到達ー2
どこまでも広がる蒼い空。
果てしなくざわめく碧い海。
二つの青は交わることなく延々と続き、幻想的な水平線を生み出していた。
そんな青の世界に、俺は佇んでいた。
正確には。青の世界に浮かぶ、巨大な船の上にだ。
奇妙な船だった。目測全長二百メートルはあり、船体に目立った突起物はない。恐らく潜航機能を有しているのだろう。本体は円筒形をしており、左右には滑走路であろう平らなウィングが取り付けられていた。まるで――鳥のような特徴的な船体だった。
俺はいるのは本体中央で、身体を挟むようにSLBMの発射口が整列しているのだった。
「これは……」
知識で知っている。
世にも珍しき潜水空母。これを保有していたのは、人類史上たった一つの組織だけだ。
領土亡き国家の開闢にして、グレートウォー開戦と同時に崩壊したテログループ。
旧日本帝國。
俺の向かいに、女が立っていた。
黒い戦闘服を身に纏い、ぼんやりと虚空を眺めている。フルフェイスのヘルメットを冠っているので、その顔は窺い知れなかった。
戦闘服の様式が、ライフスキンに酷似しているな。確かライフスキンのベースになったのは、旧世界の諜報員が使用していた強化服だったな。潜水空母が存在した時代を考えると、女が着込んでいるのはそれかもしれない。
女はこちらに気づいて視線を留めると、ちょっと驚いた素振りを見せた。
「あら。珍しいわね。この時間にとぶなんて」
何だ……この女。
全身の産毛が逆立つほどの、凄まじい怖気が背筋を走る。
「誰だ……貴様は……何者だッ」
生まれて初めてだ。対面しただけで、死を直感するほど恐怖を感じたのは。
「誰だとはご挨拶ね。あなたが私に感染したんでしょう? 人を蘇らせておいて、その言い草はないんじゃないかしら?」
「何のことだ……お前なんて……知らんぞ……何だお前……ッ」
やばい。やばい。やばい。叶うことなら、背中を見せて逃げ出したい。
女の一挙手一投足が、俺を絶命しうる力を持っているように思える。
それほどの威圧感を、この女から感じた。
俺は女としばらく、緊張の中を睨み合った。
やがて――
「悪い子……」
女が興味を失くした様に、視線を外した。
俺はようやく呪縛から解放され、一息つくことができたのだった。
「ま。いいわ。あなたのニューロネットワーク。あの人に似ているから。礼儀正しくしてあげる」
女は居住まいを正すと、自らの胸に手のひらを当てた。
「私は不破優。Who Are Youのもじりね。これは偽名。そしてレディ・ジョーカー。こっちはコードネーム。本名はデク0194。そのまま検体番号。好きな方で呼ぶといいわ」
くそったれめが……こんな得体の知れない怪物を、相手しなければならんのか。
J系統はとある乳児から採取した脳回路だと、アイリスは言っていた。どういう理屈かわからないが、その乳児が成長した状態で顕現しているらしい。おまけにこいつ、明らかに人生を生きた経験を持っている。そうでなければ名なんて名乗れない。
明晰夢を見ると聞いてはいたが、まさかJ系統の人格が語りかけてくるとは思わなかった。事前に通達がなかったことを考えると、極めて珍しい現象が起こっていると踏んだ方がいい。
俺は警戒を解かぬまま、じっと女を見据えた。
正体は分からないが、こいつには逆らわない方がいい。敬意も払った方がいい。
こいつは俺たちと同じ人間ではある。しかし俺たちと同じ『側』に立っているだけで、俺たちと同じ存在じゃない。もっと異質で……支配的な……何かだ。
俺は姿勢を正すと、落ち着いた口調ではっきりと言った。
「先ほどの失礼を謝罪する。『不破優』殿。俺は永瀬恭一郎。国際連合所属の三級特佐だ」
「いい子ね……さっきの態度、水に流してあげるわ」
女は浅く頷くと、顎に手を当ててかぶりを振った。
「しかし特佐? 珍しい階級ね。それにナガセ? ここに来られる人間で、そんな名前の人はいないはずだけど……あなたどこの世界からきたの?」
「悪いが……言っている意味が分からない……」
「そう。私を認識したから、ひょっとしたらと思ったのだけれどね。しかしナガセ……ハテ。どこかで……ナガセ……ナガセ……ああ。ひょっとして。あなたディックのお兄さんね」
