街角組合親分襲撃事件についての詳細(その1)
バッティング場には、隣接するようにして休憩スペースが設けられている。家族連れもよく利用するせいか、全席禁煙の喫茶店のようなデザインだ。二人と二匹は、そこでほぼ向かい合うような形で席に着いていた。テーブルは丸い形をしているが、それぞれ何となくあかねとカゲフサが、ノリトとハンゾーが顔を合わせる形になっていた。
あかねのすぐ脇にある窓からは、今もバットを手にボールと格闘する人たちの姿が見える。周りを見ると、同じようにして椅子に座り、会話を楽しんでいるカップルや三世代の家族もいた。当たり前だが、こうやって人間サイズのネコと、二本足で立つ普通サイズのネコと一緒にいても、誰も不審がることはない。
あかねたちを、周囲はいったいどのような関係に見ているのだろうか。赤の他人が意気投合しているのか、それとも両親の友人か親戚に連れられてここに来たように見えているのか。いずれにせよ、一般人はあかねやノリト、そして何よりもカゲフサやハンゾーをただの人間かその類にしか見ていない。黙っていれば注意さえ払われないのだ。
もちろん、こちら側から働きかければ、何らかのアクションを取ることはできる。事実カゲフサたちは何食わぬ顔で人間に混じり、バッティングで汗を流していたし、今テーブルには四人が注文したドリンクとアイスクリームがある。ドリンクは、カゲフサがホームランを打って手に入れたメダルと引き替えに注文したものだ。
「まあ、守役さん、御山の若いの。何はともあれ、こいつを見てくれよ」
コーラを飲み終えたカゲフサが、アロハシャツの胸ポケットを探ると、一枚の写真をテーブルの上に投げるようにして置いた。その写真に、あかねとノリトは同時に目をやる。
「なんだこいつら。頭でもおかしくなったか?」
ノリトが軽蔑しきった声を出すその横。
「あーっ! この人……じゃなくてこのネコさんたち知ってる!」
大声を上げただけでなく、写真を指差してまでして、あかねが内心の驚きを余すところなくアピールした。そこにはネコではなく、一見すると二人の人間が写っている。しかし、もう一度見直すとおかしな事に気づくだろう。
まずその頭部。二人の頭からは、動物の耳がにょっきりと生えている。その形はネコだ。二人の尻からも、やはりネコらしき尻尾が生えている。人間の耳がどうなっているのか、そしてズボンがどうなっているのかまではよく分からない。一見すると、ネコのパーツをつけたいわゆるコスプレというものに興じているようにも見える。
二人のポーズもそうだ。明らかにカメラを意識し、両手をネコパンチを繰り出す直前のネコのように縮め、あざとい仕草でこちらに挑戦的な笑顔を向けている。
――ただ。ただ、それがサングラスをかけた、ヒゲと体毛が非常に濃い男二人なのが問題だ。どうしようもなく気色悪いポーズだ。道ばたでこんなことをやったら、警察か救急車を呼ばれかねない。
どうやら、二人は浴びるほどに飲んだ状態らしい。どこかの室内と思われるそこには、テーブルにも床にもおびただしい量と種類のアルコールの瓶と缶が転がっている。日本酒、ビール、ワイン、ハイボールにチューハイ。紹興酒もあればカクテルやアブサンまである。二人はいい感じにできあがった勢いで、そんなふざけた写真を撮ったようだ。
もうお分かりだろう。写真に写っていたのはジェーニョ兄弟である。よく見ると、ソファや床には大の字になって伸びているネコも何匹かいた。二人と一緒に痛飲した結果、先に轟沈したようだ。酒宴は、全員の理性を酒と一緒に押し流した。ネコたちはごろ寝をし、ジェーニョ兄弟は人間の化けの皮が剥がれかけ、人とネコのハーフになっている。
「ニャんだと!」
