到達ー7
「不破殿……俺は……どうなるんだ……」
不破の話が本当なら、俺の帰るべき過去は消失したことになる。それどころか俺は宇宙の輪廻から弾かれた、物理の迷子になってしまったのだ。ひょっとしたら……死は宇宙における、俺の存在消失になりうるかもしれない。さらに言えば俺の行動は、宇宙の摂理を破壊するかもしれないのだ。
この世界に降り立った時、胸に宿った不安を思い出す。
俺はこの世に存在していいのか。そして俺はとんでもないことをしているのではないか。
その疑念を晴らせそうな超常存在が、ちょうど目の前にいるのだ。聞くしかないだろう。
不破は俺が愚問を吐いたことに、軽い失望を覚えたのか。小首を傾げると、深いため息をついた。
「それはあなた次第よ。キョウイチロー。だってあなたは超絶希少な、自我を持ったエントロピニウムなのだから。あなたは好きなように未来を変えることができる」
「言葉遊びはやめてくれ。俺の脳は限界に近いのだろう。時間がないはずだ。俺は……どうするべきなんだ」
さっきから吐き気が酷い。身体も燃えるように熱い。幻想的な空間にいる浮揚感が、気だるさに代わって四肢を抑えつつある。
確信に近い予感がする。このままでは、俺の脳が駄目になる。
「だ か ら。それはあなた次第。エントロピニウムは、端的に言うと純粋情報。この世の時間と質量、そして事象の媒体なの。これ自体は珍しくない。あなたの世界の技術なら、磁気バリアを張った時にちょろっと出るからね。でもこれはね、エントロピーと明確に区別される」
「つまり……なんだ……?」
「エントロピーとは、ジェノサイドの流れに乗ったエントロピニウムのこと。ジェノサイドの制限を受ける。鉄が錆びるように、風が凪ぐように、水が枯れるように、必ずジェノサイドが定めた結果に向かって崩壊していく」
「ではエントロピニウムとはなんだ」
「エントロピニウムはジェノサイドの制限を受けない。制限の仕様がない。運命の流れに、本来存在しない存在なのだから。かと言ってエントロピニウム単体では何もできない。ジェノサイドの流れに乗っていないから、運命から疎外される。そして自発的に介入できないのだから、歴史に埋もれてしまう」
ふと、それまで目線を合わせていた不破が、自らを見下ろしていることに気づいた。
まさか――クソ! やっぱりか! 金属の甲板が泥沼みたいに歪んで、俺の足を飲み込んでいやがる。これの意味するところは恐らく、この世界に留まっていられないという事。俺はこの幻想世界から、弾き出されてしまう。
このボケアマ……俺にアロウズと無駄なお喋りをさせて、こんな重要な情報を最後に持ってきやがって。やっとすべき質問に、目途が立ったというのに!
焦る俺をよそに、不破は落ち着いて続けた。
「エントロピウムはせいぜい、『世界のある時間、ある場所にマーカーをつける』とか、『到達する可能性のあった世界を垣間見る』ぐらいしかできない。そう。自我を持たない限りには――ね」
不破はここで、羨望の眼差しで俺を見た。
「あなたは……自我がある。つまり唯一ジェノサイドに抵抗し、己の意思でそれを書き換えられる可能性がある。だからあなた次第。あなたの望むように、世界を変えて見なさい。最もジェノサイドは変化を嫌う。抵抗は覚悟しておくことね」
「だから! 俺に……何をしろと! 世界はほぼ終わっちまったんだぞ! 俺は何をすべきなんだ! 俺はどうすべきなんだ! 俺は――俺は――死んだらどうなるんだ!?」
甲板が俺を、腰の位置まで飲み込んだ。彷徨える魂が受肉したら、こんな心地になるのだろうか。精神が肉体の檻に閉じ込められることで、冴えわたっていた感覚が、血肉が放つ苦悩で押し潰されていく。
あ……頭が……割れるように痛い!
