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Crawler's  作者: 水川湖海
三年目後半【AEU編】
220/241

そこは丘の上

 静かだった。


 自らの息遣いが聞こえるほど。身体を巡る血の流れを感じるほど。


 ただひたすらに静かだった。


 脈打つ鼓動に身体が揺さぶられるほど。身体に擦れる衣服に支えられるほど。


 光のない密室が、ブラックライトでほんのりと照らされている。足元で光は淡い濃紺の通路を作り、それに沿って整列する棚をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 陳列してあるのは遺伝子補正プログラムとなるソリッドメモリ。一本ずつ、大量に並んでいるスティック状のメモリを見て、僕は偶像が並ぶよこしまな神殿にいる錯覚を覚えたのだった。


 光が導く通路の先では、白衣を着た女が青い顔をして佇んでいる。彼女は柱上のマザーコンピューターと、そこに保管された遺伝子補正プログラムのマスターを前に何かをしていた。しかし背後の僕に気づいてか、慌てた様子でこちらへ振り返ったのだった。


「プレスコット博士じゃあないか。君。こんなところで何をしているんだい?」


 僕が聞くと、相手は唐突に声を荒げた。


「遺伝子補正プ! プ! プログラムのアップデートだ! 貴様こそこんなところで何をしている! ディック・アンダーソン!」


「そんなに大きな声を出さなくても聞こえるよ。しかしそのアップデート。僕が担当のはずなんだがね……? 君こそ何をしている?」


 プレスコットはびくりと背筋を跳ねさせると、首を激しく横に振った。


「そ……それは……貴様は化け学が専門だろう? だ……だから私が代わりにやってるんだ!」


 僕は不思議がっていることをプレスコットに知らしめるため、ふぅんと鼻で息を吐く。


「その仕事自体は、門外漢の僕にすらできる簡単なものだ。用意されたソリッドメモリを、遺伝子補正プログラムのマスターに入れるだけだからね。それをねぇ……三回も横取りされるとねぇ……僕も気分が悪いよ」


 プレスコットは言葉に詰まり、すぐに申し訳なさそうに頭を下げた。


「そ……それは……すまなかった。私は決して化学者を下に見ているわけではない……正直に言えば貴様の開発したレインボーガスには吐き気を覚えるが、こういう時世だからな……」


 彼女が吐いた言葉に、僕は思わず顔をしかめてしまう。


「リンボだ」


 不愉快さを隠そうともしない声色に、プレスコットの表情が引きつる。


「リンボガス。レインボーガスじゃない。リンボガスだ。僕はその名前が吐き気を覚えるほど嫌いでね、二度と間違えないでいただきたい。まぁそんなことはどうでもいい」


 僕はため息をつきながら、ゆっくりとプレスコットへ近づいていく。


「君。最近評判がよくないじゃないか。ん?」


 一歩一歩距離を詰めるごとにプレスコットの引きつった顔が、よりぐしゃぐしゃに歪んでいく。


「AEUが虐殺を目論んでいるという根も葉もない噂を流したかと思えば、持ち駒のダガァとカットラスを三躯ずつ損失する。おまけに実験用の遺伝子補正プログラムを持ち出した疑惑が浮上。おっ、そういえば失踪した如月博士。最後に会っていたのは君だったそうじゃあないか」


 プレスコットの目の前で足を止めて、まじまじとその顔を覗き込む。彼女の瞳には涙がいっぱい溜まり、今にもこぼれ落ちそうだ。普段はきつく結ばれている口元も、恐れで戦慄き半開きになっている。そこから漏れるのは、言葉にならない弱々しい呻き声だけだった。


 相当に追い詰められているらしい。


 だが君に余計なことをされたら、僕も困るんでね。彼女の白衣を不躾に漁ると、案の定ポケットにソリッドメモリを忍ばせていた。明らかに持ち込み許可を得ていない私物で、審問は避けられないだろう。


 僕は凍り付くプレスコットの目の前で、ソリッドメモリを振って見せた。


「挙句の果てに、検閲を受けていないソリッドメモリを持ち込んで。領土亡き国家のスパイだと疑われても、反論はできないなぁ」


 返事を急かすように、じぃっとプレスコットの顔を覗き込む。歯を食いしばり強張った四肢を震わせる有様は、強情な子供を連想させた。だがそれも長続きはしなかった。


 プレスコットは涙をこぼしたかと思うと、それを皮切りにくたりとその場に座り込んでしまった。


 僕がたまらずため息を吐くと、それに紛れるようにして弱々しい嗚咽が耳に届く。精神的にもう限界か。少なからずの落胆と、未来を託すことへの不安に、奥歯を噛みしめてしまう。


 弱すぎる。


 こんな奴を信じていいものだろうか。僕の足元で嗚咽を上げるその姿からは、ユートピアでろくな働きもせず惨めに死ぬ姿しか想像できない。レッド・ドラゴンにこいつらのお守りをさせるぐらいなら、ジャンクヤードのところに送ってしまった方が人類のためかもしれない。


 むくむくと、反意が鎌首をもたげる。


 いい事ずくめではないか? 姉さんは殺されずに済むし、お腹の子供も無事だ。それに女しかいなくなったデイドリームに、貴重な男が送り込める。そこから人類は再び繁栄できるだろう。こんな愚かどもの寄せ集めに、期待する必要はないのだ。


