再誕
あくる日。
私はお絵かき道具を抱えて教室に向かった。
もう何もかも壊れた後だと思うんだけど……あんな風にお願いされると無下にはできない。ローズお姉ちゃんがまた壊れちゃうのは嫌だし、最近アジリアお姉ちゃんが化け物に優しくなったのも気に食わない。アジリアお姉ちゃんまで毒されたらこの世の終わりだ。
心細くなって振り返ると、ローズお姉ちゃんがひたひたと足音を殺しながらついてきている。
ローズお姉ちゃんと目が合うと、口元を緩めて優しく微笑んでくれた。
「大丈夫……きっと……悪いことにはならないから……」
それはありえない。多分、次は私が壊されると思うんだ。
でもその有様をローズお姉ちゃんが見れば、きっと考えを改めてくれるだろう。そうすればみんなアクマを嫌って、追い出してくれて、昔みたいな平和が戻ってくるに違いない。
これはそのための我慢だ。
教室に入ると、アクマが隅のデスクで書類仕事をしていた。
あいつは私が立てた物音に反応して、ふっと顔を上げる。すると一瞬だけ私と視線が重なった。
アクマの悲痛な顔が見えたのは、ほんの僅かだった。アクマはすぐに視線をそらして卓上の書類をかき集めると、足早に隣の部屋に逃げようとした。
「どこ行くんだよ……」
クソみたいな話だけど、お前がいないと始まらないんだよ。
呼び止めると、アクマが怯えているみたいにびくりと身動ぎした。そのさい腕の中からペンがこぼれ落ち、アクマはそれを拾おうとして書類を床にぶちまけてしまった。
何してんだか。ため息すら漏れない。
アクマが惨めに這いつくばって、書類をかき集める様をじっと見下ろす。こうしてみると、普通の人間なんだけどな。だから余計に悪質で、おぞましく思えるのだ。
「仕事してたんだろ? 続けりゃいいじゃん」
「あ……まぁな……だが他に用事が出来た」
アクマはしどろもどろになってあいまいな答えを返す。
嘘つけ。きっと私が来たから、欲望に負けてボーリョクを振るわないように逃げたいだけだろ。逃がしてたまるかってんだ。
これ以上誰かが狂ったり、毒されたり、失くしたりする前に、ケリをつけてやる。
「おい……クソアクマ……」
話しかけると、アクマは意外そうに目を丸めた。
「ん? ど……どうし……た?」
あー、話しかけられるだけでむかつく。多分、自分も毒されないか、怖いんだと思う。
深呼吸だ深呼吸。気持ちを落ち着けてと……あれ? 私何をしようとここに来たんだっけ。アクマに相対するのに集中して、うっかり忘れちゃった。
そうそう! アクマにもう一度チャンスを与えるふりして、その本性をローズお姉ちゃんに見せるんだった。
「いいよ」
やばい。声が上ずっちゃった。緊張しているのがバレバレだ。
平常心、平常心。弱みを見せたら負ける。
「何が?」
アクマが一目見て、それとわかる作り笑いを浮かべながら聞き返してくる。
「ぎゅーってしても」
今度は声がかすれた。こんな不味い餌じゃ、化け物は食いつかないんじゃないだろうか? でも怖くて仕方ないんだ。このまま殺されるなんて絶対に嫌だ。ローズお姉ちゃんはちゃんと廊下で見ていてくれるよね? ああもう頭の中で考えがグルグルして、軽いパニックになっちゃいそう!
アクマは心底辛そうに視線を伏せると、とっても恥ずかしそうに額に手を当てた。
「すまん。許してくれ。あれは俺が悪かった」
同じセリフを。いつか聞いた気がする。
あれは――初めて冬を越した後、壊れたピコのぬいぐるみをもって、ナガセを問い詰めたときだ。
何で殺したの? 守ってくれるんじゃなかったの? 寂しそうだから上げたんだよ?
その時ナガセは、今みたいな顔をして、ただただ聞き入っていた。
言い訳もせずに、噛み締めるように、ただただ聞き入っていた。
そしてさっきの台詞を吐いて……ナガセはアクマに変わった。
「そんなの聞きたくないよ!」
思いもせず絶叫が喉を迸る。今度はアクマが何に進化するの? アクマ以上の化け物なんて想像できない。そんなのに化けられたら、本当に終わっちゃうじゃないのよ!
アクマは目を白黒させながら、ごくりと音を鳴らして生唾を飲んだ。
「で……でも……俺にはそれしか……その……お……俺は……できない……」
それで……言うに事欠いてそれかよ……。
怒りで目の前に、星が散った。
「うるせぇよバーカ! そうやってピコを二回殺した後、お前何したよ! ますます怖くなって! 進み続けて! 振り返らない! 自分は変わらないくせに、周りだけどんどん変えていって! それで許せだぁ!? 頭沸いてんのかバカヤロー!」
アクマが私ごときの罵倒に、身動ぎして後ずさる。
このまま逃がしてしまってもいいけど、私はすかさず距離を詰めて余裕を与えなかった。
今まで押し殺してた気持ちが、抑えつけられてた想いが、やっと口にできたのだ。
溢れ出る感情が、無謀と言える勇気に変わり、足をアクマへと進めていく。
「お前のせいで、みんなが優しいハグをしてくれなくなったんだ! 何とかしろよ!」
進んだ結果、こつんと額がナガセの胸に当たった。
アクマが助けを求めて、視線をさまよわせる気配がする。
「ンなことしたって、誰も助けてくれない」
私もそうだった。
みんな自分のことに必死で! 誰も本当の私のこと――ローズお姉ちゃん以外は!
