沈黙-3
「参ったな……」
俺は教室の卓で、今後の展開に頭を悩ませていた。
たった数日で、戦況は大きく――それも悪い方に変化している。
おさらいを兼ねて、現状と果たすべき課題、そして立ちはだかる問題を思い浮かべていった。
現状。我々は安全地帯を喪失した。つまるところヘイヴンには、もはや拠点としての価値はないのである。
理由は簡単だ。緩衝地帯である森が消失し、敵に居場所を把握された。今では最も危険な前線に成り下がったのだ。
課題として我々は、ヘイヴンより後方に安全地帯を求めなければならない。
「お兄ちゃん、あーん」
パギが昼食のサンドイッチを、俺の口元に押し付けてきた。しばらく口をへの字にして閉ざしていたが、パギの視線が次第に刺すように細っていく。ついには根負けして口を開くと、そのわずかな隙間からベーコンサンドをねじ込まれた。
これから我々はヘイヴンを前線基地として運用し、退避可能な避難場所を設営しないといけなくなった。しかしながらこの孤島に逃げ場はなく、避難場所に適した場所なぞ絶無である。必然的にヘイヴンにて玉砕覚悟の防衛を行わざる得なく、AEUもそれを承知していて圧をかけているのだ。
そう。奴らは知らないのだ。去年俺がかけた保険が、どこにあるか。
「お兄ちゃん、あーん」
「ふぁて。むぁだくってふぁい」
口元に押し付けられるサンドイッチを、手のひらでやんわりと押し返す。だがパギはムッとすると、俺を鋭い目つきで睨んできた。
やめろ。その疑るような目つきだけはしないでくれ。子供がする眼つきじゃないし、それをさせているのが自分だと思うと胸が切なくなる。俺は慌ててベーコンサンドを咀嚼し、エッグサンドの受け入れ準備を整えた。すかさず乱暴に、口にかさつくパンがねじ込まれた。
去年海底に沈めたゼロ。AEUはその存在は知っていても、正確な場所までは知らないはずだ。この隠し玉を安全地帯に設定すれば、我々にはもう一度だけチャンスが生まれる。ゼロまでの退避手段を確保すれば、課題はクリアだ。
問題は三つ。
一つ。どうやってゼロまで退避するか。これについては、避難訓練を実施するほかあるまい。
二つ。退避後の方針はどうするか。それを決めるには、相手の達成目標を正確に知る必要がある。アイリスが警告した通り、我々の奴隷化ないし撃滅が目的なら、徹底抗戦か島外脱出を選ばなければならない。
俺には今のところ、どっちも選べない。抗戦したところで、いいように嬲られるのがオチ。島を脱出したところで、大陸到着まで燃料がもつか、そもそもその大陸は安全なのかすらわからんからだ。必死に逃げた土地が、ミューセクトの支配する世界だったら笑えん。もっと判断材料が欲しいのだ。
しかしAEUが何をしたいのか、それどころか相手が本当にAEUかすらわからないのである。アイリスに任せたバーサーカーウイルスの解析が進めば、何かしらの情報が得られるかもな。
ま、俺の勘では……AEUではないと思うが。
この件は保留だ。
三つ。これが最も重要なのだが――最後の切り札である磁力兵器、ハートノッカー。こいつを『どう』使うか――だ。
持ってるだけでは宝の持ち腐れ。しかし使ったらこの島が沈むかもしれない。
脅しに誇示したいが、度が過ぎると向こうも磁力兵器を持ち出しかねん。
使い道が、とても難しい。
一週間……か。長いようで、意外と短い時間だ。
「はい。お兄ちゃん。あーん」
「あーん」
押し付けられたフィッシュフライサンドにぱくついて、ゆっくりと咀嚼する。とりあえずすべき事の目途が立ったため、良く味わうことができた。
俺はサンドイッチを食べ終えると、パギに軽く手を合わせてお願いした。
「なぁ。アジリアとサクラを呼んできてくれるか?」
パギは唇を尖らせつつ、不安で天真爛漫な瞳を伏せがちにしたのだった。
「また危ないことを考えてるの?」
隠しても、何もいいことはない。
「まぁな。避難訓練の計画を立ててもらおうと思ってな。できれば三日後には実施したい……」
「何で急ぐのさ? あの怖いおじちゃん、一週間も時間をくれたじゃん」
「その一週間後に、どうなるかわからんからな」
