終戦
ロータスは折れた腕をぶらぶらさせて、暗闇の廊下を走り抜けていく。俺も走って追いかけたいが、足が上手く動いてくれない。ガラスで切り裂かれ、熱風に焼かれ、熱された床を踏んだ。無理をさせ過ぎたようだ。
何か使える物はないかと視線を巡らせると、廊下に設置された長方形のロッカーが目に入った。暴徒鎮圧用のガンキャビネットだ。開け方はアイアンワンドのおかげで分かっている。
俺は素早く暗証番号を打ち込み、中からポンプアクションショットガンを取り出した。備え付けのビーンバッグ弾(非致死性弾)を装填し、ロータスを撃つ。
弾はロータスの背中に当たって、彼女は衝撃に身体を床に投げ出した。そして逃げる事を忘れて、激しく悶絶した。
「いっぎゃあああ! にく! にくが! にくがとんじまったァァァ!」
ビーンバッグ弾に詰まっているのは、袋詰めされたゴム玉だ。そのゴム玉一発に、大の大人をのたうち回らせる力がある。死にはしないが、『死んだ方がマシ』なぐらい痛い。
俺は悠々と彼女の傍らまで歩いて、そっと囁いた。
「戦え」
「だずっ! だずげでぇ!」
ロータスは片腕で床を這い、俺から逃げようとする。
そうはさせん。俺は彼女の右の太ももを撃つ。ロータスは弓なりに身体を張って、痛みに転げ回った。
「あっ!? ああああ! アハ! あひぃぃぃ!」
ぷしっと、ライフスキンを浸透して、彼女の恥部から液が噴き出た。アンモニア臭はしないので、潮を噴きやがったのだろう。極限のパニックに陥り、薬のせいで快楽と苦痛がごちゃ混ぜになっているのだ。
この環境。懐かしい。人が壊れるこの環境。俺はそれを乗り越えてここまで来た。お前もそうなれば、俺を殺せるほど強くなる。
「戦え」
俺はロータスに顔を近づけて囁いた。ロータスは力なく首を、横に振るだけだった。
「もう勘弁してくれぇ……手が動かない……動かないんだよぉ……」
「ブチ殺がすぞ! 戦え! 戦えぇぇぇ!」
俺は言って聞かせてやらせても、抵抗できないロータスにキレた。ロクに動かない足を持ち上げると、それでがむしゃらにロータスを踏みつける。
「このクソ汚らしい腐れマ○○が! 俺を失望させやがって! 俺を失望させやがって! テメェが出来るって言ったから俺も乗ったんだぞこの詐欺師が! 俺を殺せるんだろ! 殺してくれよ! 殺してくれよ! 殺してくれよ!」
あらかた踏みつけ終えると、顔をロータスに近づけて反応を窺う。彼女は子供のように泣きじゃくっていた。
「えぐっ……うえぇぇぇ……たずけでぇ……だずけでぇ……だずけでぇ……」
「クソが」
もうこいつは駄目だ。他の獲物を探さないと。そのための餌にするか。
俺はビーンバック弾を、ロータスの健全な左足に撃ち込む。そして完全に動きを封じると、髪の毛を掴んで彼女を引きずり、エレベーターホールに向かった。
待てよ。何かが足りない。口が寂しい。臭いも変だ。
ああ! 俺は違和感の正体に気付き、ロータスの身体を漁って煙草を取り出した。アロウズが愛飲した、安物の煙草だ。一本咥えて、深く吸い込む。すると幻覚が俺を支配して、眼に見える現実を書き換えていった。
滑らかなアメリカドームポリスの壁は、錆と汚染物で汚れた物になっていく。場に漂う空気も、無色透明から不純物で軽く濁る物にとってかわった。そして俺の体。先ほどまで裸同然だったが、今では国連軍のライフスキンに身を包み、背中には二枚の旗を背負っていた。
捨てられた機動要塞の中、俺はリタの死体を引きずっている。
これだ。ああ。俺は戻って来れた。あの忌まわしき時間の中に。
誰か俺を殺してくれ。誰か俺を救ってくれ。俺が……あの愛しき裏切り者に辿り着く前に!
