到達ー5
アロウズは振り返らぬまま、ぽつりと、小さい声で言った。
「ああなったら……もう無理だろう……」
「違う。今だ。なぜ言わない」
おろさなかったんだ。お前みたいな女がだぞ。思うことがあって然るべきだろう。ただ事ではない、何かしらの理由があるはずなんだ。
「あの子は……お前にとって……どうでもいい存在だったのか」
「あれは私が自己保身のために、孕んだものだ。お前とは関係ない」
「アレとか言うなァ!」
俺が吠えると――あのアロウズが。鋼鉄の心を持ち、決して怯まず、傲岸不遜にして、自らを貫き通したあのアロウズが。
子供の様に、びくりと肩を震わせた。
善悪を知らない子供が、咎められて初めて過ちに気づいたように。
怒鳴られただけで、子供の様に震えた。
「お前とは……関係ない」
「関係ない訳あるか!」
「馬鹿め。お前が特別だとでも思っているのか? 精液を採取するための遊びだ。ヘタクソだったぞクソボケ。それに私は英雄になるため、誰とでも寝た。お前は関係ないんだ」
「お前は俺の子だと言った!」
「そりゃ殺されたくなかったからな」
「トムも俺の子だと言った!」
「尋問官なら嘘もつくだろう。お前はちゃんと証拠を確認したのか? だから迷うんだアホめ」
「お前……煙に撒こうとしているな。俺の罪悪感の中で、まだ生きようって肚か!? 実際はどうなんだ! 逃げるな! 答えろ!」
「言っただろう。『あの子』は。お前とは。関係ないんだ。私の。自己保身だ。妊娠しても待遇は改善されなかったし。お前から身を守る盾にすらならなかった。ゴミだよ。そうなったら。遅いか。早いか。あそこで死ぬか。尋問室で殺されるか。その違いだ。デカい声を出すな。胸糞が悪い」
アロウズは再び歩みだした。身体を透かして地平線が見え、まるで幽鬼の如くその手足が虚空へと消えた。
「真相が知りたければ死ね。死んでもう一度私の元へ辿り着け」
逃げるのか。まぁいいさ。お前はどうせ地獄に堕ちる。俺と同じ場所にな。
「アロウズ。俺はお前が嫌いだ。先に地獄で待ってろ。全てを終わらせてから証明してやる」
俺がその背中に吐き捨てると、彼女は消えゆく身体で振り返った。
「キョウイチロー」
まるで追い詰めた、あの瞬間を再現しているようだ。
アロウズは涙こそ流してはいなかったが、溢れ出そうな弱さを必死でせき止めて、その相貌をしわくちゃにしているのだった。
「本気で……人を愛したことはあるか?」
「お前とそんな話はしたくない」
アロウズは構わず続けた。
「私はあるぞ。残念だがそうと気づいたのは、死んだ後だった。私は気づいた。幸せだったと」
「おい。あんまり気色の悪いことを言うなよ」
アロウズは苦笑いを浮かべると、少し視線を伏せて溜息をついた。それから、晴れ晴れとした笑顔で言った。
「なぁ。キョウイチロー。ダンの娘はどうした? 恨みに任せてジャンクヤードにでも売ったか?」
お前には関係のない話だ。悪罵を返してやろうと思ったが、例え事実と異なるにしても、殺したと思われるのは癪だった。俺は吐き捨てるようにして言った。
「金は腐るほどあった。適当なとこの冬眠権をやったよ。あのバカ女は、俺が親父を殺したとも知らずに感謝しやがった」
「ダンは信じていたぞ。お前はそういう奴だと。お前を嫌ってはいたが、そう言うところは信じていた」
「何が言いたい」
アロウズは俺の問いかけに応えず、とうとうと夢幻に耽るように続けた。
「リーを殺した時、我々がダンの救難信号に反応すると思わなかったはずだ。驚いたろ」
答えないつもりか。なら俺も答える必要はないな。そこで断末魔代わりに、独りでくっちゃべっていればいい。死ぬまで一人でままごとしてろ。
俺はもう用はないと、アロウズから視線を外して不破の姿を探した。こいつのことだ。油断はできん。さっきのAEUに対する見解や情報提供を、そのまま鵜吞みにするつもりはない。冷静なのは上っ面だけで、内心は俺の脳内に留まろうと、必死に抗っているのかもしれない。
アロウズは話を進めていく。
「最後だから、皆で終わりにしたいとさ。ECOに身寄りがないから、私たちをアテにしたいとさ。アホめ」
自分しか信用しなかった……あいつの言葉とは思えんがな……。リーが、「他人を頼る」ような真似をするもんか。
「リタがお前に惚れてると、何時気付いた?」
誰だって気づくだろボケ。俺がジャンクヤードのお気に入りになった瞬間、遊ぶのをやめてすり寄ってきたんだからな。それに正しくは、あいつが惚れたという訳ではない。
あのボケ。あのボケ。あのボケ。
オリミヤに勝手に電話したのはまぁ許す。オリミヤに勝手に別れを告げたのもギリギリ許してやる。その頃にはすでに、オリミヤは死んでいたのだから。だが許せないこともあるんだ。
あのアマ……オリミヤの髪形をして……オリミヤの振る舞いをして、俺の……俺の思い出を愚弄しやがって……俺をこの上なく侮辱しやがった。
俺が怒りに打ち震えていると、アロウズは嘲笑を浮かべた。
「あいつはオリミヤになりたかったんだ。身体が触れ合わなくとも、『愛』が存在すると、オリミヤが証明したからだ。だから……クク……お前を激しく苛立たせるような真似をした」
虚しいため息。俺か。アロウズか。どっちが吐いたのか、分からなかった。
「お前が変わったタイミングで。我々も変わりつつあったんだ」
アロウズが小首を傾げる。
「ただ……もう少し……もう少し……早く……せめて創設メンバーに貴様が……いや……もっと素直に……勘違いか……らしくない。クソが」
アロウズは俺に見切りをつけると、青の虚空へと吸い込まれていった。
「さようなら。キョウイチロー」
そんな捨て台詞を残して。