パギの顔が曇った。
「あいつら……ここを襲いに来るの?」
「ま。そうならんようにするのが、俺の仕事だな。避難訓練は万一の備えだ。不安を煽るかもしれないが、不安が現実になってからじゃ遅いからな」
「す……すぐ呼んでくる……」
パギは顔面蒼白になりながら。小走りで教室を出て行ってしまった。
怖がらせてしまったようだ。現実を正しく認識させる必要はあるが、それを受け入れられるようにするのが俺たち大人の役目だろうが。俺は何をしているんだ。
「パギ。ちょっと待て」
慌てて席を立ち、廊下に消えた小さな背中を追おうとした。
「大丈夫よ。あの子のサポートは私がしておくから」
教室の隅で上がった声に、俺の足は急激に重くなった。二歩三歩と進むうちに失速して、教室を出る寸前で足が止まってしまう。声をした方を振り返ると、ローズが教室の隅で編み物に勤しんでいるのだった。
ローズは学習卓につかず、床に敷いたマットに腰を下ろして、太腿を机代わりに使っている。彼女はすっかりと落ち着きを取り戻し、気を病んだ過去を微塵も感じさせなかった。俺から奪ったモーゼルを腰に吊るしていなければ、あの事件なんて幻想に思えてしまうほどだった。
ローズは手元で裁縫針を走らせながら、何でもないようにつぶやいた。
「あなたは自分のすべきことに集中して。あなたにしかできない事をね」
「ん……ああ……」
頷きながらも、緊張に身が固くなってしまう。
この女は……わからん……と言うより……俺がどう接していいか距離を掴みかねている。
たった一度の肉体関係。夏のクリスマスだって、エレベーターでキスのみに留めておかなければ危うかったかもしれない。ローズもそれを見透かしているようで、二人きりになる隙をついては交わりを求めてくる。
俺とローズは教師と生徒の関係だったはずだ。しかし教室の隅で針を走らせる彼女は、保護者の風格を漂わせているのだ。つまるところ――俺の対となる存在に、成長しつつあるのである。
ローズは他の女と明らかに違って、俺への発言力を増しているのだった。
「……そうさせてもらう」
よろしくない。と、俺は思う。立場上の問題としては、判断に私情という不純物が混じるし、判断そのものが遅くなることがあげられる。個人的な問題を言えば、俺に人を愛する資格はないし、彼女を幸せにできるとも思わない。そして未だに、アロウズのことを引きずっている。
反対に、いいことだ。と、思う自分もいる。相手が俺なのが問題なのであって、子から親への精神的な成長は、諸手で迎えたい変化だった。それに俺が人を頼れるようになったのも、成長したと思えるのだ。
「俺たちはいい意味で変わった。もう十分だ」
ローズに聞こえないよう、口の中で嘯く。
後は関係を終わらせてしまいたい。できれば責任を取る形で。
この問題にAEUと同じくらい頭を悩ませているが、そんな都合のいい話があるはずがない。仮に俺がローズの父親だったら、そんなふざけたことをほざくボケは、ショットガンでぶっとばしているだろう。
俺は酷く緩慢な足取りで席に戻ると、じっとローズの作業に視線を注いだ。
ローズは視線に気づいているようだが、あえて反応せず無視を決め込んでいた。
手玉にとられている。口の中に苦い唾が広がっていく。
「何を作ってるんだ」
堪らず先に沈黙を破る。
ローズは手元の布切れを、広げて掲げたのだった。
「これぇ? 何だと思う?」
布切れは筒状をしており、留め具がついていることから取り外し可能な袖――つまるところ、ライフスキン用の飾布だと想像がついた。分からんのはそんな黒一色の、見るからに可愛げのない服を、一体誰が着るのかという事だ。
「質問に質問で返すな。こういう無駄な問答が一番嫌いなんだ」
きつい口調だと思う。しかしこれこそが、役職に潰され久しく忘れていた俺の素なのだ。
ローズもそれに気づいているようで、嫌な顔一つせずにクスクスと笑った。
「カワイソ。そういう無駄を楽しめないなんて。そんなカタブツで、生きててなんかいいことあった?」
「やかましい。お前に心配されるほど落ちぶれちゃいない」