今度は逃げようとして、私の脇をすり抜けようとする。
「また同じこと繰り返すんだ?」
釘を刺すと、悪魔は塩の柱みたいに棒立ちになった。
私はもうそれを許さない。
お前の本性をさらけだしてみろよ!
おずおずと、ナガセの腕が私の背中に回った。
そのまま力がこもり、私を抱きしめてくる。
冷たい氷の人形に、抱きしめられたようだ。触れ合った肌からは、温もりはおろか、感情すら伝わってこない。ただ細やかに震えていて、次第に力がこもって、無機質な万力となって身体を締め付けてくる。
あ。やばい! このままでは二の舞だ! お姉ちゃん。助けてお姉ちゃん。お姉ちゃん! お姉ちゃん!
パニックになりつつ、ローズお姉ちゃんがいるはずの廊下を盗み見る。窓ガラスに映る影が小さく揺れて、ローズお姉ちゃんが教室へと入ってきた。
「たす……助けて……!」
アクマの腕から逃れようともがくと、締め付けが強くなった。助けを求めてローズお姉ちゃんへと伸ばした手が、虚しく空を引っかく。
逃がさないつもりか……でもお前が救いようのない馬鹿だって知ったローズお姉ちゃんが、もうすぐお前をぶっ飛ばしてくれる。
息が苦しい。もう声も出ない。早く助けてお姉ちゃん。
視線を上げると、ローズお姉ちゃんの顔が目と鼻の先にあった。この状況に似つかわしくない、優しい吐息がそよ風のように頬に触れた。
「聞いてあげて」
聞いてあげてって何を――って……化け物がさっきから、口先で何かをぶつぶつ呟いている。怖さが風船みたいに膨れ上がっていくんだけど!
混沌のるつぼに飲み込まれて、喉から絶叫が迸りそうになる。
ローズお姉ちゃんが頬を撫でて、落ち着かせるためか額をこすりつけてきた。
「今まで誰も聞くことができなかった言葉だから。私もつい最近聞いた。聞いてあげて」
だから何を!?
鏡を見たら瞳孔は、針の孔みたいに狭まっていただろう。アクマを見上げると――噓でしょ!? アクマは私よりも怯えていて、激しく憔悴しているのだった。
小声で、子供のように泣き言をこぼしている。
「いかないで……ひとりにしないで……おねがい……おねがいだから……」
締め付けがどんどん強くなっていく。駄目だ。息を吐くことも吸うこともできない。窒息しちゃう。このままだと死ぬ。助けて。早く助けて。
アクマは私が死にそうなのに、上の空で呟き続けている。
「まもるから……そばにいるから……」
お前には無理だよバカヤロー。さっさと離せ畜生!
「そっと身を委ねて」
ローズお姉ちゃんは私に囁くと、アクマに何ごとかを話しかける。初めて聞く言葉で、イントネーションはサクラお姉ちゃんがたまに呟くものに似ている。どれも驚いたり、怒ったりするときに、とっさに発する妙な悪態みたいなものだ。
だけどローズお姉ちゃんは短い単語じゃなくて、長い文章を流暢に繰り出したのだった。
*
それが日本語だと知ったのは、ずっと後のことだった。
思い出せば、ローズお姉ちゃんはこういっていたんだと思う。
『ナガセ。あなたは教え子にも、こんなことを繰り返していたの?』
*
「違う!」
熱いものに触れたように、アクマが私から手を離した。急いで腕の中から逃げようとしたが、ローズお姉ちゃんが私ごとアクマを抱きしめて逃げ道を塞いでしまう。
「ローズお姉ちゃん! 助けて! ダメだよ! こいつは――」
「パギ。もうちょっとだけ。もうちょっとだけ」
ローズお姉ちゃんは私を逃がしてはくれずに、アクマごと抱きしめてきた。
凍えるように冷たいアクマの身体。ほんのりと温かいローズお姉ちゃんの身体。
小刻みに戦慄くアクマの腕。身体にまかれたお姉ちゃんの腕。
引きつったアクマの吐息。落ち着いたお姉ちゃんの吐息。
その二つに挟まれて、気が狂いそうになる。
いったい何が起こってるの! いったい私は何をされるの! そして……そして……
私を抱きしめようとする、アクマの様子がおかしい!
何をそんなに怯えているの……私の方が怖いんだよ?
何をそんなに怒ってるの……私の方が怒りたいんだ!
何を……何をそんなに……ッ……悔やんでるんだ! お前は辛いって、苦しいって、助けてってッ! 何も言わなかったじゃないかッ!
