到達ー6
どこまでも広がる蒼い空。
果てしなくざわめく碧い海。
二つの青は交わることなく延々と続き、幻想的な水平線を生み出している。
そんな青の世界に、俺は独り取り残された。
正確には。青の世界に浮かぶ、巨大な船の上に――だ。
「いいものを見せてもらったわぁ。見返りに何が欲しい? ボーヤ」
不破の声が、背後からかかった。
「見世物じゃない。俺もあんたには、敬意を払っている。からかうような言動は控えてもらおうか」
俺は心にゆとりがなく、振り返らぬままぶっきらぼうに吐き捨てた。
「あら。ごめんなさいね。歳柄になく浮かれちゃって。じゃあこれは提案だけど、あなたが今どういう状況なのかを教えてあげようか。未来に飛ばされたのか、並行世界に飛ばされたのか。本来なら絶対に知りようのない、貴重な情報よ」
まだこの不快な状況が続くのか。さっきから頭痛がして、胸がむかむかしている。アロウズとの対面も一因だろうが、現実世界で病状が悪化しているのが原因で違いあるまい。さほどこの世界での時間が残されていないようだ。
聞かねばなるまい。俺がどういう状況なのか、今後の進路を定めるに不可欠なピースだからな。鈍痛で悲鳴を上げる頭をかきむしり、今一度集中力を呼び覚ました。
クソがよ。物語の根幹を立て続けに暴露するなんて、小説だとかなりの減点対象だぞ。そういうのはストーリーを展開しながら、刺繡のように丁寧に織り交ぜて欲しいものだ。
理解が――追いつかないだろうが。
俺が振り返ると、不破は虚空に腰かけて、こちらに視線を注いでいるのだった。
「さァて問題です。バーサーカーウイルスの私は、電気信号の断片にすぎません。そして私は究極の冗長性を持ち、なんにでもなれる素質を秘めている。いわゆる『ホワイトノイズ極大』の状態。つまり外的要因で、多種多様な人格に目覚めるはずなのよ。それがタイプジョーカーなのよ」
ホワイトノイズ極大を、難しい言葉を避けて説明するならば――物理的に再現可能なすべての周波数の重ね合わせの状態――といったところか。つまるところ、不破はその周波数から好きなものを、ニューロネットワークとして取り出すことができる。そうして自我を構築することで、『誰にでもなれる』という事を言いたいのだろう。まさにAIの基礎に相応しい脳回路だ。
不破は指先で、ツンと自らの頭をつついた。
「しかし。私は必ず、私として再現される。何度繰り返そうと、特定の手順を踏んでバーサーカーウイルスにしない限り、私は私になる。さて。どうして私は私の自我を構築し、あまつさえ将来起きえる出来事を、記憶として再現できるのでしょうか」
そんなの俺が知るわけがないだろ。ジト目で不破を睨むと、彼女はつまらなそうに嘆息をついた。
「あなた。無駄を楽しむことを覚えなさい。ローズにもそう指摘されたでしょう?」
「おい。それ以上無礼が過ぎると、例え殺される羽目になっても牙を剥くぞ」
「あの子カワイソ……そんな性格だから後悔するのよ。ヒント。これは生物学的な話ではないわ。物理学の話ね」
物理学? 電気信号はいうなれば情報――エントロピーである。エントロピーは時間の流れと共に減少して、冗長性を失していく。簡単に言うと鉄が錆びるように、純度を失くして崩壊していくわけだ。人間における成長も同じである。成長すれば純度を失くし、考えは固くなるし、覚えられる事象も限られていく。冗長性とは、個性とは真逆の立場にあるのだ。
つまるところタイプジョーカーは、自然崩壊して不破になっていくという事である。それを物理学で言い表すとなると――物理的にそう定まっているという事だから――
「未来のとりうる形が……決まっている……から……?」
「あなた優秀ね。ピンポン正解。物理学で拡大解釈して? ヒント。コペンハーゲン解釈と多世界解釈のあいの子ね」
「エヴェレット解釈……」
「ピンポンピンポン。大正解」
この歳になって、それも夢の中で物理のおさらいをするとはな。
物質の基礎的なあり方を論ずる量子力学において、粒子の存在を説明するために、かつて二つの理論が趨勢を競っていた。
簡単な復習に留めるが――様々な物理現象は、粒子によって発生する。その粒子は物質と波の二面性を持っているわけで、その存在をどう『確証』するかで解釈が割れるのだ。
『観測することでその存在が確証づけられる』のが「コペンハーゲン解釈」。つまるところ観測しなければ、その物質の存在は確率で表すことになる理論だ。シュレディンガーの猫のように、二十パーセントは生きていて、八十パーセントは死んでいるという、説明の矛盾をはらんでいた。
今の俺に当てはめると、俺は五十パーセントの確率で元の世界にいて、五十パーセントの確率で異世界に飛んでいると言うことになる。そして元の世界でも異世界でもいい。誰かが俺の存在を認識した瞬間、観測した世界に俺の存在が『確証』されるという訳だ。
おかしな話だ。認識が物理を左右するなんて、到底信じがたい。
そこで誕生したのが、その『物質が存在しうる場所に、同時に存在している』という「多世界解釈」だ。同じ次元に、同時に存在しているわけではない。異なる次元――ある世界では位置Aに、ある世界では位置Bに、『同じ時間軸に、異なる世界』で、同時に存在しているのである。こうした少しずつ要素の異なる並行世界が、無限に存在しているというのが多世界解釈である。