「へぇ~……わんわん泣いて、抱き着いてきたくせにィ?」
「おいバカよせ」
何を言っても勝てん。幸いその話をネタに脅す素振りはないが、生きた心地がしないから勘弁してほしい。不貞がバレたら、クロウラーズに悪い衝撃が走るのは間違いない。
「お前わかっていると思うが、皆には言うんじゃあないぞ」
口で釘をさすなんて、昔の俺なら絶対にしないだろう。無言で圧をかけ、実害をもって思い止まらせる。それが俺のやり方のはずだ。
どうしてこんな……まどろっこしい……コミュニケーションをとるような手段を……。
ローズはにへらと相好を崩して、挑発的な笑みを浮かべた。
「分かってるって。ただもう少し特別扱いしてくれないと、拗ねちゃうかもしれないワねぇ」
「洒落にならんからやめろ」
ここでローズは、ふと真顔になった。
「ナガセさ。誰か他に好きな子いるの?」
「アホか。娘と同じ感覚だ」
ローズの目つきが少し冷たさを帯びたので、俺はあえて付け加えた。
「お前のおかげで助けられた。それは感謝している。お前がいなければ、潰れていただろうな。それを踏まえた上でも、『アレ』は間違いだったと思っている。この気持ちは変わらん」
「私は感謝なんていらない。『アレ』を当たり前だと受け取って欲しいの。ネ。どうして間違いだと思うの? 人は誰にだって、愛し、愛される権利がある。本人が望んでいようと、いまいとね。どうしてナガセは、その当たり前を間違いだと思うの?」
考えたことがなかったな。俺は愛してはいけないし、愛されないことが当たり前だと思っていたから。改めて問われると、言語化に難しい。だが、アロウズの最後の表情が脳裏をよぎっていくと、答えはあっさりとまとまった。
「過去を……清算していないからだ」
ローズは鼻から溜息を吐いた。
「私が思うに、人生ってマイナスを足していくものよ。環境、関係、時間、全てが人生から何かしらを奪っていく。プラスになることは、人が人に無償で与えるものだけよ」
ローズはもう裁縫を続けるつもりが失せたようだ。飾布をクシャリと握りしめると、膝元に置いたのだった。彼女は続けた。
「人を愛せなくなったら、人生にマイナスしかなくなっちゃうわよ」
「だろうな……だが人生マイナスに振りきれると、人に与えるものなんざ残っちゃいないし、人から与えられるものにも警戒心を抱くんだよ。そうなると自分の持ってるマイナスを、大事にして生きていくのが楽になるんだ」
ローズはちょっと顎を引いて、考えるような仕草をした。
「オリミヤって人。忘れられないの?」
どうして教師時代の同僚の名を知ってやがるんだ? おおかた薬で狂っているときに、洗いざらいぶちまけたんだろうな。ひどい失態だ。
「引きずっているだけだ。俺の帰る場所だった。もうわかった。俺はあそこには帰れない」
「じゃあ戦争でしてきたことが、忘れられないの?」
「ああ……そっちだな……」
赤ん坊を……それも自分の子を殺しているのだからな。
俺がプラスを得ようなんて、殺したあの子に申し訳が立たない。
俺が忸怩たる思いに顔を伏せると、ローズの視線が逸れるのを感じた。彼女は俺を蝕むマイナスとやらを、少しずつ理解しているようだった。
重苦しい沈黙が場を支配し始めたその時である。
『ナガセ。頼まれた件が終わりました。急ぎで医務室に来てください』
教室のスピーカーから、アイリスの声が聞こえた。バーサーカーの解析が終わったらしいな。
間の悪い。すっ飛んでいきたいところだが、アジリアとサクラを呼びつけたところだ。
どうしたものかと視線を泳がせていると、ローズが裁縫道具の片づけをしながら言った。
「伝言くらいなら、私にもできるから。避難訓練の計画だったわよネ。二人に伝えておくわ。言ったわよね。あなたにしかできない事をして」
「ん。助かる」
俺は速足で出口へと歩んでいく。廊下に出る前に、少しだけ立ち止まった。
振り返らないのは、面倒だったからじゃない。気恥ずかしさのせいだと思う。
「もう少し……自分のことを考えてみる」
「私のため?」
「皆のためだ」
「バァカ。死んじゃえ」
ローズの苦笑が、妙に耳に心地いい。