「くどいわね。さっき話したわよ。望むようにやりなさいな。ま。結果があなたの期待に応えるかどうかは、神のみぞ知るだけどね。それとね。あなたがどうやって死ぬかは知らないけど、あなたがジェノサイドに敗れた時どうなるかは想像がつく」
甲板が俺を胸まで飲み込んだ。底なし沼に囚われた子供みたいに、腕を遮二無二振り回して抵抗する。しかしながら身体は浮くどころか、大した助けにもならずに沈んでいくのだった。
「あなたはファイナルカウントダウン最終日、あの日、あの時、あの場所に戻るはずよ。新たに作られた宇宙の、『元の世界、元の時間、元の場所』へとね。ここ。分かりにくいけどね、『同じ質量を、同じ時間軸で、同じ過程で繰り返している』から、成立する事象よ」
俺はついに、首の下まで甲板に埋まってしまった。頭が痛い。身動きがとれん。呼吸が荒い。
身体が思い出したように激しい動悸を伝え、ビートに合わせて苦痛が駆け巡っていく。
同時に不破の声に混じって、聞きなれた『あいつら』の話しが耳朶を打つようになった。
『ど……どーすんだよ……マジで死んじまうかも』『縁起でもないこと言うな馬鹿!』『アイリスさ。ナガセが死んだらさ。殺してやるからね』『リリィ! こんな時に身内を責めるな!』『ダーリン死んだら教えてね。私独りで逃げるから』『ああ。行け。行け。この部屋から出ていけ!』『ね。大声出すなら出てってくれるかな。邪魔だから』
皮膚感覚が息を吹き返したのか、たくさんの手が身体をもみくちゃにする気配がする。一つ一つの手が、俺の身体を撫で、叩き、引っ張ることで、意識を現実へと誘おうとしていた。
頭が完全に沈み切る直前、不破と視線が合った。彼女は俺を見下ろして、ふっと笑みを浮かべたのだった。
「楽しかったわ。キョウイチローくん。頑張ってね」
俺の頭が甲板に沈み切り、視界は暗闇で閉ざされた。
瞬間。スイッチを切り替えるように、身体を包み込む暗闇が光へと変貌した。これは俺の想像だが、脳が処理する情報が、ニューロンの刺激から肉体の刺激に――不破の幻想世界から、俺の現実世界に、一気に切り替わったからではないかと、思っている。
顔を濡らす汗に邪魔されながら、ゆっくりと目を開いていく。そこには心配そうに顔を覗き込む、クロウラーズの姿があった。
俺は上半身をゆっくりと起こしながら、手探りでメモ帳を探した。夢ってやつは、どんな悪夢でも、時間と共に忘れてしまう。休むのは一言一句、残さず記録を取ってからだ!
メモ帳……この際だ、書ければ何でもいい。俺が包まっている、この汗まみれのシーツでも問題ないはずだ。後は書くもの……書くもの……頭が痛ェ……熱が酷ェ……吐き気が凄ェ……早く……早くしないとまずい。
アイリスが傍らで、俺の脈を計っている。その胸元にはペンが挟まっていた。おあつらえだ。
「ナガセ。動かないで――きゃっ!」
俺は乱暴にアイリスの胸からペンを抜き取り、シーツに文字を書き込んでいった。ああ。こういう時に、
生まれってやつが出るんだな。使い慣れた英語じゃなく、生まれ持った日本語を使ってら。
俺の周囲で、女の騒めきが激しくなる。
「な……なぁ……こんな時に仕事なんてやめろよ。お前すっごいうなされてたぞ」とは、プロテアの弁。「死んじゃうかと思った……無事でよかったよ……」と縋りつくのはリリィだった。「うっげぇ……文字書けてないじゃん……何この変な図柄……ひょっとして……ナガセ、パーになっちゃったんじゃ……」と言ったのは、恐らくサンだろう。
俺を取り囲む人の気配が一斉に鳴動し、騒々しさが何倍にも増した。
「パーになっちゃったって……どどど……どーすんだよ、どーすんだよ、どーすんだよ!」
「ひょっとして……錯乱してんじゃないの? 脳がいつもの行動を真似ようとして、暴走してるんじゃあ……」
「ペン取り上げた方が……よくない? 鎮静剤打って、大人しくさせようよ」
意識が飛びそうだ。もう誰が何を喋ってるのかすら理解できん。気を失う前に、早く、早く、早く。ゼロのこと、トリスアギオンのこと、アジリアのこと、そしてジェノサイドのことを、記録として残さなければ。
誰かの手が、俺からペンを取り上げようとした時だった。全ての記録が終わり、俺はペンを投げ捨てた。
俺は手短にいる誰かの胸ぐらを掴むと、眼前に引き寄せて最後の力を振り絞った。
「この……シーツ……絶対に洗うな……このまま……このまま保管しろ……いいなッ!」
「は……はいっ!」
「洒落や冗談じゃないんだッ! 返事をしろッ!」
「え?! はい! あ! 違ッ! サー! イエッサー!」
誰かが、そう返事したのを確認してから、俺はゆっくりとベッドに崩れ落ちていった。
「さすがに……疲れた」
そこから後のことは覚えていない。
クロウラーズの感染後健康診断。
アカシア
病状は安定して軽度。明晰夢で、九歳ほどの女児と遭遇。パギを幼くした外観をしていたとのこと。会話を交わしたが、話は成立するも、意思の疎通はできなかった模様。故に会話内容は覚えていない。
パンジー
病状は安定して異常なし。歌を歌う明晰夢を見た。伴奏が赤ん坊の声だったとのこと。
ピオニー
病状は安定するも、高熱が発生。明晰夢にて十五~十八歳ほどの女性と遭遇。ピオニーの知らない人物で、説明から考えるに、旧世界の学生服を身に纏っていた。ピオニーによると『ぽんちれーずんの粗悪な奴を入れられて、頭が壊れている』と発言した模様。『ぽんちれーずん』が何を意味するかは不明。アンチ・レイヴンの可能性あり。女性が治療を申し出たが、本人はこれを拒否。女性は微笑むと消失した。