俺に当てはめると、俺は世界Aから、世界Bに跳躍したという訳だな。まだこっちの方が理解しやすい。
そしてだ。比較的新しい理論が、エヴェレット解釈である。
世界は無数に存在するが、その存在は確率に依存する。そして実現するのは、確率の中から選ばれた、たった一つだけだという理論である。簡単に言ってしまえば、未来のとりうる形が、確率である程度決まっているという事だ。我々はその中から、一つの世界を選んでいるという訳だ。
今の俺に当てはめると――時間跳躍して未来に来たという事になる。何故なら世界は一つしか存在せず、他に跳躍する並行世界は存在しえないからだ。
「つまり――俺は未来に飛んだという訳か……」
俺が納得して、そう嘯いた時だった。
不破はニヤリと、満面に嫌らしい笑みを浮かべた。
「半分アタリで、半分ハズレ。この世界は確かに未来だけど、あなたが元いた世界とは別の世界よ」
「は? どういうことだ……?」
「分かりやすく説明してあげる」
不破はそう言うと、どこからともなく二つの物品を取り出した。右手には大きなメスシリンダーを、左手にはこれまた大きなケトルを持っている。不破はメスシリンダーを空中に立てると、俺を見返した。
「このメスシリンダーを宇宙としましょう。ケトルの水がエントロピー――つまり情報だけど、分かりやすく『質量』ととらえてもらって構わないわ。このメスシリンダーに蓄積された、縦軸が時間よ。ね? わかりやすいでしょう」
「お前……いい先生になれるぞ……」
「嬉しいこと言ってくれるじゃなァい? 急いで続けるわよ。現実ではあの女の子たちが、涙目になって絶叫しているからね。私そう言うの見ると、心が痛むタチだから……」
不破がメスシリンダーに、なみなみと水を注いでいった。
「宇宙は情報を蓄積し、膨張し、そして成長していく。こうして世界が構築していくわけね」
水はメスシリンダーに注がれ、蓄積してメモリをどんどん昇っていく。やがて容量の限界を迎え、シリンダーは全てを貯えることができず、縁から溢れ出したのだった。
水はシリンダーをしとどに濡らしつつ、俺たちが立つ甲板に水溜まりを作ったのだった。
「水が溢れたわね。つまり宇宙が破綻したという事。これが宇宙の終焉よ。これから負の時間が始まり、事象は逆行を始める。つまりビックバンの対となる反応が起こり、宇宙は収縮して、新たなビックバンの準備を始めるの」
不破が指をパチリと鳴らした。溢れた雫が、こぼれた水溜りが、そしてシリンダーに残った水分が、水流となってケトルへと戻っていった。不思議な光景だが、ここは言うなれば精神の世界。いまさら驚きはなかった。
「そうして、再び宇宙が始まる」
不破が再びメスシリンダーに、ケトルで水を注ぎ始めた。
待てよ。同じメスシリンダーに、同じ水を注いで、同じメモリが経過しているってことは――。
不破が俺の思考を読み取ったのか、ビシリと指をつきつけてきた。
「ピンポン。正解。同じ宇宙、同じエントロピー、そして同じ時間軸を、世界は繰り返し使っているってわけ。全てが同じだから、世界は必ず同じ形態をとり、同じ事象が発生する。何度繰り返そうと、未来は同じ選択をするのよ」
不破はシリンダーの半分まで水が満ちたところで、ケトルを傾けるのをやめた。
「このメスシリンダーの状態を、ファイナルカウントダウン最終日。あなたが跳躍した日と仮定しましょう」
気が付くと、不破の左手からケトルが跡形もなく消え去っていた。彼女は自由になった指先で、メスシリンダーの縁を妖艶に撫でたのだった。
「あの日あなたは、ポールシフト爆弾と、機動要塞天風の展開する磁気フィールドに挟まれた。それがこの衝撃ね」
彼女の指が、メスシリンダーを弾く。満たされた水が容器内で跳ねて、細かな飛沫が宙を舞う。そのうちの小さな水滴が一つ、シリンダーから飛び出してこぼれ落ちたのだった。
「飛沫が落ちたわね。これがあなたよ。さて問題です。あなたはどこに落ちたでしょうか?」
どこに落ちたって……それは……お前……。
「一度水がこぼれた後の、新しい宇宙……」
「ピンポォォォン。正解」
不破は用済みと言わんばかりに、メスシリンダーを手のひらでさらりと撫でた。彼女の手のひらで隠れた場所から、科学用品はまるで手品のように消失したのだった。
「さて。最初の問いに戻りましょう。なぜ私は電気信号の断片にすぎないのに、自我を構築し、あまつさえ将来起きえる出来事を、記憶として再現できるのでしょうか」
お前、本当にいい先生になれるぞ。こんな正気では考えられない話を、簡単に説明したうえで、すんなりと俺に受け入れさせたのだからな。
「宇宙は際限なく、同じ事象を繰り返すことで成立しているから。それが宇宙規模の物理の法則だから。お前という存在は、必ずお前になるから」
「ピンポン……正解。この世は何度繰り返しても、必ず同じ結果へと到達する。私はミクロな物理法則と区別して、超マクロなその物理法則を、世界の王――ジェノサイド。CではなくS。GENOSIDEと呼んでいる……」
不破はここで、小さなため息をついた。彼女は今の今まで、明るい声で気さくに話していた。しかしその溜息は負の感情で酷く濁っており、抑えきれない憎悪と、隠しきれない恐怖で微かに震えていたのだった。