俺が監督区画前のエレベーターホールに足を踏み入れると、スピーカーで誰かががなり立ててくる。
『サー! もうおやめください! マム・ロータスは戦意を喪失しております! ここからは理性的かつ文化的な処置を施すべきであります! それが今までサーが為さってきた事であります! ご自分をお棄てにならないで!』
幻聴だ。気にすることはない。そこに俺のリアルはないのだから。
俺はリタのライフスキンを剥いで全裸にし、彼女のロープで亀甲縛りにする。そして天井にロープを投げて、釣ってある照明に引っ掻けた。
『サー! これ以上の過剰な暴力に、一体何の意味があるのでしょうか! それに意味がないと説いたのは、サー本人で御座います! これ以上道を踏み外すのはおやめください!』
俺は天井から垂れ下がったロープを引っ張り、リタを宙に逆さ吊りにした。リタはまるでミノムシみたいに、宙でもそもそともがいた。
驚いた。銃口を咥えさせ、弾丸を食らわせたのに、まだ生きているらしい。見たところ薬が完全に回り、痛みと快楽の狭間で、幻想に溺れている様子だ。口角からだらしなく涎を垂らし、明後日の方に視線を向けて、彼女は小さい呻き声を漏らしていた。
『マム! マム! お助け下さい! サーをお助け下さい!』
幻聴がうるさい。一服して落ち着くか。俺は煙草を二本、三本と根元が灰になるまで楽しんだ。
さてどうしようか。こいつを上手く使って、アロウズを引っ張り出さないといけない。だが奴は女を一人切り刻んだところで、ノコノコ出てくるような奴ではない。
でもあいつらの仲間は違うはずだ。この時代には珍しく、上品な奴らが多かったからな。きっとリタに悲鳴を上げさせれば、飛んでくるに違いない。あいつらはクソ強い。俺を殺してくれるに違いない。
この四本目の煙草を吸ったら、リタをいたぶることにしよう。
俺が咥えた煙草をマッチで炙った時、エレベーターで物音がした。俺が視線をやると、ちょうどエレベーターボックスの上から、アジリア、アカシア、プロテアが飛び降りたところだった。彼女らは鉄パイプやワイヤーで、拙く武装していた。
アカシアは俺を一目見ると、眼に涙を貯めながら突進してきた。
「ナガセ! ナガセぇぇぇ!」
アカシアが俺の背中に手を回し、腹に顔を埋めながら、きつく、きつく抱きしめてくる。
俺はそれに、何も返すことはできない。
俺は混乱している。だっておかしいじゃないか。何でこいつらがいる? 俺の味方はいなかったはずだ。俺を止めてくれる人も、俺を救ってくれる人も、何もなかった。
だから俺は全てを棄てて、戦う事が出来たんだ。
「アイアンワンドが助けてくれっていうから、やられかけてると思ったんだぞ! やっつけたんだな……うぉっ! お前何してンだこれ……」
アカシアに続いて、プロテアが近づいてくる。彼女は俺を見て胸を撫で下ろした後、宙吊りにしたリタに気付いて声を上ずらせた。どうやら引いているようである。
「気絶できないようにしている。これからいたぶるのでな」
逆さづりは頭に血が上るので、気絶しにくくなる。そして亀甲縛りは安定するし、何より吊る人体に負担をかけにくいのだ。
「いたぶるって……もうやっつけたんだろ……抵抗できない奴……なぶる意味があるのかよ……?」
プロテアが狼狽えて、か細い声で言った。
「いや……まだだ……まだ奴らの仲間がいるはずだ……こいつを餌におびき寄せる。危ないからお前らはまだ隠れているんだ」
「奴らって……マシラか? ジンチクか? じゃあ早く避難しようぜ。そうして餓死させりゃ安全だ。ロータスを餌にする必要なんかねぇだろ」
何を訳の分からない事を言っている。こいつはリタだし、汚染世界にマシラだのジンチクだのがいる訳ない。ああ成程。こいつはここに留まって、拷問を見る口実が欲しいのか。