興奮のあまり、普段は使わない「ニャ」が口に出てしまい、しかもそれに気づく様子もなくカゲフサは立ち上がる。
「も、守役さん! まさかアンタ、こいつらに肩入れしているんじゃ、な、ないだろうニャ!? ニャあン!?」
返答次第ではただでは済まさん、といった勢いでカゲフサは詰め寄ると、あかねの肩を両手で鷲掴みにする。
「――落ち着いて下さいよ」
あかねがカゲフサの乱暴に目を見開くのとほぼ同時に、そのカゲフサの手に巻き付くものがあった。
「そっちがなんで怒っているのか知らないし興味もないですが、守役に手を出されるのは見過ごせないんですよ」
隣のノリトが、刺すような三白眼でカゲフサを睨みつけていた。言葉こそ敬語だが、口調は慇懃無礼極まる。
自分の椅子から立ち上がらず、ノリトは文字通り指一本動かしていない。ただ、稲妻のような勢いで伸びた彼の尾が、カゲフサの腕を縛り上げていた。それ自体が一匹のヘビのようだ。彼らヘビの化外は、細身の外見に似合わず異常な怪力である。ノリトもそれに違わない。その気になれば、カゲフサの太い腕を枯れ枝のようにへし折ることだってできる。
守役の目付であるノリトは、半ばあかねのガードマンのような役割だ。元々目付は守役の監視役だったのだが、今はその補助を買って出ている。ましてやあかねのような子供には、ノリトのような化外が必要だ。何かあった時、あかねの身を守るようノリトは大社から命じられている。そして同時に、彼女を見張るようにとも。
カゲフサの燃えるような憤怒を宿した視線と、ノリトの冷めきった酷薄な視線とがぶつかり合い、一瞬だけ火花を散らした。けれどもそれは一瞬だ。一度大きく息をつくと、カゲフサはあかねの両肩から手を離した。それと同時に、赤銅色の尾は滑るようにしてカゲフサの腕からほどけ、ノリトの背の中に仕舞われていく。
「あかね」
突発的な事態に、何のアクションも取れずにいたあかねが、自分の名を呼ばれてノリトの方を見る。
「違うだろ。別に、肩入れなんかしてないよな」
「うん、そうだよ。この人……ネコ? まあいいや、とりあえずこの人とは、少し前に学校の帰り道で会っただけ。イタリアから引っ越してきた化外だってことしか知らないよ。それだけ」
そう言われては、カゲフサとしても引き下がらざるを得なかったようだ。
「ま、まあ、守役さんがそうおっしゃるならば、信用しようじゃないか。そっちの顔を立てて」
不承不承、カゲフサは席に着く。警護の役をしっかりと果たしたノリトだが、一方カゲフサの側にいたハンゾーは、我関せずとばかりにバニラアイスをおいしそうにペロペロ舐めている。
「何だっけ? ジェーロ? ジェーノ? そんな感じの名前だったなあ」
「ジェーニョだ。ジェーニョ兄弟、そう連中は名乗ってる」
「そうそう! そうだったね。そんな風に自己紹介してたっけ。でもカゲフサさんはどうして知ってるの? 知り合い? お友だち?」
あかねは先程のカゲフサの剣幕から何も読み取らず、無邪気にそんな問いを投げかける。
「ふ……ふふ…………と、友だちか。友だち…………」
あかねにそう言われて、カゲフサは肩を振るわせる。虎の尾を踏んだらしい、と思ったのか、ノリトの背から再び尾がせり出し始めた。さりげなくノリトは体をあかねの方に寄せて、何かあったらすぐに反応できるような位置を取る。
「そんなわけがあるかニャァァァアアアアア!!」
再びカゲフサは椅子を蹴立てて立ち上がると、天井を見上げて絶叫する。
「奴らはな……奴らはなぁ…………よりによって、よりによってぇ…………」
ゆらゆらと上半身を揺らしつつ、カゲフサはネコの手でありながら両手をしっかりと握って指を組み合わせると、頭上に振り上げる。
