沈黙-7
どのくらい沈黙に抑えつけられていただろうか。
ほどなくして、ローズが手を挙げた。
「話。戻そうよ。時間ないんだから。という訳で」
彼女は起立すると、満面の笑みを浮かべて、明るい口調で言った。
「はーい。私志願しまーす。三人目決まりィ~」
ローズは強引に決定まで、話を持っていこうとしているようだ。誰の返事をもまつことなく、一人腕を組んでうんうんと自己肯定をはじめる。
「できればみんなの看病に回りたかったんだけどね。他にいないんじゃしょうがないよねぇ」
クロウラーズはローズの勇気ある決断に、誰も異を唱えない。パギですら不安そうにサクラに縋りつくものの、否定の声をあげなかった。俺もそうだ。ローズの担当は端的にいってしまえば雑用である。穴が空いても問題ない。
だからこそ、アイリスの慌てっぷりはあまりにも目立った。彼女はいきなり立ち上がり、ローズとパギを交互に指さした。
「あなたは駄目です。誰がパギの面倒を見るんですか」
「え……? 私は別にだいじょ――」
パギが大丈夫と言いかけたが、アイリスはかき消すように声を張り上げた。
「私には他にも仕事がありますし、看病には皆さんの手を借りることになります。パギの面倒まで見れないんですよ。パギがイタズラしたらどうするんですか」
アイリス。何で俺を横目に盗み見た? 何を気にしている?
ぞわりと、全身の産毛が総毛立つ。
本当に、隠し事のできない奴だな。
そうか。そうか。これがその一匹なのか。
ローズの髪の毛が伸びないのを、前々から不思議に思っていた。まさか遺伝子補正しきれなかった、遺伝病だったとはな。
身体から感情が抜けていき、体温が波に攫われたように下がっていく。
「私……そんな事しないもん……」
「ん~……じゃあ私は奥の手ってコトで」
パギが声を震わせながら愚痴り、ローズが渋々と言った様子で引き下がる気配がした。
俺は――元領土亡き国家の女と寝たのか。
これでも長い時を生き、様々な経験をした。そんな俺でも今まで感じたことがない情動が、腹の底からせり上がってくる。浮き輪になった心が、注がれる汚水によって持ち上げられる。言語化するとこんな感じだろうか。
当たり前だ。俺は領土亡き国家と戦ってきたんだ。あいつらが作った地獄を這い、そして人間であることを捨てざる得なくなった。いい感情なんてあるわけがない。
茫漠として呆ける俺を置き去りにして、サンが志願に手を挙げた。
「私もみんなの看病をしたいと思っていたんだ。マリアの件があったから……これで彼女が救われるってわけじゃないけど……ね………うん。他に志願者がいないなら私が志願する」
過去と決別するか。難しい。本当に難しい。
領土亡き国家を殺したいというのは、リリィに癇癪を起させた感情じゃない。
過去に基づいた理性だ。こいつを切り離すのは、瞑想ぐらいではどうにもならんな。
だが俺も成長はしているようだ。昔だったら幻覚や幻聴を聞いただろう。
もう見ないし。聞かない。
誰のおかげだ? 他ならぬローズだろう。
「あなたも駄目です」
アイリスがまたもやピシャリと拒否する。
「何でェ?」
「サンが志願するなら私もするよするよするよ!」
デージーが鼻息荒く喚く声が混じる。
「こうなるからです。ちょっとあなたたち、私が許可するまで黙っててもらえませんか?」
二人が志願すれば、ちょうど四人で都合がいい。それに二人とも、担当は動植物の世話だ。代えが効くじゃないか。
サンとデージーもそうか。髪の色が明らかにおかしいからな。そういう事だったのか。
気持ちが沈む。俺が裏切っているのに、裏切られた気分だ。
差別はタチが悪いが、区別もある意味タチが悪い。理に適ってさえいれば、それを覆す根拠がないからだ。過去敵対していた。そう言った線引きで、俺は区別しようとしている。
愚直だ。俺もユゴーと変わらん。しかし分かっているなら、対処せねばなるまい。
無くなった左手が、燃えるように痛む。俺は手首を右手で握りしめて、じっと痛みと衝動に耐えた。
マリア。安心してくれ。俺は繰り返さないから。
一人自分と格闘をする俺を置いて、クロウラーズたちの侃々諤々の議論は進んでいった。
パギが志願し、全員に止められる。ロータスは『モルモットの無事を確認したなら』と言い放ち、アイリスに期待の視線が集中したが俺が跳ね除けた。感染中万一のことがあったら、医者のアイリスだけが頼りだからな。
こうして残ったのは、パンジーとピオニーとなった。
強制はできん。だがパンジーの担当は雑用だし、抜けても負担は少ない。志願してくれるとすごく助かるのだが――汚染粘菌に苛烈な忌避感を抱いていた。望みは薄いだろう。
ピオニーも肋骨を折って、そう時間が経っていない。あまり負担はかけたくなかった。それに性格上、いわれるがまま何でも請け負ってしまうだろうからな。自ら声を上げない限りは、選ばないつもりだ。
うーん。交渉で四人と約束したからには、守らなければならない。最悪の場合はロータスのケツを叩くとしよう。お前は去年反乱を起こしたから、その肉を使うのにためらいはない。一緒にモルモットとなってもらうぞ。
「パンジー。お願いしてもいいですか?」
ふとアイリスが縋るような目つきで、パンジーを見た。