プロテアと問答を続ける内に、エレベーターボックスから女たちが、次々に飛び出して来る。サン、デージー、ピオニー、ローズ、マリア、そしてパンジー。各々が武装しており、険しい表情で辺りを警戒している。だが俺の姿を認めると、武器を投げ捨てて駆け寄ってきた。
彼女たちもプロテアとアカシア同様に、俺と宙吊りにしたリタを交互に見やる。そして安堵と恐れが入り混じった顔をした。
「貴様らも見たいのか? 好きものだな」
俺は苦笑しつつ、煙草の火ををリタの腹に押し付けて消した。彼女は屠殺される前の豚のような悲鳴を上げ、激しく身をよじらせる。俺はその滑稽さに、笑い声を漏らした。
プロテアが怖気に、全身の毛を逆立てた。俺に抱き付くアカシアも、あり得ないものを見たように呆然自失となっていた。
「やめて……!」
アカシアがぼそりと呟く。
「ああ? 何故だ? 好き勝手やられただろ」
「そう! だけど……間違ってるよ……そんなのナガセのする事じゃないよ……」
楽しみに水を差された事で、俺の声は無意識に苛立った。アカシアは一瞬怯んで身を縮めたが、恐る恐る顔を上げて諭してきた。
「殺すのは痛くて苦しいことでしょ……される方も……する方も……ナガセがピコと一緒に教えてくれたことだよ……ナガセはそんなこと絶対しないよ! しないよぉ!」
何血迷って、処女のママゴトみたいなことを言っているんだか。
「知るか」
アカシアは首を激しく振る。そして俺に爪を立ててしがみ付いてきた。
「知ってよ! 命を使ってやった事だよ! 僕たちはそれが正しいと思って、一生懸命生きてきたんだよ! それを壊したら……! やめて! ロータスを殺すのは仕方ないよ! でも苦しませるのは止めて!」
俺はイラッとした。そもそもこうせざるを得ないのは、お前らが弱いままだからなんだぞ!
アカシアの首根っこを掴んで、俺から引きはがす。そしてビンタをお見舞いして張り飛ばしてやった。
「やかましいアマだな殺すぞ! いいか俺はこうして化け物になった! 同じことをすればこいつも化け物になるさ! そうしたら俺を殺してくれるかもしれないんだ! テメェらが出来ない事をしてくれるかもしれないんだ!」
アカシアは床に倒れて、顔を押さえて号泣する。周囲で彼女たちの驚きの悲鳴が上がった。うるさい。本当にうるさい女だ。こいつも宙吊りにしてやる。いやもうメンドクサイ。皆殺しだ。俺はアカシアに向けて一歩踏み出した。
途端。頬を殴られた。踏ん張って倒れる事を拒否し、殴った人物と向き合う。そこには我らが隊長、アロウズ・キンバリーがいた。
「アロウズ! 貴様ァァァ!」
俺はアロウズを絞め殺すため、掴みかかろうとする。そして俺の手が首にかかった時、彼女は叫んだ。
「私はアジリアだ! もう終わったんだ! いい加減にしろ!」
彼女はもう一度、俺を殴った。そして俺が再び彼女に視線を戻した時、世界は一変していた。
周囲の環境が、棄てられたドームポリスから、アメリカドームポリスに戻ったのだ。
壁からは汚れが剥がれ落ち、安物の煙草の臭いが少し晴れた。汚染で濁っていたはずの空気も、浄化された綺麗な物に変わっている。そして何より、目の前の人物がアロウズから、アジリアに変わっていた。
俺の手は彼女の首にかかったところで、完全に止まる。アジリアはそれを、埃を落とすように払い、俺に凄んできた。
「助けてくれたのは感謝する……だがこれ以上は止めろ! お前が何をしたいのか、お前が何を求めているのかは知らん! 知ったことか! 好きにすればいいさ! だが我々を巻き込むな!」
俺は睨む彼女の視線に応える事が出来ずに、思わず視線をそらせてしまった。