「この! 俺の! 縄張りの中で!」
身もだえするようにしてカゲフサは吠えた。それだけでなく――――
「俺の! 目と! 鼻の! 先で! 奴らは自分の組合を立ち上げたんだニャァァァァァアアアアアアアッッッ!!」
カゲフサは腹の底から怒声を吹き上げるや否や、高々と振り上げた両腕を打ち下ろした。
凄まじい音を立てて、カゲフサの組まれた両手の拳がテーブルにぶつけられた。その渾身の打撃を受けたテーブルは真っ二つに叩き割られ、周囲に木っ端が飛び散る。それなりに頑丈な木製の家具を、このネコの化外は拳の一撃で破壊したのだ。大の大人でもそんなことは不可能である。さすがは人間サイズのネコだ。筋力が人間とは桁違いである。
「フーッ……フーッ……フーッ……」
なおも怒りが収まらないのか、悪趣味なアロハシャツからのぞく両腕の毛を逆立てて、カゲフサは唸る。口からもれるそれは、路地裏で相手を威嚇する野良猫のボスそのものの声だ。その横で、それまで我関せずを決め込んでいたハンゾーがひっくり返って痙攣している。まともにボスの怒気を浴びたせいだ。
「随分とおかんむりだな」
いつの間にか、両手と尾にドリンクとアイスクリームを抱えたノリトが冷めた口調でそう言う。体の位置はカゲフサとあかねの間だ。さすがにこの二人も、テーブルが真っ二つに割れた時には立ち上がって後退している。
「お前には分からんのか。え? 若造。俺の縄張りを土足で踏み荒らされるこの屈辱がなあ。なぁ!?」
胡乱な目でカゲフサはノリトを睨む。
「分からんわけじゃない。俺だって、知らん奴が我が物顔で御山に居座るようなら腹くらい立つ」
「あんたのところはハクメン様がいるだろ。あの御方がおられる限り、そんなことは起こらんさ。だが、俺のところは違う」
カゲフサはどっかりと椅子に座り込んだ。
「あかね、大丈夫か」
その様子を横目で見つつ、ノリトはあかねに耳打ちする。
「うん。ちょっとびっくりしただけ。あんなにネコさんが怒ってるのを見るのは初めてだったから」
脳天気極まるあかねも、さすがに今回はちょっと驚きを隠せないようだった。
「でもありがと。ガードしてくれたんでしょ」
そっと、あかねの指がノリトの上着の裾をつかむ。
迷子の子供が、親を見つけたかのような仕草だ。
「俺は目付だ。それくらいのことはする」
「バスケのディフェンスみたい」
「そう思っておけ。得意だろ?」
「うん、それなりに」
あかねは小さく笑う。神経が図太くて万事においてお気楽なあかねだが、やはり中学二年の女の子である。ノリトの後ろにいる彼女の体は、年齢相応に小さくてか細い。
怒りをぶちまけたカゲフサは、その場で水でも浴びたかのように頭を振るわせてから下を見る。
「おい、ハンゾー。……ハンゾー?」
それまで白目をむいて痙攣していたハンゾーは、カゲフサの言葉で正気に返ると立ち上がって周囲を見回す。
「……ニャッ!? ボ、ボクは今までニャにを?」
「ほら、後でこいつで弁償しておけ」
お札で膨れ上がった財布を取り出すと、カゲフサはハンゾーに渡す。ちゃんとテーブルを弁償するつもりらしい。
「ニャ。分かりましたニャ」
両手で財布を抱えてハンゾーは背筋を伸ばす。どう説明するつもりなのだろう。まさか「親分さんがげんこつでテーブルを壊しちゃったニャ。お金払うから許してほしいニャ」と言うつもりなのだろうか。
もっとも、その説明でも何とか通じるかもしれない。人間は化外を、分厚いフィルターを介した状態で知覚している。常識的に受け入れられない説明でも、相手の人間は「そんなこともあるかもね」とぼんやりした感じで受け取ることだろう。事実、こんなことがあっても店員はおろか他の客も無反応だ。きちんとお金で弁償されれば、後腐れはない。