パンジーは会議に参加していても、居場所がないように首を縮めていた。名前を呼ばれてびくりと肩を震わせ、恐る恐ると顔を上げたのだった。
パンジーにクロウラーズの視線が、一斉に集中する。彼女に送られる感情は、多種多様だった。指摘されたことの心配、焦燥、そして不安。同時に混じる忌避と、僅かばかりの怒り。かつて彼女が行った、ピオニーとアイリスへの仕打ちが、その存在を腫物にしていた。
アイリスは肌で雰囲気の変化を感じ取ったのか、慌てて首を横に振った。
「ごめんなさい。これでは無理強いですね。忘れてください。では――」
「待って」
パンジーが大声を上げて立ち上がる。最初は委縮して肩を丸めていた。しかし堂々と胸を張り、芯の強い目でアイリスに応えた。ここで進まなければ、もうどこにも行けなくなる。そんな恐れに追い立てられ、それでも勇気を奮って何か掴もうとする、気高い目をしていた。
「私。頼られた」
「はぁ……」
アイリスが言葉の意味を理解できず、生返事を返す。
パンジーは構わず続けた。
「嬉しい」
「感情の問題じゃないんです。貴方の体の問題です」
「違う。私に。とって。感情の。問題。ここで。果たさないと。もう。頼られない。私は。必要。じゃなくなる」
「誰もそんなことは思いません」
「私が。思う。私が。駄目な奴だって。そうなったら……もう……」
パンジーはその先を言うのを恐れるように、声を次第に小さくしていく。表情も暗くなり、伏せがちになっていった。その闇を吹き払って、彼女はもう一度顔を上げた。
「だから。今度こそ。しっかり。果たしたい」
アイリスが判断に困って、俺を横目に見た。あのさ。お前ね。もうちょっと隠す努力をしろ。パンジーが人間だという事実と、ローズ、サン、デージーが領土亡き国家だとの裏付けが、その視線一つで出来ちまったんだぞ? 異論をはさまず、俺に判断を委ねたんだからな。
ま。パンジーの申し出は願ったり叶ったりだ。この件でみんなとの仲も修復できれば、万々歳だしな。
俺は肩をすくめて、やりたいようにさせてやれとのジェスチャーにした。
「パンジーがやるんならぁ。私も参加しますねぇ」
今度はピオニーが、やや食い気味に手を挙げた。ピオニーはパンジーを守るように腕に抱くと、珍しく眼つきを険しくして周囲を威嚇した。
「最近皆さんパンジーやデージーに風当たりが強いですからねぇ。メっですよメっ! なぁんで仲良くできないんですかぁ。二人とも何にも悪いことしてないのにぃ」
被害者の一人であるピオニーから、こんなセリフが出るとは思っても見なかったのだろう。クロウラーズがにわかにどよめき、パンジーとデージーが気まずそうに視線を伏せた。
「別にそういう訳では……」
アジリアが取り繕うように何かを言いかけたが、ピオニーによって遮られる。
「じゃあ何でフツーに接しないんですかぁ? ちょっと距離をとってえ、コソコソお話ししてぇ。言いたいことがあるなら、本人に直接言えばいいのにぃ。私それよくされるからぁ、嫌な気持ちになるのわかってるんですぅ」
皆、ピオニーの訴えに心当たりがあるのだろう。言葉を失ってしまう。俺自身も仕事を優先して、邪険にしたことはあるしな。
「『何があったかわからない』ですけどぉ。そんな意地悪はやめて――あれ? パンジー? どうしたんですかぁ? 何で……泣いてるんですかぁ……私酷い事……しちゃいました……?」
パンジーはピオニーを強く抱き返して、無言のまま低い嗚咽を上げているのだった。
被害者がそれを言うのは反則だ。もう誰もパンジーとリリィ、そしてデージーを責めることができなくなっちまった。
ただ……デージーはピオニーに抱き着くことも、パンジーに倣うこともできずにいる様子だった。さらに言ってしまえば、リリィの様に確固たる意志を持って、気高く振舞う事すらできないに違いない。
一人孤立しちまって。助けてはやりたい。だがそれはお前の個人的な問題だ。サポートはするが……踏み出すのはお前自身の仕事だ。
見世物にしたら、勇気を出したパンジーが気の毒だ。俺はデスクをノックして注意を引いた。
「これで四人だな。バーサーカーの注入は本日十八時に行う。各自それまでに、身辺の整理と、仕事の引き継ぎを済ませておくように。以上。解散。サクラ。プロテア。アジリアは残れ」
俺の号令を受けて、のろのろとクロウラーズが教室を後にしていく。アイリスが準備のために足早に去り、その後ろをピオニーがパンジーを支えて続いていく。どうするつもりかは分からないが、ピオニーとパンジーを追いかけて、デージーもこの場を去った。
ローズがパギを連れて出ていくと、サンも周囲を気にしながら静々と離れていく。
教室に残ったのは、サクラ、プロテア、アジリアの三人娘のみとなった。
「サクラ。アジリア。プロテア。俺の仕事の引継ぎを行う」
サクラには避難訓練の徹底。アジリアにはAEUとの交渉方針。プロテアには実働する際の注意を伝えなくてはならん。
これを機に、俺の権限を委譲しちまってもいいか。そんな考えが頭をよぎったが、時期尚早だと思い直した。
さもありなん。非常時には一極集中の独裁の方が、外敵に遥かに強いからである。あくまで俺がダウンしている間の、一時的な対処に留めておくか。
だが逆に考えると、彼女たちは俺が権限を委譲したいと思うほど、成熟しつつあるのだ。