「そっと。そっと。鳥が卵を温めるように」
ローズお姉ちゃんが囁くと、アクマの腕が私に巻き付いた。
他のお姉ちゃんや女たちみたいに、私を独占しようとローズお姉ちゃんから奪い取ろうとしない。ローズお姉ちゃんが支えきれない場所を補うように、私の背中に回された腕に力がこもっていく。
怖くて身を縮めると、腕は遠慮して引いていった。
「力の加減……知らなかっただけなんだね……?」
ローズお姉ちゃんが囁いた。多分。アクマと私、二人にむかって。
「分からない……」
アクマが呟くと、ローズお姉ちゃんはアクマごと私を抱きしめてきた。
ギューッと、私にアクマの腕が押し付けられる。
とても怖い。力は籠ってないけど、緊張で締め付けられて口から心臓を吐いてしまいそうだ。
より身を縮めるけど、そんな抵抗すぐに限界が来る。ガタガタと震える身体を、男の体温が覆っていく。やがて私は身を縮め続けることができなくなり、不覚にもその腕に身体を預けてしまった。
あったかい。
すごく。すごくあったかい。
意外な心地よさに身を委ねると、ローズお姉ちゃんが優しく微笑んで、私からするりと腕を抜いた。
私はアクマの腕の中に残されて、どうしていいか分からず呆然とお姉ちゃんを見返した。だけどお姉ちゃんはまるで自分が邪魔者だと言わんばかりに、振り返りすらもせずに教室を出て行ってしまったのだった。
不思議と怖くなかった。だけど私はどうしたらいいか、わからなかった。
このままいるっていうのも気まずいし……
不意に――ナガセがピタリとなくのをやめて、身体がもげそうな力で私にしがみついた。
「やめろ! 来るな! もう手出しはさせんぞ!」
ぐぇ! 化け物が息を吹き返した。
アクマの爪が肉にたてられて、腕がぐいぐいと身体を締め付けてくる。その力はさっきまで感じたあたたかい余裕が欠片もなくて、冷たい非情さを牙にして私に突き刺さった。
死ぬ……このままだと確実に死ぬ。だけど叫べそうにもない。
でもやっとわかったぞ。
こいつは今まで私たちを見てなくて。
今じゃない過去をどうにかしたくて。
だから誰かに許してもらいたくて。
それでも何も見つからなくて。
ローズお姉ちゃんに教えてもらったことで、こいつの馬鹿げた行動を振り返る。
自分なりに頑張って。
正しいと思えることをして。
だけど誰にも認めてもらえず。
理解も意見もされなくて。
進むしかなくて。
その方法しか知らなくて。
寂しくて。
けっこう。可哀そうな奴だった。
「何必死になってんだよ。ここにいるよ」
ぽつりとこぼした言葉は、肺の空気が絞り出されていたこともあって、掠れたものになった。
それでも化け物の耳にはちゃんと届いたようだ。びくりと痙攣して、身体を締め付ける力が少し弱まった。
もう少し。もう少し。
「お前が何を見て、何を悔やんで、何を恐れてるのか知らないよ。だって私には見えないから。でもね」
最後の力を振り絞って、ぎゅっと化け物に抱き着いた。
「私はここにいる」
化け物は、自分が何をされているか理解できないようだった。魂が抜けてしまったように、私を抱きしめたまま微動だにしなくなる。やがて、力を弱めることで私に答えてくれた。
「ずっと。ずっと。ここにいる。お前が、化け物を残して何処かに行かない限り」
その瞬間――
「うぉぉぉぉ……くく……くぅぅぅぅ……」
化け物が悲鳴を上げて、むせび泣き始めた。顔を見上げると、ボロボロ泣きながら悔恨に顔を歪めて、苦しそうに息をしている。今にも死にそうな、凄絶な表情だ。
「ああああああ……赦してくれ……赦してくれ……あああああああ……」
いや……多分、化け物は今まさに死んでいるんだ。
涙がこぼれるたびに禍々しさが抜け落ちていき、弱さや儚さ、脆さがさらけ出されていく。
今までだったら、噛みつかれるのが怖くて手を出せなかった。だけどこれなら私にも触れそうだ。そっとアクマの頭に手を伸ばして、優しく撫でつけてやった。
アクマの咽びがより一層激しくなる。慰めてやってんだから、泣くんじゃねぇよ。この意気地なし。
「ずっと……ここにいる……だからちゃんと見ててよ。私たちを見ててよ」
化け物は――死んでしまった。もうどこにもいない。
代わりにナガセは――私にしがみついて、わんわんと子供のように泣き喚いた。
死んじゃった。あんな死にそうにもない化け物が、こんなあっさり。なんか拍子抜けだ。
ローズお姉ちゃんは、ちゃんと最後まで見ていてくれたらしい。
廊下に面した窓から、影がちろちろ動くのが見える。
私は手で追い払う仕草をした。
だって。
お兄ちゃん。こんなカッコ悪い姿を見られるの、きっと恥ずかしがるだろうから。