「……とりあえず、順を追って話そうか。座ってくれ」
どうやら落ち着いたようなので、あかねとノリトはクッションに付いた木屑を払ってから椅子に座る。全身全霊で怒ったせいか、カゲフサは一回り縮んだようだ。尻尾もだらしなく床に垂れている。さすがにやりすぎた、と自分でも思っているようだ。
あるいは、予定外の出費について細君に説明しなければならないと気づいたからか。カゲフサの妻は、おキヌという名前の三毛猫だ。気っ風のいい姐さんといった感じの、肝っ玉の太そうなネコの化外である。カゲフサは恐妻家ではないが、それでもおキヌには頭が上がらない。何しろキヌとは「鬼」が「怒」ると書いて「鬼怒」なのだ。
「そうだよ。こいつらはジェーニョ兄弟っていうネコの双子だ。少し前に、飼い主と一緒にイタリアから引っ越してきた若造どもさ」
「飼い主はレストランのコックさんなんだってね。一度行ってみたいな」
カゲフサの激怒を見たにもかかわらず、もうあかねはいつものお気楽な調子に戻っている。適応力の速さは驚くべきものだ。
「ははは、それだけなら、俺も苦労しないぜ」
もう怒る気力も失ったのか、あかねの言葉にカゲフサは力なく笑う。
「……で、そいつらが街角組合の新しいライバルになった、ということですか」
敬語に戻ったノリトが会話に加わる。
「そうだ。故郷がイタリアだろうがブルガリアだろうが知ったこっちゃねえ。この町では俺たちの流儀に従ってもらう」
カゲフサが目を光らせる。気力が萎えたとはいえ、彼はボス猫である。
「別に従うって言っても基本的なことだけだぜ。派手な喧嘩はしない、飯の独り占めはしない、他の化外にむやみに喧嘩を売らない。フリーのネコどもに言うのはこれくらいさ。別に組合に入れって強制もしねえ。この町には街角組合や駅前組合に所属しないネコも多いだろ?」
カゲフサの言う通りである。いくら鬼灯町の化外たちの治安がおおよそネコたちによって維持されているとは言え、すべてのネコが街角組合と隣の駅前組合に属しているわけではない。組合によって維持される縄張りの中で、緩やかな結束を楽しみつつ気楽に生きているネコが大半だ。
実際組合に入ると、衣食住の保証や新しい仲間ができるというメリットはあるが、逆に組合の掟に縛られる。たとえば縄張りがそうだ。ネコだけあって、組合は縄張りについてだけは非常にうるさい。街角組合のネコが、勝手に駅前組合の縄張りに立ち入ることはできない。きちんとした手順を踏んで、向こうの組合に許可を取る必要がある。
実際はこそこそ陰に隠れてお互いの縄張りを行き来するネコもいるのだが、建前としては縄張りは絶対に不可侵であり、正真正銘の聖域である。
「だから、この二人が俺の組合に入らないのはまあ許せるさ。マサツナの組合にどうしても行きたいって言うなら、一筆したためて推薦してやるのだってやぶさかじゃねえ。だが、こいつらのしたことは違う」
「そちらの許可なく、自分たちの組合を立ち上げた?」
「ああ。つい先日のことさ。奴らは勝手に俺の縄張りの中で、ジェーニョファミリーって名前の新しい組合を立ち上げた。フリーのネコどもを集めてな。当然、奴らがボスさ」
ノリトにそう言うと、カゲフサは写真を床から拾い上げ、くしゃくしゃに握り潰してポケットにしまう。
無許可で組合を設立。それがどれだけの不作法か、あかねには理解できるような理解できないような、複雑な心境だった。ちょっとくらい縄張りの中で間借りさせてあげてもいいのに、と個人的には思うのだが、そう言うとまたカゲフサがかんかんに怒るに違いない。よく分からないが、縄張りというものはそこまでネコたちにとって重要なもののようだ。