わけのわからないことをペラペラと。ユゴー以上に、気味の悪い女だ。
「俺は一人っ子だが……」
「それについては、エントロピウムと合わせて後で話すわ。今は何故あなたがここにいるかについて。あんまし私とおしゃべりすると、脳の方が耐えられないからね」
不破は自らのこめかみに指を当てると、ツンツンと何度か突いて見せた。
「まず。私に感染すると、適性によって明晰夢が変わるのよ。大抵の常人は私が赤ちゃんだった頃。ほんの一握り、才能を秘めている人間なら、私が小学生の頃にとぶの。ああ。勘違いしないでね。この才能ってやつ、私が留まりやすい。つまり『洗脳しやすい』って意味だから」
「ぞっとしない話だな」
「まぁね。そして僅かな一つまみ。『洗脳しやすい』人で、『洗脳できない』人間。それが高校生の私に出会うって寸法だけど――ここは2012年。私が24歳、死ぬ直前になるわね。どれにも該当しない、イレギュラー。その人間が、私に会うことになる」
「そうやって、被験者の感染適性を調べていたのか?」
不破はケラケラと、あどけなく笑った。
「ボク、イヤラシイものの考え方をするわね。副作用。私の存在はあくまで副作用よ。あなたが特別なだけで、他の人間はろくに私を認識できないのよ。気づいた人間なんて、この世界ではアンダーソン君くらいかしら」
不破はひとしきり笑い終えると、じっと俺を見つめた。
「別に私はいいんだけどさ。あんまり長居するとパーになっちゃうわよ? 黙って聞くことを覚えなさい」
「もっともな言葉だ。失礼した」
「んー。あなたって、本当にあの人に似ているわね。肩入れしたくなってきたわ。それでイレギュラーの条件だけど、とっても簡単。先客がいるとね、私はなかなか安定できず、死の間際まで成長するってわけ」
黙って聞けと言われたが、俺は聞き返さずにはいられなかった。
「は? 先客? バーサーカーのことか?」
不破は俺の脳に感染して、その心情が手に取るように分かるのだろうか。間抜けな横やりを咎めることなく、むしろ感情と行動がすり合うのを楽しむように、俺の反応を観察しているのだった。
「あなたさ。幻覚や、幻聴、そして突発的な情緒障害に悩んだことはない?」
どくん。心臓が跳ねる。
旧世界より続く、俺の幻覚症状のことを言っているのか?
迷うたびに復活を遂げ、窮地に陥るたび悪罵を吐く、俺の幻覚のことを言っているのか?
あれは俺のトラウマに起因する、精神的な症状のはずだ。
「な……に……を……」
俺が恐れに後ずさると、不破はその分詰めよってきた。
「交代するわ。ずっとあなたを待っていたのよ」
不破はもう一歩踏み出す。すると彼女の体が怪しく蠢き、徐々に変貌を始めたのだった。
不破が三歩進む間に、フルフェイスのヘルメットが頭部に潜り込み、入れ替わりに白い毛髪がはらはらと流れ落ちた。
「ようやく辿り着いたな」
不破の声色が変わった。凛として、緊張感のある、高圧的な口調だった。
不破がさらに三歩進むと、戦闘服から飾り布が飛び出した。衣装は揺れてはためき形を整え、慣れ親しんだライフスキンへと変わったのだった。
「何度でも繰り返すがいい。私は待ち続ける。お前が辿り着くまで」
そして最後の三歩。不破が目の前で足を止める頃には、汚染世界の軍人の姿へとなり替わっていた。
「お前が来るのを……ずっと待っていたぞ」
彼女は白い見た目に反し、黒を夫のように愛した。白髪、黒い飾り布、白い肌、黒いライフスキンが織りなす、神秘的なストライプ。アルビノの特徴である赤い目が、じっとこちらを注視する。
「久方ぶりだな、キョウイチロ―」
不思議と、怒りは湧いてこなかった。
心の中にわだかまりとして残っていた過去が、そっくりそのままスポンと抜けて、目の前にとりだされたみたいだ。ある種の爽快感すら伴う奇妙な感情が、胸をやるせない気持ちでいっぱいにし、四肢から力を奪っていったのだった。
もう一度息の根止めようとも、殺したことを弁明しようとも思わなかった。
「アロウズ・キンバリー……」
ただ。阿呆の様に、彼女の名を呟くことしかできなかった。