アジリアの言う通りだ。俺は一体何をしようとしていたのか。身体中に満ち溢れていた怒気が、嘘のように霧散していく。あとに残ったのは感情の燃えカスである、酷く無気力な自分だけだった。
戦闘で極限状態になり、幻覚に呑まれ、怒りに身を任せた――のだろう。
忸怩たる思いに顔を伏せる。しかしこれが俺だ。開き直るようだが、俺は変えられないし、変えるつもりもない。過去は俺を掴んではなさいし、俺自身過去に囚われているからだ。そして過去は、俺を狂気に駆り立ててくる。
なら過去を清算するにはどうしたらいいのか。俺が犯した罪科に相応しい、罰を受けなければならない。冬に決めたことだ。俺は彼女たちとは生きていけない。
どう罰を受けるのか。俺は――薄汚い下劣で非道な腐った犯罪者として、ドブに埋もれた糞のような死を――皆が笑い蔑み清々するような惨めな死を――そのためには誰かに憎まれ、蔑まれ、そして嫌われないと――
彼女たちとは生きていけないからといって、勝手過ぎやしないだろうか。
でもそれ以外にどうすればいいのか、俺には見当もつかん。
巻き込むなか……至極真っ当な意見だ。
「気は済んだか……?」
物思いに沈んだ俺を、アジリアの声が現実に引き戻した。
「今俺を煽るのを止めろ」
俺は呟くと、アジリアに背を向けた。そして宙吊りにしたロータスを注意深く降ろし、そっと床に横たえた。
ロータスは完全に薬が回り、能面のような顔を唾液と涙で濡らしていた。両太ももはビーンバックで撃たれて、内出血でどす黒く変色している。胴体も踏まれまくったせいで、そこら中に青痣が浮き、腹には煙草のやけどの跡があった。
だと言うのに。彼女は乳首を硬く勃起させて、興奮していた。
やり過ぎた。
「アイリスは……サクラは死んだのか?」
俺は姿が見えない二人の名を上げる。それにパンジーが応える。彼女は猜疑心と敵意に細った眼で、俺をエレベーターから見つめていた。
「アイリスは。リリィとサクラ。付きっきりで見てる。パギも一緒」
「アイリスの所に連れていって、治療してくれ。拘束はいらんが、見張りをつけろ」
誰もが微動だにしない中、アジリアとローズがロータスにとびつく。そして二人で肩を貸して、ロータスをエレベーターホールから連れ出した。アジリアには、彼女なりの考えがある。そしてローズは誰よりも優しい。それだけの理由だろう。
次に俺は床に伏せって、泣きじゃくるアカシアに目を移した。謝らないと。だが彼女にどんな声をかけられると言うのか。殴ってすまなかった? 気が立っていた? 全部汚い言い訳だ。
俺はアカシアを慰める代わりに、先程まで吸っていた煙草の箱を、皆に見えるよう高く掲げた。
「貴様らも成長した。好きに煙草を吸えばいい。酒も飲めばいい……だがな!」
箱を思いっきり握りつぶす。そして地面に叩き付け、踏みにじった。
「この銘柄だけは止めろ! 安物だ! 吸い過ぎると馬鹿になるぞ! これ以上馬鹿になっても知らんからな!」
俺の罵声に、彼女たちは数歩俺から後退った。
これ以上ここにはいられない。早く逃げたい。狂った自分をさらしたくない。俺は踵を返すと、監督区画の方に足を向けた。
「ロータスは後で処刑する。俺は戦後処理のち治療する。各自安全な場所で楽にしろ」
返事は待たない。ぼろぼろの足を可能な限り早く動かし、この場を後にする。誰も俺に肩を貸そうとも、呼び止めようともしなかった。ロータス以下の扱いだ。仕方あるまい。そしてそれでいい。
『サー……』
唯一アイアンワンドが語りかけてくる。だが惨めなだけだ。
「黙れ! 喋る暇があったら、さっさとアカウントを正常化し、戦後処理を始めろ!」
『サー……イエッサー……既存最上位アカウントの削除を開始。アイアンワンドが再び全権を掌握し、そのアカウントをサーに割り振ります』
こうしてロータスの反乱は、幕を下した。




