残滓ー2
真っ白な壁。真っ白な天上。真っ白な床。
私を塗りつぶして存在を上書きしてしまいそうな、色彩の暴力に囲われていた。
どうして私と言う存在が、この城の中で耐えていられるのか。
染み一つない白衣を纏い、純白の調度品を使うことで、白の一部になって誤魔化しているからだ。
簡単な理屈だ。恐怖を克服するには、恐怖そのものになればいい。応用するだけ。私は圧倒的な白の一部に身をやつすことで、辛うじて自我を保っているのだ。
私は白いテーブルが整然と並ぶ談話室で、朝食の載ったトレイを前にしていた。室内は雑踏と騒めきで満たされている。白衣の人々が行きかうことで、反射光が時折目を刺すのが痛かった。
とても。懐かしかった。
ふと我に返る。あれ。私は何をしているんだっけ。
確か――AEUと交渉をしていて、条件に病気を患うことが含まれていて――そうだ!
タイプジョーカーに感染したんだった。という事は、これが例の明晰夢か。
苦汁を含んだように、口元が歪むのを感じる。
明晰夢には、変な女が出ると聞いた。その変な女とは私のことか。こいつはとんだハラスメントだな。
ナガセに人望がないと指摘された上で、流石にこの扱いは舐められすぎだ。目が覚めたら、ふざけたことをぬかした連中に、ガツンと言い返してやろう。舐められっぱなしだと段々エスカレートして、虐めには際限がなくなる。ユウがそう言っていた。
ユウ? そう言っていた? いつ? どこで?
疑問が脳裏をかすめると同時に、周囲の景色が歪んで変化していく。
目に痛い白は、不安を煽る薄暗闇に。広い談話室は、狭苦しい物置へと変貌する。
私はと言うと、隅っこで組み敷かれているのだった。
化け物が私にのしかかり、股を割って入り込んでいる。下半身がずきずきと痛むのに対して、上半身は抜け殻みたいに何も感じなかった。
快楽はもちろんのこと、恐怖すらも。何も、感じなかった。
頬を軽くはられた。私が人形のまま無反応でいると、化け物が舌打ちをした。
「何とか言えよ。つまらないぞ」
化け物の背後では、もう一匹が見張りをしている。遠巻きに眺めながら、苦笑しているのだった。
「ギャーギャーうるさいよかましだぞ。大人しくさせるのに、だいぶ手こずったからな。首を絞めるといい。痙攣して具合が良くなるから」
「そうなのか?」
化け物の手が、私の首元を這った。色白だが、ごわごわした手。私たち女とは、構造から違う手。嫌悪と忌避感に、喉元が引きつった。
嫌いだ。これだから男は嫌いだ。
見張りが小馬鹿にするように、忍び笑いを漏らした。
「これだから童貞はダメなんだ。そのナードで練習するといい。俺たちセントラルの人間が、病気を気にせず抱ける数少ない女だしな」
「分かった。首を……絞めるんだな……」
おい。いったい何をするつもりだ。それは殺す手つきだろ。化け物の奴何を思ったのか、指の腹で気管を圧迫するのではなく、親指で喉を押さえつけやがったのだ。
化け物と体の間に腕を割り込ませ、足をじたばたさせるが、ろくな抵抗にすらならない。意識にはすぐ霧がかかり、全身から力が抜けていく。
「あ。こいつちびりやがった」
「気にするな。どうせシャワーを浴びるんだ」
「そうだな……」
死ぬ。そう思って、諦めた時だった。
薄れかけた意識がハッキリするほど、凄まじい衝撃音が響いたのだった。
私の止まっていた時間と呼吸と血流が、化け物が身を起こすと同時に再開する。私が激しくむせ、せき止められていた時間を取り戻すのと反対にだ。化け物たちは固まって、倉庫の戸口を注視しているのだった。
ペタ。ペタ。と、色気のないスリッパを履く音が、ゆっくりと近づいてくる。やがて闖入者の影が、後光を受けて私に覆いかぶさった頃だった。
見張りの男が、どこかほっとした様子で言った。
「キサラギ博士か。こんなところで何をしているんだい。おっと。俺らのことは気にしないでくれ。親睦を深めているところでね」
違う。と、言いたいが、それだけの気力は残っていない。逆らったらもっと酷い目にあわされるし、闖入者は興味本位で覗きに来た『化け物』かもしれないのだ。前者なら苦痛が増えるだけで済むが、後者だと……順番待ちに並ぶに決まってる。勘弁してほしい。
