、おいしそうに焼けたマドレーヌだ。手作りらしく、実にシンプルで素朴な形をしている。あかねが菓子折として持ってきた、色とりどりの創作生八ッ橋とは大違いだ。
「あ、どうもすみません」
あかねは反射的にそれを受け取る。
「いただきます」
と、ノリトもそれを手に取った。あかねは早速湯飲みを口に運ぶ。火傷しそうなくらいに熱いほうじ茶だ。口いっぱいにいい香りが広がる。何となく懐かしくなる味だ。
「守役さんにも、目付さんにも、本当にうちの亭主がご迷惑をおかけしました。謹んで、お詫び申し上げます」
そう言うと、三毛猫はあかねに深々と頭を下げる。
「そんな……私こそ……」
あかねが何か言う前に、すかさずノリトが三毛猫に向き直った。
「いいえ。今回そちらのご主人がこうなったのは、目付の仕事を怠った俺の責任です。おキヌさんが頭を下げる理由は一切ありません」
流れるようにノリトはそう言うと、三毛猫と同じくらいに頭を低くする。
そう、彼女はただの街角組合の一員ではない。彼女の名前はおキヌ。カゲフサの妻である。野良猫たちを侠気と力で束ねるカゲフサの家内にふさわしく、彼女もまた気っ風が良く、姐御肌という言葉がぴったりはまるネコだ。しかし、カゲフサと違いおキヌはちゃんと守役のあかねに敬意を払うようだ。頭を下げる態度にそれが表れている。
一方、面食らったのはあかねの方だ。突然ノリトにかばわれて、あかねはあたふたしつつもノリトの言葉を否定する。
「そ、そんなことないです! ノリト君が謝る理由なんかないんですってば! 私がちゃんとしなかったからこうなって、ええと、その、本当にごめんなさいっ!」
二人に負けじと、あかねは五体投地をする勢いで謝罪する。頭を下げると言うよりは、畳にヘッドスライディングするような動きだ。ノリトの無駄のなさも、おキヌのそつのなさも何もない、勢いだけが有り余った行動である。かくして、その場に頭を下げた人間とヘビの化外とネコの化外ができあがった。
こうなると、事態は一種の膠着状態に陥る。誰かが頭を上げればそれで話が進むだろうが、一番最初に頭を上げるということは、一番謝罪の意思が薄いとも取られかねない。しかし、誰かが頭を上げてくれないと、未来永劫このままである。ウロボロスの輪が完成し、何とも場の悪い空気が流れ始めたのもつかの間、最初に頭を上げたのはおキヌだった。
「まあまあ、守役さんも目付さんも、そんなにして下さらなくても。お気持ちだけいただきますから、どうぞ頭を上げて下さいな。本当にもう、亭主も家内も揃って不調法でお恥ずかしい限りです」
慣れた態度と口調で、おキヌは二人に頭を上げるよう促す。亀の甲より年の功とはよく言ったものだ。相手に恥をかかせないよう、言動に機転が利いている。
そこまで言われては、これ以上頭を下げているいわれがない。不承不承あかねは頭を上げると、ノリトの方はもう普通の姿勢に戻っていた。彼の切り替えの速さに何となく納得がいかないあかねだが、それをここで口にしないくらいの道理はわきまえている。
「それで、ご主人の容態は?」
ノリトが尋ねると、おキヌは首を左右に振る。
「容態もなにも、健康そのものですよ。一日中遊んでから家に帰って、大飯かき込んで、風呂に飛び込んで、ようやく布団に入ったいたずら坊主みたいに、側で何をしようと寝腐ったままさ。のんきなモンだねェ」
呆れた様子でおキヌは息を吐く。現在街角組合の運営は、彼女に一任されているのだろう。
「でもそれは……」
「イタリアから来たお隣さんに撃たれた、麻酔弾のせいだってことくらいは知ってるよ。でもねェ、ハンゾーから聞いたけど、お隣さんに会うなり喧嘩をふっかけるようじゃ、半分は身から出た錆さね」
まったくジェーニョ兄弟を悪く言う様子もないおキヌに、不思議になったあかねは会話に加わる。
「おキヌさんは、ジェーニョ兄弟は嫌いじゃないんですか? カゲフサさんは、自分の縄張りの真ん中でいきなりファミリーを作られたから、ものすごく怒ってましたけど?」
「ほら、昔から言うじゃないか。盗っ人にも三分の理って。どういう理由かは知らないけど、一度ぶしつけなことをされたくらいで逆上するようじゃ、お里が知れるってモンだねェ」
親分の妻だけあって、おキヌの度量は相当広いようだ。
「因果応報。善因善果。悪因悪果。悪いことをすりゃあその分身に返る。逆によいことをすりゃあ、お天道様が見ていて下さる。そもそも、あたしたちは仁義が命のネコさ。喧嘩に強くて面子を守るだけが仁義じゃないんでねェ。相手の不作法に、笑って受け流すくらいの侠気は見せてやらなきゃ」
ジェーニョ兄弟たちに対して徹底抗戦の構えを崩さなかったカゲフサに対し、おキヌはまるで違った対応を取るべきだと言っている。
「そりゃあ、いきなりうちの亭主に弾丸ぶち込むような輩はとんでもないと思っているさ。でも、何も本物の鉛玉を撃ってきたわけじゃないんだ。相手の理だって聞く余裕くらいは持ち合わせているつもりだねェ」
そう言うと、おキヌは自分の湯飲みからほうじ茶を一口飲む。
「あたしだって、若い時分はずいぶんあくどいことをやったさ。仁義にもとることだって何度もやらかしたし、年かさの親父さんたちの仏心を裏切ったのだって一度や二度じゃない。もしマサムネさんやそのご兄弟に責任取れって言われたら、あたしはとうの昔に絶縁されてるねェ」
何やらきな臭い話をおキヌはする。今の彼女の、穏やかで芯が通った雰囲気からは考えられない過去だ。
「どんなこと、おキヌさんはしてきたんです?」
「知りたいかい? あたしはこう見えても昔は『般若のキヌ』って呼ばれてたンだよ。それっていうのもねェ……」
と、言いかけてからおキヌは口を閉じる。さすがに気恥ずかしくなったようだ。
「まあ、やめておくよ。守役さんの教育に悪いし、あたしだってきまりが悪い。古傷を抉るのは勘弁しておくれ」
そういなされては、あかねとしても追求はできない。
「仏の顔も三度まで。一度や二度の無礼程度で額に青筋立てるようじゃ、男の器としちゃあちょいと物足りないねェ。こうやって喧嘩の果てに寝込むことになっても、仕方ないことさね」
あくまでもおキヌは、今回のカゲフサの醜態を自分自身の責任だと言って引かない。
「でも、私だって守役ですし、ノリト君だって目付です。カゲフサさんが私の知らないところでひどいことになったんじゃなくて、私たちがいる場所でいきなり撃たれたんですよ。私だって、何かできたはずなのに……何もできませんでした」