 しかしながら……どうやら僕はこの間違いを、数回繰り返しているらしいのだ。


 三度目のため息。これは限られた選択から、一つしか選べない弱者の叫びだった。


 もう決まっているんだ。


 僕はソリッドメモリを、プレスコットの膝元に投げて返してやった。


「君がヒス女と作ったこのバーサーカー抗体。遺伝子に組み込んだところでクソほどの役にも立たんぞ? AEUはL系統が流出したとして、G系統を使用することにした。それも抗体のあるG1ではない。新しく226避難所の帰還兵から基準をとったG2だ。もうアンチ・レイヴンでなければ対応できん」


 プレスコットはしばらくぼんやりしていたが、丸くなった目で僕を見上げた。


「は? へ?」


「フランソワーズは死んだ……証拠となるバーサーカーサンプルはもう届かん。トリスアギオンも稼働状態に入り、もう誰にも止められん。もうここで粘る必要はない。逃げたまえ」


「逃げるって……どこへ?」


「チャイナ野郎が持ってきた青亀があるんだろう? 告発者互助組織計画――エクソダスだったか。実行に移した方が良いぞ」


「何で知って――え? どうしてそこまで知ってる!?」


 僕はプレスコットを無視し、ポケットから小さな注射器を取り出した。彼女の左手をとり、甲の部分に充填された物質を注入する。


 多少痛むはずなのだが、プレスコットは全く抵抗しなかった。観念した様子で、得体の知れない薬がうち込まれるのを見守っていた。


「GPSか……? 私を拘束するのか……?」


「人の話を聞いていたのかね? 逃げろと言っているんだ全く……。これはエントロピニウム。跳躍座標が記録してある。誤差半径数キロあるが、そいつはきっとお前の前に現れるだろう」


 これで僕は惨殺される姉を救えず、失意のまま冬眠し、ユートピアで腹を割られて殺されることが決まってしまった。


 そう思うと無性に腹が立ってきた。姉さんも、僕も、為すべきことを為したのに死ぬのだ。それなのに何もできなかったプレスコットが、ユートピアで生きると思うとやっていられない。


 やるせなさが僕を野蛮にさせた。へたり込むプレスコットの尻を蹴飛ばして、うつ伏せに倒してしまう。そうして自分でも不思議なほど、冷たい声が喉を出た。


「いつまでそうしているんだ? 僕は通報するぞ。とっとと逃げたまえ」


 プレスコットはふらつきながらも立ち上がると、出口とは正反対のマザーコンピューターの方へ小走りで向かった。そしてあろうことか、マスタープログラムを盗もうと手を伸ばしたのだった。


 君も『気づいた』か。だが『ここでは』どうしようもないんだ。警備が飛んできて終わりだ。


 プログラムは姉さんが、命を賭して持っていく。余計なことをするな。


 僕はプレスコットの後ろ髪を引っ掴むと、思いっきり引き倒した。悲鳴を上げる彼女を踏みつけて、二度とふざけた真似ができないよう、彼女のマザーコンピューターの間に割って入る。


「欲張るんじゃあない。さっさと行きたまえ」


 僕は腰砕けになって床の上でのたうつ背中を、出口の方へと蹴とばしてやった。


 プレスコットは何とか立ち上がると、そろそろと出口へと歩いていく。しかしその道すがら、未練がましくマスターが収められたマザーコンピューターを、何度も振り返ったのだった。


 プレスコットが暗闇に消え、自動ドアの開閉音が聞こえた。


 僕は最後のため息をついた。


「こういう童話を知っているかな?」


 聞こえないと知りつつも、誰かに喋りたくてしょうがない。


 特に主人公である君にはなおさらだ。


「未来、未来あるところに、十五人のお姫様がいがみ合って暮らす国があるそうだ」


 そこはユートピアの丘の上。


「ある日。赤き竜が国を襲った。十五人のお姫様は力を合わせて戦い、二人を失いながらも竜を退治するらしい。するとどうしたことか。赤き竜の呪いが解けて、立派な王子様が現れた」


 その二人に、姉が含まれていればよかったのに。


「お姫様は王子様が気に入ったようだ。傲慢で、高圧的で、支配好きの赤き竜とは違い、そいつは呪いをかけられる前みたいに、温和で、思慮深く、それでいて勇敢だったからだ。婚約者がいた三人を除いた全員が求婚したが、王子様はそのどれもを受けなかった。自分が殺した二人の姫君に、とてつもない罪悪感を感じていたからさ」


 義兄さんも諦めてくれよ。もう僕は疲れた。でも義兄さんが繰り返す限り、姉さんがそれに付き合う限り、僕一人逃げることなんてできない。


「ある日、魔女が王子様の元を訪れた。二人を生き返らせてやる。代わりに世界の王を倒す兵士に加われと。王子様はそれを受け――魔女に呪いをかけられ、もう一度赤き竜となり、化け物の中に加わった」


 もうこれで何度目だ?


 記憶までは持ち越せない。


 あるのはきっと負けたのだろうという悲しい現実と、それを繰り返す虚しい未来だけだ。


「ま。結局魔女は負けて、罰として赤き竜もろとも過去に戻されるんだがな。赤き竜は放浪の末、未来未来あるところにある、十五人の姫君が治める国を襲うことになる」



 これで終わるといいが。



「何度でも繰り返すがいい。僕はここで待っている。君が――辿り着けなくなるまで」

海だ。海だ。

                アナバシスより――

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― 新着の感想 ―
この話での「レインボー」と「リンボ」は逆だと思います。 「リンボ」の方が開発者も忌避する異名です。 ---- 「そ……それは……すまなかった。私は決して化学者を下に見ているわけではない……正直に言え…
[良い点] え、なに、タイムリープ物なの!?
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