闖入者はしばらく黙り込んで、つぶさに観察しているようだった。やがてフンと鼻を鳴らして笑うと、吐き捨てるようにして言った。
「どーでもいいけどさー。合意なの? それ」
見張りも負けじと、侮蔑のこもった声色で返す。
「君に関係あるかい?」
「うるせェ悲鳴が聞こえて、研究に差し支えるのよねー。だから気になってさァ」
ペタシ。スリッパの足音が、一歩私に近寄った。
「あんたらがテクナシのボケなのか。それとも無理やりヤってんのか」
化け物が挑発にイラついたのだろう。私から離れて、闖入者の方を向いた。
「おいイエロー。相手して欲しいんだったら、実験動物のケージで待ってろよ」
「黙れよピーナッツ。粗末なもん見せんな。私はそいつに聞いてるのよ」
ペタシ。一歩。もう一歩。足音が近づいてくる。途中で威嚇するように、電撃が空を切り裂く音がした。それからさらに足音が近づき、目の前の床を、足先が丸出しのラフなサンダルが踏んだ。
女の人だけど、きっと変人だろうな。だってこんな妙なスリッパ履いている上に、靴下を履いてないんだもの。何を考えているんだか。
彼女は私の顔をじっと覗き込むと、手にしたスタンガンをぶらぶらさせながら聞いてきた。
「どうなのよあんた。こいつら。テクナシのボケなのか。無理やりヤられてんのか」
影になって顔が見えない。ただ黒檀の長髪がさらりと揺れて、心地よい芳香を運んでくる。私は現実逃避をするためだけに、独特の芳香に酔いしれた。
私が言葉に応じないでいると、女の人は舌打ちをした。汚物から逃げるように顔を背け、立ち上がって距離をとったのだった。
「そ。あんたが変態なら邪魔して悪かったわね。こんなクッセェところ、来るんじゃなかった」
ペタ。ペタ。足音が離れていくと同時に、優しい香りが霞んでいく。一時期とはいえ、安らぎをくれた匂いが薄れ、私はとてつもない焦燥感に襲われた。
「まっ……待って……」
光に消えゆく背中へ向けて、救いを求める手を伸ばす。
一瞬。化け物たちが怒り狂って、二人まとめて襲われるのではないかと思った。だけど二匹ともが怒気を蓄えるだけで、爆発させることができないでいた。その事実が、私に更なる勇気を与えた。
「た……たすけ……」
言葉にしてハッキリと告げると、スリッパはやや駆け足気味に戻ってきた。細い腕が私を包んで、優しく抱き上げてくれる。女の人はそのまま私の盾になると、きつい口調で吐き捨てた。
「だってさ。どうする? このままだとセキュリティ呼ぶけど? 賢いなら言い訳考えるより、逃げた方がいいってわかるでしょ。とっとと消えろよバーカ」
舌打ちと、唾を吐く音がする。それから衣擦れ、ベルトを締める音、水の滴り、革靴の固い響きが続き、締めくくりに捨て台詞が残された。
「ユウ。覚えていろよ。お前を諦めたわけじゃないからな」
「気安くファーストネームで呼ぶな。やってみろよ。今度泡噴いて倒れるのは、どっちかしらね」
現場には、私と、女の人だけが残された。
改めて、闖入者の顔を観察する。至近距離で後光の陰影がやや薄れて、その相貌が朧気ながらに伺えた。眉間に皴の寄った険しい目つきに、ムッスリと結ばれた口元。胸のプレートには2ブロック隣を拠点とする、新世代人功機開発チームのプレートが差し込まれていた。多分……わざわざ助けに来てくれたのかな……?
珍しい。セントラルでは少ない黄色人種だ。普通なら人種の見分けなんてつかないのだけれど、アニメ好きの私には何となく見分けがついた。その中でもさらに少ない、日本人だ。
本当に珍しい。日本人は周囲の数に圧倒されて、私みたいに陰気で、されるがままの人が多いのに。女の人は気丈に振る舞い、堂々と前を向いていた。
ハッとした。そう言えば、新世代人功機のコンペでは二躯が争い、勝ち抜いたドータヌキの設計開発者が招集された。確かその人は――その人は苦笑いを浮かべると、ため息交じりにこう言ったのだった。
「私もヤられそうになったのよ。日本人はちょろいからって。ふざけんな」
それが。私とユウの、出会いだった。




